そういうわけですので

「そういうわけですので、坊ちゃん。コロに服を着せます」

 そういうわけですのでと言われても、未来には、よくわからなかった。コロに服が必要? なんで? そう思っているから、子どもらしく、過剰に顔をしかめてみせる。飯野はいまもサングラスをかけているし、そもそも表情がうまく読み取れないのだ。

 未来はコロに服を着せてしまうと残念だなと思っていた、――もっとも九歳の未来本人にそんな感情の正体はつかめていない。

 いつものリビングダイニングルームに、未来と飯野はいまふたりでいる。ダイニングテーブルを挟んで、向かい合って。コロの風呂は使用人のひとりに任せた。コロはこの家の人間たちを、未来を頂点として、みな従うべき相手と捉えているので、抵抗もなくいまごろ風呂でいい子に洗われていることだろう。

「えっ。なにそれ。なにが、そういうわけで、なの?」

「コロもいつまで経ってもはだかんぼじゃかわいそうでございましょ」

「えぇ、けど……コロはずっとそうだったし、コロは犬じゃん」

 さあ、――飯野の腕の見せどころ。

「犬もね、おとなになるのですよ」

「知ってるよ。そのくらい。おれだって学校の図鑑で読んでるんだ。けど、コロは図鑑にのってないとくしゅなケンシュだから、人間とおんなじように歳を取るんでしょ? おれ知ってるよ」

「ええ、それはその通りでございます。コロは特殊な犬種ですので、人間とおなじ速度で歳を取ります。……坊ちゃんもこのごろすごくおとなになりましたでしょう」

「うん。おれだっておとなになるよ」

 じっさいには、小学四年生の春のいま、未来はまだまだ背丈も低く、少年というよりも子どもといった表現のほうが似合う段階であったが。

「コロもね、おなじなのですよ。……コロも犬としておとなになるのですよ」

「でも犬は犬でしょ? なんで服を着なきゃいけないの? コロがかわいそうだよ。きっと服を着るのも嫌がるもん」

 出た――と、飯野は思う。

 コロがかわいそうだよ――未来の、最高のたぐいの、口癖。

 ああ、だって、未来は――飼い主として本気でコロのことを想ってそのように言っているのだから。

 だからこそ、おとなで、先の読める飯野は、ふとひとりごちてしまう。

「……いまはわからずともよろしい」

「え? なに? 飯野さんいまの聞こえなかった」

「……いえ。……それでは坊ちゃん、このように考えましょうか。コロもこれからおとなの犬になってくのですから、ちょっとくらい、おしゃれさせてあげたいとは思いませんか?」

「えぇー? おしゃれー? そんなん女子の言うことじゃんー。おれは男子だよー」

「しかし、坊ちゃん。コロにりぼんをつけたら似合いましたでしょう」

 コロが犬として馴染みはじめたころから、犬耳のカチューシャをつけたコロのきれいな長い髪を、飯野はよくいじってやっていた。少女趣味のりぼんをつけたり、かわいくツインテールにしてやったり。べつに飯野が趣味でそうしていたわけではない。……未来に、見せるためだ。いまよりももっと幼かった未来は、女子のすることだなんて言ってリビングの隅で無理に絵本を読もうとするも、やっぱりコロのことが気になってしまい、けっきょくコロの髪の毛遊びに参加して、ただ純粋に、かわいい、かわいい、コロはかわいいねえと楽しそうにしていた。じっさいりぼんをつけたコロはとてつもなくかわいかった。未来にかわいい、と言われるたびに、照れていた。……未来がそのときかわいいかわいいと無邪気に言っていたのは、むろん、女子どうしのおしゃれごっこのそれではない。ぱっと見はただ、微笑ましい風景でも――未来は少年であっても男性だ。

 未来はそのときのことを思い返して、よくよく思案した。

「……うん。ああいうときのコロは、かわいい」

「それとおなじことです。飯野はコロにもっとおしゃれをさせてあげたいのですよ、……女の子っぽく。お洋服もあの子は似合うと思いませんか」

「うーん。それは、似合うだろうけどさー。コロがかわいそうじゃないかなあ」

「かわいそうじゃないように坊ちゃまから言ってやってくださいよ。……コロはね、もっと、かわいくなれますよ」

「うまくいくかどうかわかんないよ?」

 未来はおとなぶって、神妙にする。飯野はサングラスの裏に微笑ましい苦笑を隠して、言った。

「コロは坊ちゃまの言うことなら聞きますよ」

「それも、そうだけどさー」

 ぶつぶつ言いながらも未来はすでに納得している。なにしろ、楽しそうだ。コロがかわいくなったところをあれこれ想像しているのだろう。飯野は思う、やはり幼くとも、人間はこのころからすでにどちらかの性である――。

 未来の言うことならコロは聞く。

 そのことの異常性を、……いまだ彼らは理解していない、まったくふつうだと思っている、ああ、そのことそのものの異常性、よ。





 コロに着せる服は、飯野が事前に抜けめなく考えていた。ちゃんと隠れるべきところが隠れて。けど、出すとこは出して。裸体でものびのびとふるまうこの子どものスコンと抜け落ちた羞恥心を、変に取り戻さないように。そう、目指すは単に隠れるところが隠れる裸体。必要最低限の着衣。ふむ。とりわけ、変に難しく考えることもないか、ただただそうね、シンプルに……。けどまあちょっとは、かわいらしく。……あの子も、女の子なのだから。

 行きついた先は、上下の清楚な下着に加えて、薄手の白いキャミソール一枚、というところだった。飯野は事前にコロのキャミソールを超一流のブランドメーカーにオーダーメイドで発注していた。十枚揃って届いたぴかぴかの真っ白いキャミソールは、ぱっと見目立つところはない。だが上質で、デザインも飯野の注文通りに洗練されていた。裾のところにはレースがくっついている。

 このレースが、店頭に並ぶようなキャミソールとは、すこし違う。若干長めで、キャミソールの裾というよりはとてつもなく短いミニスカートともいえる丈だ。レースはそれぞれ絶妙に長さを変えて、三重に重ねられている。一枚一枚のレースはとても薄く、コロが動きまわればひら、ひら、ときれいに広がったり膨らんだりするであろう。

 加えて、その生地は、とてもなめらかだ。手にぴたりと張りつくようでいて、撫でるとかすかなざらつきとともに手が心地よく滑っていく。……犬の毛皮を撫でる感触に近づけようとしたのだった。

 一見ふつうの服に見えても、――そのじつ、犬の子のためにつくられたキャミソールであった。

 コロがいままで通りころころと無邪気に遊びまわれば、レースがきれいなかたちに揺れるはず。膝に乗っかっても、おすわりをしても、あおむけになっても、そのレースはめくるめく光のようにひらひらきらきらとして、……コロの犬性を邪魔することは、ないはずだ。

 コロは命令すれば家のなかでもちゃんと服も着るだろう、あの子にとってはそんなのはどちらでもいいのだ、……飯野がため息を吐くのはむしろコロがほんとうにコロとなってしまったことだ。呆れか、憧憬か、はたまた嫉妬か。……それはまあ、あのふたりのというよりは、飯野の問題なのである。

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