お洋服

 かぽん。

 夜中でも、ししおどしは休まない。

 使用人たちによって敷かれたふとんは本日もふかふかとして主人に寝ていただくのを待っている。

 そのうえで、……修学旅行の女学生のごとく、天王寺薫子はくつろいでいた。身に着けているのは、寝るとき専用の上質な白い和服。さざ波のごとく、なめらかだ。服に寄る皺さえも、古代ギリシア時代の彫刻のようで。

「あの子すでに犬なんでしょう」

 天王寺薫子は、おかしそうにくすりと、笑った。口もとに手を当てて上品なようでいてそのしなだれかかるような視線は、いっそ潔いほどに、下世話である。

 隣に騎士のようにひざまずいて控えている飯野は、はい、と神妙にうなずいた。

「羞恥心というものがないですねえ」

 いや、じっさいには――公子は、顔を赤らめていた。飯野は気づかなかったが、公子を風呂に入れてやるとき、『あなた、胸がふくらみかけてますか』という質問に対して――シャワーで濡れる髪の下で、公子はたしかに、恥じらっていた。決定的に。……けれどもそのことを飯野は知らない。飯野が気づいていないのだから、その情報は、薫子にいくこともない。

 薫子は神のごとしだが、全知全能の存在ではないので、知らないことは知るよしがない。

「よく、まあ、そこまで。いい子に、育って」

 よく言う……と、飯野は思った。もちろん、言いはしない。

 薫子はふたたびくすりと笑う、……いろんなことを、わかっていながらして。

「それで? なにが問題なのでしょう。公子が犬なら放り置けばよろしいのではないの。服もほしがらないでしょう。むしろ犬に服を着せては窮屈でかわいそうだわ」

「……あの子ももうすぐ初潮を迎えます」

「そのときだけオムツでもさせときなさいよ。犬だってそりゃメスなら月経くらいありますればね」

「それは、そうなのですが。……しかし。月経が来てしまうと……問題がございます」

「あはは。問題、ねえ。おもしろいわ、問題って、なあに?」

 薫子は、……わかって、いるのだ。

 そのことさえもわかった飯野は、顔をしっかり上げて、瞳をぎらりと光らせるかのようにして薫子を直視した。……薫子を直視できる人間が、この世にいかほど、いるものか。

「妊娠の可能性が発生します」

「……ふふっ。あの子はセックスなんかしないでしょう。興味がないはずだわ、いえ、でもそうね、犬って人間に恋をしてしまったりするのかしら? ふふふっ、そうならないように、アコ、あなたがコロの性欲を処理してあげればよいのではなくて? じっさいやんちゃなワンちゃんにはそうやって人間さまがなだめてやることもあるらしいじゃないの。コロはねえ、さすがに避妊手術はできないものねえ、ああ犬ってかわいそうな生きものね、うふふっ」

「お言葉ながら、そういった問題ではございません」

 飯野は、真剣であった。……これはひとつの神との勝負であるのだから。

「あえて申し上げれば、問題は、……コロよりも未来さまにございます」

「あなた、ふふっ、わたくしのかわいいかわいい孫になんてことを言うのかしら、ねえ?」

「未来さまはしっかりされているとはいえまだ九歳。年少であらせられます。……未来さまにも早かれ遅かれ成長期はやってくるでしょう。男性の思春期というのは、女性にくらべると、どうしても衝動性が強い。むろん未来さまは賢明であらせられますが、万一にもなにか問題が起こってからでは――」

「なあに、その、問題って? アコの言うことってほんとうにいつもまどろっこしいのね」

「――未来さまとコロのあいだに間違いがあってはならぬということです。薫子さんあなた、」

 飯野は、それでもまっすぐ、言い切る。

「犬と人間のあいだに生まれる半妖がほしいわけではありますまい」

「そうねえ……」

 薫子はすこし退屈そうなそぶりを見せた。

 だが、すぐに、ぽっと微笑んだ。

「そうね。ペットの犬は主人とは性行為をしないものですればね。互いに性欲処理くらいならしてもいいと思いますけれども」

「いいのですか……」

「もちろんペットと主人として、ですよ? ……でもまあ耐え切れなくなりますでしょうしねえ。あ。ううん。むしろ、……そういったところ、みておくのも、おもしろいですわね? 寸止めの美、とでも申しますか」

 きゃらきゃら、薫子は笑う。

 鬼だ……と、飯野はあらためて、思った。あのふたりがこれからそれぞれ男女として苦しくなっていくことを充分知ったうえで、そういうのを観るのがおもしろい、などと本気でぬかす、無垢な少女のようにそう言いのけてみせる――。

「わかりました、アコ。あなたの言うことがこんかいはどうもいいみたい。それで? なにをしたいというの?」

「簡単なことです。……公子に、服を、着させます。それだけのことで……」

「ちゃんといままで通り犬っぽくしてね? あの子せっかくよく似合ってかわいいんだから」

「……はい。それは、もう……」

「あのねえ、アコ。わたくしには人間の機微ってどうにもまだわからないわあ、もう六十も近いおばあさんなのよ? わたくし。……人間の機微がわからないだなんてあわれなわたくし!」

 くす、くす、くすくす……と。

 飯野は脱力するかのようにして思う。

 ――この世界のだれがほかに天王寺薫子のことをあわれだ、なんて形容しうるだろうか、と。



「コロ、きょうからはお家でも服を着ますよ」

 人間ごっこの時間をきょうも滞りなく終え、その日のぶんの小学校の宿題を済ませて、いつもの通りコロがお着替えをさせてもらうとき。その、はじまりのとき、つまりいまこのときはコロはまだ服を着て首輪もカチューシャもグローブもつけないで、人間の格好をしている。お姉さん座りでおすわりをしているところだけが犬らしい。

 飯野の言葉に、コロは、きょとん、としてつぶらな目をぱちくりさせた。コロの目の前にしゃがみこんでいる飯野は頭の痛い気持ちで思う、……案の定ね、と。

「コロ、お洋服は、着ないです」

 ベージュのニットを着せているから身体の微細なラインはわからないが、その下の胸は確実に女としてのまるみを帯びてきている。……着替えもさせて風呂にも入れてやる飯野なのだから、なおさらそう思うのだ。

「いえ、きょうからは着るのですよ、あなた服を。家のなかでも、です」

「……うぅ。お洋服は、窮屈なのです、わたし……」

「こらっ。犬が口答えをしますか」

 コロは卑屈な視線で飯野を見上げた。

「あぅ。ごめんなさい。けど……あの、あぅ」

「理由が気になるのですか?」

 コロはこくりとうなずいた。とても、訊きたかったのだろう、でも自分からは訊けなくて。……犬はなぜなにどうしてと問わない、というしつけを、しっかりと守っている。……頭のよい子どもなのだ。

 まさか、おまえの主人がなにかの衝動で間違ってふらっとあなたを犯さないためですよだなどと言えるわけもなく、――さあ、どうしよう、うまくやりなさいよ、わたくし。飯野はそう思って、気を引き締める。

 やることは変わらない、コロに着衣を命令するだけなのだが、……ここだって調教の立派な一貫であるのだ、当然。

「逆に訊きますよ。……どうして、服を着るのが嫌ですか」

「いやっていうか、あの、その……」

「いまは素直に言ってよろしい」

 コロは瞳を揺らした。

「……未来さま、が、教えてくれた、から。あの。あぅ。……犬は、服を着ないんだよって、未来さまが、学校のすごい本で読んできてくれて、教えてきてくれた、から」

 飯野は、ぞわっとした。

 ああ。――この子。

 いつのまにやら、ここまで犬になってしまったのね。

 あの日々、お屋敷に来たばかりのころはあんなにもぐちゃぐちゃに泣き喚いていたのに――。

 ああ。ああ。……なるほど、ええ、薫子さま。

 貴女がこんな酔狂に嵌まり込む理由の百分の一くらいならわたくしもきっとこうやって、知っている――。

 だから飯野はぽんとコロの頭に手を乗せてやった。

「えらいですよ。主人の言ったことをよくよく覚えてよくよく守るのは、良い子です」

 コロは嫌がらないし、喜んでいる。コロにとっては飯野も従うべき相手だ。しかしコロにとってはやはり飼い主は未来だけであって、それであるから未来に頭をなでられたときのようなとろける表情は、見せない。表情の種類が、違うのだ。仕事ぶりを褒められた優秀な警察犬のように、首の角度をわずかに上げて上を向いて、キリッとして、えっへん、とでも言わんばかりに、自分が有用であることを誇っている、……犬として有用、という意味だが。

 犬は褒められることを喜ぶいきもの、なのだ。飯野もそれを知っているから、しつけとしてコロの頭を撫でてやることはある。コロはそのたびこうやってキラキラ輝く顔をする。

 飯野はくしゃ、とその艶やかな黒髪をふんわりとつかむようにして撫でてやると、そのまま、手を離した。

「それでは未来さまが着ろと言ったら、着ますね」

「はい」

 ……なんのためらいも迷いもない、返事。

 飯野はもういちど公子の頭を撫でた、……もういちどだけ。

「……あなたはほんとうに良い子ですね」

 わう! と、子犬は、鳴いた。嬉しそうに。


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