かくのごとし
コロはダイニングの上にぺたりと座って、なんだかちょっと緊張した面持ちをしていた。首輪も犬耳も肉球もおなじでも、――着衣のコロ。いままでは、この家において、ありえなかったこと。
飯野の予想通り、レースつきの白いキャミソールはコロによく似合った。その下には、レースとおなじくらい薄くて柔らかでぴかぴかに白いシンプルな下着を、つけた。胸がふくらみはじめた少女の胸を気づかうかのようにして優しく包み込む、成長期のために設計された、ささやかなブラジャー。
すべてがちゃんと調和していた。
飯野は立ち上がり、腰に手を当て、コロをよくよく観察して、うん、とここは素直に褒めてやる。
「似合いますよ、コロ」
「……わうぅ」
コロはどうにも落ち着かないようで、すんすんとキャミソールの匂いを嗅ぎまわっている。
しかしじっさい、コロ以上に動転しているのは、かわいそうに、――未来だった。
「ねえ、坊ちゃん。コロ、かわいくなったじゃありませんよ」
「……コロはもともと、かわいいもん……」
愛想のかけらもない拗ねた態度。未来のその態度を、しかしいまは飯野は咎めない。
――主人が犬に見惚れているのだ、と知っているからだ。
じっさい……飯野でさえも、驚いていた。いや、小学校に行くときにはシンプルでも質のいい服を着せてやるから、そのときにだってわかっていたはずだ。ほんとうは。
コロは――天王寺公子は、服を着るとそれだけで、驚くほどに可憐な少女だった。
たとえいますんすんすんすん自分の服が馴染まなくって嗅ぎまわって、そのたび首輪の鈴がリンリンリンリンと鳴って、犬耳のカチューシャも肉球のグローブもそのまんま、あくまでもそのまんまであったとしても、――この白いキャミソールを着るだけでぞっとするほどコロは人間らしく、なった。……かわいい女の子に、なった。
飯野は思わず内心でつぶやく、……わたくしもこういったところには才があるのですよねえ、その白いキャミソール……。
コロだけがいまこの場で無自覚で、どこまでも無垢に顔を上げる。
「……あぅ。コロ、これ、着るのですか? これから、ずっとですか?」
「ええ。ずっとです。お家にいるときにも、お風呂以外は、ずっと着させますよ」
コロはわずかに唇をすぼめる。不満があるときのコロの癖だ。……だが人間に対して口答えしない、ということを、コロはほんとうによく守っている。
「着心地はどうですか」
「やらかくて、ふかふかなんですけど、コロ、おうちじゃお洋服を着なかったから……お外だけのものだと思ってるから……」
「まだ違和感がありますか」
コロはこくんとうなずいた。
「まあ。それは。いずれ慣れます。ねえ、坊ちゃま。コロ、かわいくなったじゃありませんか」
「……コロは、もともと、かわいいもん」
天王寺未来は、やはりここでも、とてつもなく不服であった、のだ。
――そして夜を迎える。きょうも夜は来る、コロが着衣の犬として生活をはじめたいちにちめ、――未来にとってはある種はじめてである夜が。
夜。未来の寝室。ケージのなかのコロは服を着たまますやすやと寝ている。眠るときに服があるという感触にまだ慣れないのかときおりうぅん、と声を上げてキャミソールを前足で引っ掻くが、目覚めることはなく、すやすや、すやすや眠っているようだ。
翌日も学校なのだから寝なければいけない。わかっているのに、未来は眠れなかった。それこそコロがうぅん、と寝ぼけて声を漏らすとそのたびうー、とわざと声を上げて、両手をバンザイするかのようにしてごろりと大きく寝転んだ。枕もとのカッコいいデジタル時計の緑色の数字をなんどもなんども見るけど、時間がうまく進んでさえもくれない。一分が長い。現在、ゼロ時三十八分、深夜だ。
未来はコロほど寝つきのいい性質ではない。けれども小学生の少年で、学校でもめいっぱい遊んだり動いたりしているのだから、病的なほど不眠症というわけではない、……のちには未来は慢性的な寝つきの悪さに苦しむことになるが、いまはまだ、寝つきが悪いなあと自分自身で思う程度で済んでいた。
ふとんに入って電気を消したのは夜の十時のこと。二時間半以上、経っている。この時代はまだケータイもそんな普及しているわけではないし、パソコンも未来の部屋には置いてない。眠れない夜にひま潰しさえもできない。もっとも、この時間であればまだ一階に飯野がいる時間帯だし、未来もまだいまならと思っていた。十一時を過ぎたあたりから、下に降りて飯野にあったかいココアでもつくってもらおうかともちょっと思った。いままでだったらそうしていただろう、ひと月かふた月にいちどくらいはそういったことがあった。……けれどもきょうは、きょうにかぎってはどうにもそんな気になれなかった。その理由は、……いまの未来本人には、わからない。
これから自身のからだに、男性として、大きな変化が起こることを、未来は、知らない。……まだ。
コロが声を漏らすたびになんだかせつない。よくわかんないけど、くるしい。
コロのキャミソールがひらひら、ひらひら、揺れてるんだなって思う。
……とってもかわいかった、と思う。でも。そのかわいいっていうのは、その。女子が、きゃーかわいい、とか言うときの、かわいい、じゃなくって。なんていうのかな。なんていうんだろう。わかんない。美人、っていうのもちょっと違うんだよな、なんか、よくわかんないけど、ペットに美人っていうのは、いや、コロは美人のワンちゃんだけど、でもなんかその、違う、違うんだよな、なんていうんだろう……。
コロはもともとかわいかったもん。
けど――あの、女の子が好きそうな、ひらっひらした布切れみたいな、服……。
未来は、思い返せば思い返すほど、くらくら、していた。
デジタル時計は一時を指す。飯野もさすがにもう寝てしまっただろう。さっきからコロの気配も落ち着いた。寝息だけがかすかに聞こえる。深い睡眠に、入ったのだろう。
未来は諦めて目をつむった。
まどろんで、かすんでいく意識のなかで、ひとつだけ、自分でわかったことがあった。
……コロは、ああいう格好をしていると、高学年のお姉さんに、似ている……。
……ゆめを。……みた気が、する。
覚えてはいない。だが……とろけるような、夢、だった。
たぶん、コロが、そこにいた。……それだけのこと。
翌朝、未来は、違和感を感じて目覚ましよりも早く起きた。デジタル時計はまだ朝の五時半を指している。コロは、すやすや眠っている。
初夏。外はすでに明るいはずだが、この部屋は分厚い遮光カーテンがあるので、飯野が起こしに来るまでは暗い。そもそも飯野は朝の六時に起こしに来る。未来もコロも寝ぼけまなこで起きる。飯野が来るよりも早く起きるということは、あまりないことだった。
違和感。違和感が、ある。なんだろう。なんだ? ――身体を起こす。下半身がなにかどろっとしてぎょっとする。おもらし? いやだ、そんなの、四年生にもなって。みっともない。恥ずかしい。ごまかさねばとほとんど反射的に思って、パンツのなかに右手を差し込んだ。ますます、ぎょっとする、……なんかやけにねばねばしてる。それに、なんか……違う、においが、する……?
未来は右手を引き抜いて、わっ、と声を上げてしまった。んぅ、とコロが声を漏らして、慌てて口をつぐむ。
――白いものが右手にまとわりついている。
未来はどうしていいかもわからずにただ呆然と自分から出てきたのであろうその見知らぬモノを、眺めた。鼻に近づけてみた。やっぱり、尿とは、違うにおいがする。それにもっと強いような……あ、ああ、コロ。コロに気づかれちゃ、いけない。コロは犬だから、においがすごくわかって……コロはとくしゅなケンシュだからそうでもないって飯野さん言うけど、でも、でも、これをコロに気づかれたら……気づかれたら――。
気づかれたら、どう、なる、んだ?
……わからなかった。未来には、わからなかった。
ただ、わかることがあるとすれば、きのうコロがキャミソールを着てからというもののなんだかずっと気持ちの悪かったどろどろしたものが、なんでだろう、状況はなにひとつ変わってもいないのに――すこしだけ、もっとコロのこと褒めてやろっかなと、思えたことだった。
……眠ったから、すっきりしたのかな。未来は、そう思うことにした。
未来は起き上がり、べたついたパジャマのズボンとパンツを我慢しながら一階の洗面所に抜き足差し足で行って、ズボンもパンツも新しいものに着替えて、お風呂場でがんばってねばりついたズボンとパンツを洗っていると、……飯野に、見つかった。
未来も、公子も、おとなになる。
……彼らの男女としてのかかわりは、かくのごとしで、はじまった。いったんはね、……そういうことで。
犬の恥じらい 柳なつき @natsuki0710
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