なんか変だな

 小学四年生、とくになりたてのときだ。未来はなんとなくぼんやりと四年生になった。なにせ中高どころか幼稚舎から高校まであるブランド男子校で、小学校というよりは三歳から十八歳までの流れで上がっていくといった雰囲気であり、小学部の学年がひとつ上がるくらいのことは未来にとってたいした実感をもたなかった。

 けど、近所の公立の小学校に通う公子にとっては、そうではなかった。公子は天王寺家では言わなかったが、人間ごっことして小学校に行って、始業式の全校集会での列が前がわになって、教室が二階の職員室がわから図書室がわになって、廊下のテーブルの上に置かれた図画工作の紙粘土のカラフルなアーチとか見たりして、ぴりっとした真新しい教室に入って、ぼんやり天井を見て、思った。

 小学校も、あと半分なんだなあ、って。……小学校を、半分にぱっくり割るとして。四年生っていうのは、上のがわに入るから。上に、なってしまった。なんかちょっと、やりづらい、もともと人間ごっこするのもやりづらいんだけど……などと、そんなことを思う公子はもうすでにメンタルが完全に犬となっていたのだ、

 ……過酷な幼少期は終わりかけていた、――彼らは今年、十になる。


 公子が服を着たがったわけではない。メンタルが犬であるのだから公子にとって服はいらなかった。空調は飯野が慎重に管理している。公子が風邪を引いてこじらせでもしたら飯野の責任だ。公子はなかなか気軽に病院に連れて行くこともできず、体調を崩すと、馬鹿高い金を払ってその手の専門医にこの奥の家まで来てもらうことになる。もちろん公子には保険証もあるしここまで犬としての教育が済んでいればなにかを漏らすこともまあおそらくないであろうけれど、飯野は、とんでもなく慎重だった。たとえば公子自身にその気がなくても、高熱でうなされていれば、ふっと変なことを口走ってしまうかもしれない。たったそれだけのことをおそれるほどに、飯野は、慎重であった。過敏なほどに。……だからこそ天王寺薫子のそばにそんなにも長く、いられる。

 それであるからして、公子は家のなかでは服を着ないが、寒くされているわけでもないし暑くされているわけでもない。生活上の不便は、犬として過ごす以上は、存在しない。

 ただ――天王寺薫子の予想を、その点でも、公子は超えてきたのだ。

 公子は、もはや、ひととしての当然の羞恥心を、うしなっていた。

 多少は恥じらうだろうとの予想だった。いくら慣れても、多少は恥じらうだろうと。じっさい最初は恥ずかしくって隠したりぽろぽろ泣いていたはずだ。しかし、犬として暮らしはじめて四年め、九歳の公子は――もう、まったく、恥じらいを見せなくなっていた。全裸だというのに簡単にお腹を見せるし、未来の膝に乗っかっていく。……完全に、服という概念を知らない、犬だった。すくなくとも、そのふるまいであった。

 飯野でさえも不気味に感じたほどだ。あまりにも……自然で。



 だからまあやっぱこの時期いちばん大変だったのは未来なのである。



 なんか、変だな、とは思っていた。コロを見るたびに、身体の下のほうがもぞもぞとなる。

 それは尿意と似てはいたがなんとなく違った。そのことは未来にもわかった。

 飯野に相談しようかとは思ったが恥ずかしかった。小学四年生にもなっておもらしですか、とあの怖い飯野に呆れられるのも嫌だし、と、……自分ではそう思い込もうとはしていたけれど、未来はうまく自覚できていないだけで、本能的に、その感覚の本質をつかんでいたのだ。

 保健室で相談しようかとも思った。だが未来の学校の養護教諭は、女性だった。なので飯野とけっきょくはおなじ理由で、未来は、相談することができなかった。

 クラスメイトたちにはなおさらぜったい言いたくないと思った、……すくなくとも未来は小学四年生で九歳の現時点においては、同年代の同性の仲間たちにそういったことを言いたくない少年であった。

 未来はそのもぞもぞも嫌だったが、なんだかずーっとぐるぐるぐるぐる頭のなかをめぐっていることがあった。

 それは彼のペットが笑うときにもっとも強くなった。


 ……コロは、こういうの、ないのかな、

 おれといるときとか、おれみたいに、もぞもぞしたり、しないのかな……。


 ……そういうときには、もっと、もぞもぞした。




 彼らが小学四年生である、春。

 夕食後。リビングルーム。

 いつも通り、コロを膝に乗せてやっているところだった。リビングには大きなテレビがある。この時代では最先端であった液晶ディスプレイだ。未来はクイズ番組を見ていた。未来は飼い犬のことで悩める少年であると同時に、優秀な少年がたいていそうであるように、ふつうに、知的好奇心も旺盛な少年だった。夜の八時台のクイズ番組は充分に未来の知的好奇心をくすぐった。

 未来はときおり、おぉー、そっか、と声を上げたり、あっそれわかってたおれわかってた、などとぶつぶつつぶやいていたが、コロはそれらの言葉には反応することもなくテレビ画面も見ないで未来の膝の上に前足と顎を乗せて気持ちよさそうにうつらうつらしていた。ときどき肉球のグローブの前足で未来の膝をぽんぽんと叩くので、そのたびに未来は「コロぉー、いまいいとこなんだよ!」とかなんとか言いつつも、ちゃんと背中やら頭やらを撫でてやるのだった。それで犬は満足して笑ってまたうつらうつらしていた。

 飯野は当たり前の日常のごとく皿洗いをしている。

 この場においてはこれは、……あくまでも、ふつうの、日常だ。

 未来もコロも、風呂の前は基本的にリビングルームで過ごすというのが、飯野の……じつは薫子の方針だった。

 ダイニングからキュッ、と水道を閉める音がした。飯野が食器洗いを終えた合図だ。ちなみに奥とはいえ天王寺家であるのだから食洗器も乾燥機もある。あるのだが、飯野によればそんな機械で撫でても洗った気がしないとのことで。ほかのところや急ぎのときはべつだが、この奥の一軒家じみたスペースの食器については基本的に飯野がいつもむかしながらのやりかたでスポンジやらたわしやらでゴシゴシと洗っていた。だからそれこそむかしながらの主婦のようだった。……飯野はじっさい使用人というにはなじみすぎている。

 飯野は手をハンドタオルで拭きながらこちらにやってきた。これからコロを風呂に入れてやるのだ。お昼の時間、が終わればコロは翌朝まではずっと犬だ。だから手の肉球グローブも頭の犬耳カチューシャも外さないし、ひとりで風呂にも入らせない。それは人間のすることだから。だがコロも昼間は人間である以上、風呂には入る必要がある。

 翌日が平日の日はいつも飯野がコロを風呂に入れてやっていた。金曜と土曜の夜だけは未来がそうする。未来本人にもなにかあったらすぐに風呂についているブザーを押せとは言ってあるが、そこは抜け目のない飯野のこと、当然それだけでなく事故対策はばっちりとなされている。未来とコロは知るよしもないが、風呂にも当然監視カメラはついているので、薫子の屋敷の監視室では監視人たちが監視をしている。機械的に問題がないかをチェックするだけの役目だ。だからこそ飯野はそういったことを子どもたちにさせられる。

 金曜と土曜の夜にはふたりはきゃっきゃとはしゃいで長風呂だから、のぼせるふたりを飯野はいつも呆れ顔で出迎えて、ふたりまとめてバスタオルで髪を拭いてやったりしていた、きゃあーとふたりはもっとはしゃぐ、……ほんとうは公子と未来をべつべつに拭くべきだと飯野とてそうわかってはいるのだが。

 ともかく、そういうわけで、本日はコロは飯野の手によって風呂に入れられる日なのであった。あすは、平日だ。

「はいはい、それじゃコロ、お風呂入りますか」

「わう」

 コロは目を開け顔も上げて、了解のしるしとして鳴いた。顔を上げると同時に胸をすこしだけ反らすように持ち上げている。

 飯野は右の眉毛の角度をわずかに傾けた。

「……うぅ?」

「……いえ。なんでもないです。お坊っちゃま、宿題はやったのですか。本日やっているところを見ませんが」

「んー。あとすこしー……」

「クイズ番組もよろしいですが学生の本分は出された課題を問題なくこなすことですよ。飯野はこれからコロのお風呂ですから、それまでに宿題を終わらせておくこと」

「えぇー、だってこの番組まだあと三十分以上あるよ」

「わがままはなりません。おばあさまに言いつけますよ」

「……はぁーい」

 未来はしぶしぶテレビを消して、立ち上がる。コロはそのタイミングで床にずれて伏せた。ダイニングテーブルで宿題に向かいはじめた。……静かだ。

 飯野は未来が宿題を開始したうえで集中したというところまできちんと確かめてから、コロの首輪にいつものピンク色のリードをつけて、曳いて、部屋の外に出た。コロはおとなしく従う。犬は勝手に風呂場に入ってはいけない。


 シャアシャア、とシャワーの音は柔らかい。

 飯野は雨がっぱみたいな水色のビニールの作業着を着ている。コロを洗うときのための作業着だ。

 コロは犬座りをしていい子で洗われている。ほらシャンプーいきますよ、と言えば、素直にぎゅっと目をつむる。

「……コロ。聞きたいことがあるので、正直に言うこと」

「うぅ? コロに、ですか?」

 風呂のときに飯野が喋りかけるのは珍しい。がしがしとシャンプーされながら、コロも驚いた顔をしている。

 飯野は平然と淡々と、言った。

「あなた、胸がふくらみかけてますか」

 シャワワッ、とシャワーで泡が洗い流されていく。

 飯野からはコロの頭しか見えない。艶やかでコシのある黒髪。犬耳カチューシャが器用に固定された、頭。肉球カチューシャで座り込んでいるその、両手。

 コロは、いま、その髪の毛と泡と水の流れの、下の、顔で――真っ赤な顔をして呆然としたかのように困り果てていた。



 ……公子に、自覚は、あった。

 ――天王寺公子の第二次性徴は、すでにはじまっている、……のだ。

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