犬の恥じらい
柳なつき
とある、だれもが苦しみがちな時代
ときは、彼らが、中二のとき。
だれしもなんらかのかたちで苦しみがちなその時代の、とき。
とある夕飯どきだったのだ。飯野がキッチンでつくった料理がダイニングテーブルのうえに並ぶ。まったくもってただの家庭料理のふうだ、すくなくとも金持ちのごちそうというわけではない。
未来も料理を運ぶのは手伝う。天王寺家のひとり息子とはいえ、このあたりは特別扱いされなかった。いや、天王寺家のひとり息子だからこそ、なのだ。教育は、厳しい。
ごはんの準備のときにじっとしているのは公子だけだ。
コロはちゃんと犬のおすわりをして待てをしていい子でエサを待っている。コロの前には、空っぽのエサ皿がある。もちろんほんらいのは犬用であるエサ皿だ。リードとおなじピンク色。
コロには未来がエサをやることになっている。いつも通り人間用のごはんをぐちゃぐちゃに潰したエサっぽい食事。潰さなければ人間の食べるものなわけだから栄養値としては問題ないだろうけど、――まあ当然人間の食事よりは、まずい。
そんなぐちゃぐちゃでどろどろの半分液体みたいな食事を未来は食器からスプーンでかき出してエサ皿に入れてやる。優しく。コロは嬉しそうだ。嬉しくて堪らないといった感じで主人である未来を見上げている。きらきらと。ほら、と未来が言うと、わん、とコロは嬉しさの頂点みたいに、鳴いた。
……まあむしろ未来のほうがこんなことにとっくに違和感はあるわけだけれど。
未来と飯野は揃って、いただきます、をする。このあたりもちゃんとしている。もちろん飯野は未来に厳しくしつけた、……コロに厳しくしつけるというのとは当然また違う意味で。
コロだけがじっと待っている。エサの入った皿の前でじっといい子におすわりをしている。
未来が味噌汁を静かに上品に飲んで、そのタイミングで、コロの前に手のひらを出して示してやった。
「よし。いいよ。食べな」
「わう!」
コロは喜びの声を上げる。ちなみにこれはエサを食べられることもじっさい嬉しいのだが、未来に食事の許可を得たことがコロは嬉しい。自分はごはんを食べていいんだよって許可をもらうたびにコロはこんなに全身で、よろこぶ。
コロは、エサにがっつきはじめた。未来とは対照的にほんとうに犬食いをする。仕方がない。それも教育の結果だ、……歪んだ教育の結果なのだ。しかしそれにしてもまあなんと犬らしい食べかたで。四つん這いでエサ皿に顔を突っ込んでひたすら摂取していくことをもうおかしいとも思えない。すくなくとも、コロは。
だから未来のほうがこんなことにとっくにときには違和感を感じるわけで。
エサの量はたいしたことないしどろどろの半液体だしコロは犬食いでがっつくしで、すぐなくなってしまう。食べ終わるとコロはうぅ、と鳴いて、汚れた口をぬぐうこともせずすこし笑った。
ちなみに汚れた口をぬぐうのも人間らしいことだからコロは自分でやってはいけない。
「コロ。ハム。食うか?」
未来はおかずのハムを箸でつまんでコロに示してやった。品がないといえばまあ、ない。だが飯野はそれに対してはなにも言わない。もくもくと、自分自身のぶんのささやかな量の食事を食べている。
コロは目をきらきらさせて肉球グローブの前足を未来の座るダイニングチェアに、乗せる。未来を一生懸命見上げる。
「あう、ほしい、ほしいですっ。よいのですか?」
未来は返事としてハムをぱっと落としてやった。コロは問題なくハムをぱくりとキャッチする。もぐもぐ。
「おいしいですー」
「ただのハムだぞ。おまえいつも、そんなうまっそうに」
「だっておいしいですー」
コロの笑顔はとってもまぶしい。かわいい。
……それだからこそ未来は言わなくてはならないと思ったのかもしれない。
コロの口についたエサの跡を指でそっとぬぐってやりながら、未来は、なんでもないことのように切り出した。
「……俺、彼女ができた」
「まあまあ」
反応したのは相変わらず感情の正体のよくわからない飯野だ。
未来はコロの口まわりを次はティッシュで拭いてやる。んー、とコロは嬉しそうにしている。……美人だ。未来はあくまでもコロの口まわりを清潔にしてやってることに集中しているみたいなていを取りながら、話の続きをする。
「……それだけ? 飯野さんは」
「ほかにだれかにおっしゃったのですか」
「いや。言ってないけど……。けど、ほら、ばあさんのお茶の教室の生徒さんのお孫さんだからさ」
「はあ。はいはい。よくよく覚えておきますよ」
「……それだけ?」
「なにか申し上げたほうがよろしゅうございますか」
「いや。べつに。いいけど……飯野さんっていつもそうだよね」
未来はちょっと不服なようだった。
話を聞いていたし、理解する能力もある、……そのはずの人間、コロと呼ばれる人間は、けれどいまも未来の話なんかおかまいなしにただただ口もとをきれいにしてもらう嬉しさを味わってとろんとしていた。
未来はもっと不服になった。
自分の感情がいまいち未来には見えない。すくなくとも中二のいまはまだ、見えていない。
そんなのが恋心だなんて未来にとってはぞっとしない話であるのだ、――ずっと。
自室。ひとり暮らしのワンルームよりちょっと広めなくらいの未来の部屋。ひとりでいるとちょっとがらんとしてるけど、コロとふたりでいれば、ちょうどいい未来の部屋、――未来とコロの、ふたりの、部屋。そうだ。だって無駄に大きいキングズベッドのかたわらには、コロの、ケージが、ある。
ふたりは食事も済ませて風呂も済ませてふたりでテレビを見ていた。嫌味じゃない程度に明るいバラエティ番組。もっともふたりともあんまり真剣に見てはいない。未来はケータイでメールをぽちぽち打つのに必死だったし、コロはもとから人間らしくふるまわないので、未来の膝の上に顎を乗せてとろんととろけて幸せそうにうつらうつらしているのだった。……ほんとうに、犬らしい。
未来は綾音に送るメールの文面に迷っていた。彼女、というからにはメールをしなければ。でもメールでなにを話せばいい? しかも、女の子だ。女の子はメールが好きだという。だからそのあたりはちゃんとしなきゃなんだけど……。
本人がそこまで明確に自覚してなくとも未来はいま非常に不服であって、綾音にメールを送るということもすごく馬鹿らしいことに感じていた。
「……あーっ」
そう言うと、まだこの時代は分厚かった携帯電話をポン、とテーブルの上に置いた。コロがふっと目を開ける。
「……んぅ?」
「コロ、コーロ、おまえはさあ」
未来はコロの頭にぽすんと手を置く。しっかり乾かされて手入れされているから艶やかなコロの、黒髪。ちなみにコロの髪は週に五日か六日は飯野が辛抱強くドライヤーを当てて洗い流さないトリートなどをたっぷり塗ってそのきれいさを保ってやっている。残りの一日か二日は、未来がコロにそうしてやるのだ。飯野のときもべつに嫌がりはしないが、……未来にそうしてもらうときコロはほんとうにとろんとろんと恍惚とした顔を、する。
未来はそんな豊かなコロの髪をぐしゃぐしゃに撫でた。
「あ、ぅ、くすぐったいですー、くすぐったいですよー、ご主人さまー!」
未来は、ぞっ、とする、――恐怖に似ているがこれは、快感。
ひとは、くすぐったがるとき、性行為の最中のそれみたいな声を出したり、……する。
未来はそこまで知ってはいない。だが、もっと本能的に、なにかをわかっていた。
コロの頭の上で、手を、動かす。ひたすらに。
――コロの感覚は敏感だ。
「あ、あぅ、うぅ、く、くしゅぐたい、くしゅぐたいですっ、あっ! あぁ、ああうぅ、うあ、うあうっ、くしゅぐ、たい、くしゅぐたいの、です、ううぅ……うぅ……!」
無邪気にころころ、笑うコロ。未来は手を止めない。
あえぎ声だ。まるで、あえぎ声だ。
なんか、そういうやつかな? と――未来は思ってる、……いま。
携帯電話は、ほっぽりだしだ。……彼女という存在からくるはずの、メール。
そんなことより、ずっと、ずっと――未来はコロにかまっている、のだ。
夜中の十二時をとっくに過ぎた。電気を消したのは十二時ちょっと前。コロは未来の右隣の檻に入れられてすうすう寝ている。
眠るのは、コロのほうが得意だ。コロはすごく寝つきがいい――と、いうよりは、そこさえもまさしく犬、なのだ。ほんものの犬を観察していてもわかるが、彼らは退屈なときにすぐにまどろむ。コロも、そうだ。そうしているだけだ。――だがコロはもとから犬というわけではないのにどうしてそうなったのか、……ある種天才としか言いようがなくなってきている、すでに、それこそ天王寺薫子がそうねとほほほと悦ぶほどには。
オレンジ色の豆電球だけついているから、ベッドの天蓋と天井くらいは区別のつくこの部屋。コロは眠っているときには寝言以外はうるさくはないが、寝息はすうすうとかわいらしいものを立てる。穏やかだ。そんな穏やかなその寝息を聞くともなしに聞きながら、未来はぱっちり目を開けて、ずっとずっと、自問自答めいた思考を繰り返している。
えっ。あの。なんで――コロはこんなにふつうに眠れるんだ。
そう思ってしまう自分のこともよくわからない。だってコロはペットの犬だ。ペットの犬が自分の隣ですやすや眠るというのはむしろ当然のことなのではないだろうか。
けど、けど、……なんかどうにも腑に落ちない違和感が、いっぱい。
……考えてみればもう、長い。
いちばん最初の違和感は、小学四年生のときだった。……コロはいまでこそシンプルな薄着を着せられているが、ある時期までは、家のなかでは服を着ないで全裸だった。家に来たばかりのころはともかく、時間が経つうちに、コロも自分が全裸だということを気にもしていないふうにのびのびとふるまうようになってきたので、まあ、そんなもんかなと思っていた。
小学二年生のとき、学校の図書館で犬の図鑑を読んで、べつに犬の図鑑を読んでいるというだけなのになんだかどきどきするから図書館の本棚の前で座り込んだままひっそりと読んで、司書の先生に見つかって、注意されたことはいい想い出だ。未来は幼稚舎から一貫の男子校に通っていて、圧倒的に男性の多い環境だったが、司書の先生は女性だった。髪の長い生真面目そうな美人だった。……あのときこっそり隠れて犬の図鑑を読んでいたことを注意した司書教諭の若い彼女が髪が長くて美人であるから、未来はもっともっとどきどきして、どっどっどっ、と動機が速まったことを、まあ、そのときには、……理解できなかった、当然のごとく。
けどあのとき未来は獲得した知識がたくさんあった。犬、という存在の生態について。
犬は人間と違って無理に服を着せると嫌がるんだよ、というのもその知識のひとつだった。……まあコロはとくべつなワンちゃんだからふわふかしてないけど、とは小二の頭でも思ったが、小二の未来の頭で分析するのはそこが一種の限界であった。……なにせ周りのおとながみな平然と少女を犬として扱い、あまつさえ少女本人の適応のほうが、……早かったのだ。
コロはワンちゃんだから服がいらない。ずっと、そう思って――そう思うようにしてきたし、そのことに違和感はあっても、その正体はなんだかぼんやりつかめなかった。……そういうあたりの話を飯野にするとなんだか飯野は未来にはよくわかんないことをぽつぽつ、諭すかのようにして語りかけてきたのだし。
だが、……おかしくなってきたのはやはり小学四年生あたりから、で。
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