事情

 未来と公子が上の部屋に行って、しばらく経って、飯野もその日の仕事や雑務を終えた深夜零時過ぎ。

 飯野は、ダイニングテーブルで思案していた。

 ひろびろとしたリビングダイニングであるから、飯野と未来と公子と三人で過ごしていても広く感じるほどだ。ましてやいまはこの部屋に飯野ひとりきり。もっとも飯野はもう長年このような時間を長く過ごしてきた。それこそ、天王寺薫子が若かりしころから。

 良子が生まれ、成長してからも、……ずっとであった。

 こんなにも賑やかなのは、……ほんとうにほんとうに、ひさしぶりなのだ、……ふたりいる子どものうちひとりはペットの犬という扱いであっても、それでもいまこの家は、ほんとうに、賑やかだった。飯野はその賑やかさを耳だけでなく肚(はら)の底でさえも感じている。


 天王寺薫子のひとり娘で、のちに未来の実の母親となる良子が高校生までの時間。あのころからすでに薫子はそもそも天王寺家の敷地に戻ってこない日のほうが多くなり、良子の食事や洗濯を世話していたのは飯野だった。良子はとくに嫌な子どもでもなければ嫌な少女でもなかった。むしろ礼儀正しかった、使用人とはいえ良子の身辺の世話をきちんとしてくれる飯野に対していつも欠かさず感謝の言葉を述べた。十歳も過ぎると良子は進んで手伝いをはじめた。飯野さん、手伝うよ。それは良子の制服時代の口癖であった。ほんとうに申しわけなさそうに、薄笑いさえも浮かべて、わずかながらも卑屈な表情なのである。眼鏡を掛けた生真面目な表情には似合いの表情でもあった。クラスにいる優秀な学級委員長がときおりこうやって弱みを見せることはあるだろう、……だが天下の天王寺家をゆくゆくはになうことになる天才的な環境の人間としては、およそ似つかわしくもない、表情でもあった。

 良子に気をつかわれるたびに飯野はなにか苦いものを感じた。もちろん、かといって、薫子の血を受け継ぐ女であったらそれはそれで飯野は絶望していたかもしれない。だが……感情の問題として、見ためやもの言いだけは薫子によく似た凡人を見るというのは、飯野には、我慢ならないことであったのだ、……それが良子という良心的な人間にとっては理不尽であるとわかってはいたけれども。

 良子はそういった人間の機微を敏感に察する人間であって、かつ、幼いころからよく知る家の人間であっても執着をしない性質の人間でもあった。なぜ飯野がそのような態度を取るのかということそのものはわからずとも、自身をなんらかの理由で好ましく思っていないことじたいは肌感覚としてよくよく呑み込んでいたので、良子のほうから自然と距離を置いてきた。

 飯野はそのことをもよくわかっていた。高校生にもなると良子は、食事が終わると、ごちそうさま、ときちんと手を合わして食器を下げて自分のぶんはきちんと洗って、お風呂入るねと言って風呂に入り、濡れた髪にバスタオルを巻いてダイニングキッチンでに顔だけを出し、それじゃあおやすみなさい、と言って、あとはさっさと自分ひとりの小さな殻のなかを楽しむ時間に突入する、……そんな人間と、なっていた、悪くはない、……ただふつうであるだけであった。

 良子は八時過ぎには毎晩自室にこもった。だから飯野は、長い時間をこの部屋でひとりで過ごしていたのだ、もう何年も、……何年も。

 未来が、生まれるまでは。そして、公子が、来るまでは。



 そういうわけで、……飯野は夜中の零時過ぎのダイニングテーブルで、ひとり、思案していた。手を、テーブルのうえで、組み合わせて。

 この上の部屋では未来と公子がともに過ごしているはずだ。公子は基本的には檻に入れて寝かせるはずだが、未来の気が向けばおなじベッドで寝たりもしているし、……そもそもそのために未来の部屋のベッドは大きいのだ、薫子がそうしろと、言ったのだ、……未来が家に来たばかりの幼かった公子を檻から出してやるとも完全に予測することなどできなかったはずなのに。薫子は……すごい。ほんとうに。

 つまり、公子は、裸で、あるわけだ。

 そこで第二次性徴がはじまったというわけで――胸もふくらみかけていて、ますます、女らしくなっていくわけで。

 ……ああ。

 飯野はうなだれて、手を組み直した。まるで聖なる場所において祈るかのよう。考えごとをすると祈りのような雰囲気になるのは、多くの人間が知らない飯野の癖だ。妙に少女趣味だなどと天王寺薫子はからかうが、――じっさい飯野の本質はやはりおっとりとしたお嬢さまなのである、……あるいはスタート時点においては、というべきか。

 黄緑色のチェッククロスのカバーがかけられたダイニングテーブルの上には、飯野の愛用している分厚いブロックのメモ帳以外はなにもない。こういった夜中の思案にはありがちなあたたかい飲みものも、ない。趣味としてなにか飲みものを飲むという行為は、自分には過ぎている、と飯野は考えている。飲めないわけではない、もちろん。たしなみとして日本茶や紅茶やコーヒーを飲むことを飯野はほぼ完璧に身につけている、……ほんとうにあくまでたしなみなのねえとそれこそ薫子には笑われるところであるが。

 飯野はそのようにして、夜中のダイニングでひとり思案していた、……ふたりの今後の成長について。

 ……いつまでも、いつまでも、このままではゆかない、とは思っていました。ええ、それは、もう。

 ワンちゃんごっこはうまくいった――信じられないくらいに。公子は最初こそ抵抗を見せたが、五年を経て、十歳になったいま、すっかり犬になってしまった、……それこそ飯野でさえもぞっとするくらいに。

 公子が五歳のときからずっとずっと飯野も飯野として必死で、なかなか盲点ではあったのだ、そんな先のことは、じっさいいまそのときになっているわけだけれども。

 そりゃ、公子も、そして未来もいずれは、第二次性徴期を、迎える。

 公子は女子であるし四月生まれであるしそもそもかなりの早熟の性質であったらしく、成長が早い。細身ではあるが、栄養が足りていないということはなく、むしろその逆だ。よく食べる。ぐちゃぐちゃにされていても栄養は豊富な食事だし、もの足りなそうで切なそうに空のエサ皿を見下ろしていると、未来が甘やかしておかわりをやったりしていた。……じっさい、身体的には人間の子どもだ、栄養を摂らせるぶんにはそう問題もなかろうと飯野は三杯までは公子におかわりをゆるしていた。いちおうしつけとして待て、をしてやると、わう! と嬉しそうに鳴いて瞳をきらきらきらきらさせて待っていた。犬だったら尻尾を振りまくっているところだ。

 ……この子も、おかしいですねえと思いながら、いや、飯野はまったくもってそれを言うべき立場ではないがそれでもそう思ってしまって、ぞっとするくらいに、飯野はいつも、公子に食事を与えていた。

 体質として成長の早い子どもであったのだろう。……初潮を迎える日も、おそらくもうそう遠くないはず。

 公子は、遅かれ早かれ、いきものとして、女になる。

 そのときにあの子たちは、いや公子というよりも未来は――。

 飯野は額を組んだ両手にくっつける、……それこそ深く祈るかのように。

 ……薫子さまのおっしゃったことは真実であったのだ。公子には、才がある。それは真実……。

 ただ、もし、もしもひとつだけ、……薫子さまにとっては喜ばしいことの薫子さまの予想の範疇さえも超えたこと、予想外が、あったのならば。

 公子が、――バケモノ級のある種の、天才であったこと、だ。

 未来さまのほうがいずれ苦しくなるであろう、……いえ、もしかしたら、すでに。

 対策を講じなければならない。

 犬らしさは減少してしまうかもしれないが、必要であれば、――服を着せることもやむなし、かもしれない。このこと……薫子さまに、ご提案しなければ。おそろしいが……しかし。それは……あの子たちの今後のために必要であることだ。

 かえって、それが、彼らを主人と犬の関係性に留めおくこと、が、できるのでは……。

 間違いが、ない、とはいえないのだ、……未来さまは人間の少年なのだ。

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