小話 初めての二人【重要なお知らせ】
夏休みが始まって、しばらく経ったある日。
「あ、綾乃。ごめん、僕、初めてだから」
薄暗い室内に、京介の小さな声が灯る。
「……大丈夫だよ」
黒いタンクトップは豊満な胸を強調し、デニムのショートパンツからは長い足が伸びる。
今しがた外気に晒されていた肌にはじっとりと汗が滲み、クーラーの風を浴びて少しずつ乾いてゆく。
「私も、初めてだし」
弱々しく呟いて、不安そうな、それでいて嬉しそうな瞳を京介に向けた。
「それより、思ったよりも狭いな」
彼女の体温を感じながら、京介は頬を赤らめた。
身動ぎするだけで身体が擦れ合い、お互いの服の柔軟剤の匂いや体臭を普段よりも深く感じる。
「あ、ソフトクリームあるんだって。私取って来るね」
「じゃあ僕は漫画読んでるよ」
二人はネットカフェに来ていた。
きっかけは、綾乃の仕事。ネットカフェを舞台としたドラマへの出演。
しかし、彼女はネットカフェに行ったことがなかった。女子高生が一人で入るのは少々難しい。そこで京介を誘い、今に至る。
時期のせいか時間のせいか、席はほぼ埋まっていた。
唯一空いていたレギュラールームは、一畳ほどの広さしかない。縦には長いが横には狭いため、並んで座ると肩が当たってしまう。
(あの店員さん、僕たちのことすげー怪しんでたな……)
受付で対応してくれた中年店員の目は、こちらを完全に
若い男女が個室で二人っきり。
昂ってやってしまう客がいるのだろう。
「お待たせ」
ガラッと扉を開いて、綾乃が入って来た。
親の仇のように盛られたソフトクリームと共に。
「京介、ちょっと前詰めて」
「お、おう?」
んしょ、と綾乃は腰を下ろす。
京介の真後ろに。背中から抱き締めるように。
「よし、これでおっけー」
「おっけー、なわけないだろ。離れろよ」
「横に座ったら狭いし。これなら快適でしょ」
右に目をやると太ももがあり、左に目をやるとやはり太ももがあり、頭頂部は顎置きと化していた。
快適とはあまりに程遠い状況だが、悔しいことに本能がこのままでいいと叫ぶ。
「……てか、ソフトクリーム多くないか?」
座り方については諦め、目の前のテーブルに置かれた山の如きソフトクリームに注目した。
カロリーは言うまでもない。こんなに食べていいのだろうか。
「これはカロリーが半分なんだよ。だから沢山食べて平気なの」
綾乃はプラスチックのスプーンで一口分掬い取った。
……が、その行く先は京介の口元。意図が分からず見上げると、彼女はニンマリと笑う。
(僕が半分食べるからカロリーが半分ってことか?)
ソフトクリームを無理やり唇に押し当てられ、口内にじんわりと甘さが広がった。
この手の要求を振り払って、払い切れた試しがない。
観念して舐め取ると、頭上から「ふふっ」と満足気な笑みが落ちてきた。
そして、間髪入れず二口目を自分の口に運ぶ。
「美味しいね」
「……」
「え、美味しくないの?」
「そんなことないけど……」
味はどうでもいい。
問題なのは、器から口までの運搬方法だ。
「ハッキリ言わないならあげないよ。私、太っちゃうからね」
「どんな脅しだよ、それ」
「じゃあ京介は、今の私とむちむちな私、どっちがいいわけ?」
どっちでもいい、というのが正直な回答だ。
しかし、その返しはデリカシーに欠ける。彼女は体型を維持するため、様々な努力をしているのだから。
「い、今の綾乃、かな……」
「それなら、ほら、食べてくれないと」
声を絞り出すと、その口にソフトクリームを突っ込まれた。
「で、どうする。映画とかも観られるっぽいけど」
「それじゃ私の家にいるのと変わらないじゃん。これはあくまでも取材なんだから、もっとネットカフェっぽいことしないと」
そう言って、「んっ」とパソコンの電源ボタンを指差した。手が届かないから代わりに押して、ということだろう。
「京介も適当にくつろいでね」
パソコンが起動すると、マウスを取って動画サイトを開いた。
ヘッドホンを装着し、猫の動画を流す。
それがネットカフェっぽいことなのか、という疑問はあるが、楽しそうだからそっとしておこう。
(漫画の続きでも読んどくか)
時折口元へ運ばれて来るソフトクリームを食べつつ、一冊、二冊と漫画を読み進めてゆく。
ふと視線を上げると、まだ猫の動画を見ていた。捨て猫を綺麗に洗ってお世話をする、という内容らしく、鼻水を垂らしながらボロボロと泣いている。頭頂部が生暖かくて気持ち悪い。
(こういうの、ヤラセとかって思わないんだな、綾乃は)
自分の心の汚さに軽く絶望しつつ、泣いていても変わらず運ばれて来るソフトクリームを頬張って、次の漫画に手を伸ばした。
と、その時――。
妙な音が鼓膜を揺らした。
それは囁き、吐息。藻掻くような物音。
「ちょっと、こんなところで……」
「平気だって。すぐ済ませるから」
声の出所は右隣りの部屋。
思春期真っ盛りの脳みそは、その声が示すものを瞬時に理解した。
(ま、まずい……!!)
バッと顔を上げて綾乃を見た。
ヘッドホンのおかげで気づいていないらしい。よかった、と胸を撫で下ろす。二人で嬌声鑑賞なんてことになれば、悪い意味でこの夏は忘れられないものとなる。
「へっ? あ、ご、ごめん。何か言った?」
涙と鼻水でぐずぐずの顔をティッシュで拭いながら、視線を落としてヘッドホンに触れた。
「――――ッ!!」
思考するより先に、身体が動き出す。
綾乃の手の上からヘッドホンを押さえ、勢い余って押し倒してしまった。
持っていたソフトクリームの器が宙を舞う。底に溜まった溶けた白い砂糖水が、ビタビタと彼女の顔に降り注いで涙と混ざり頬を伝う。
「え……?」
ぱちくりと深い青の瞳が瞬いた。
頬に浮かんだ朱色はみるみる赤みを増してゆき、視線はあちこちを忙しなく彷徨う。
「あっ、ぅう……きょ、京介?」
熱っぽい声を漏らして身悶えした。
綾乃の体格なら、貧相な京介を押しのけるのは容易い。しかし、そうすることはなく、肢体からは余計な力が抜けてゆく。
「ち、ちがっ。そういうことじゃ――」
「いきなり、こんなっ。こ、心の、準備とか、えっと……」
弁明しようにもヘッドホンのせいで声が届かず、彼女は何やらおかしなことを言い出した。
「私も、まあ、無防備だったっていうか。こ、こんな格好だし、変な気分にしちゃったかなって」
「は? え?」
「でも、せめて……うちに帰ってからじゃ、ダメ……?」
何を喋っているのか心底理解出来ず、頭上に大量の疑問符が浮かぶ。
そうこうしているうちにも、隣の部屋のボルテージは上がってゆく。画面越しでしか聞いたことのない声が直に脳を震わせ、恥ずかしいやら羨ましいやらで血流が加速する。
「あのー、お客さん」
隣の部屋の扉が開かれ、受付で対応してくれた中年店員の呼びかけが響いた。
「うち、そういう店じゃないんで」
低く不愛想な一声を最後に、フロア全体は恐ろしいほどの静寂に包まれた。
◆◇◆◇
どうにも居心地が悪く、京介を連れて早々にネットカフェをあとにした。
夜闇差す家までの帰り道を同じ歩幅で進む。
「……ねえ京介、ほんとにこの後、うち来るの?」
「え、綾乃の家?」
「だって、さっきの続きを……」
「続きって何のことだ?」
意を決して投げかけた問いへの回答は、至極純粋な疑問の表情だった。
「えーっと、ちょっと待ってね」
考える。
先ほどの京介の行動には、明らかに
……いや、本当にそうなのか。
相手はあの京介だ。
奥手も奥手、臆病も臆病。
下心がないわけではないが、ガツガツしたところは一切ない。
自分が好きになったのは、そういう男である。
「じゃあ、何で私を押し倒したの?」
「あー……えっと、それは……」
酷く言いにくそうに頬を掻きながら、京介は白状した。
どうやら、とんでもない勘違いをしていたらしい。
「それで、さっき言ってた続きって何のことだ?」
「な、なっ、何でもない! 何でもないよ!」
「いや、何でもないことはないだろ」
「それ以上追及したら、私ここで爆発するから!!」
「はぁ!?」
やばい。やばい。やばい。
溶け落ちそうなほどに火照った顔を冷ますように、前へ前へと足を急かす。穴があったら入りたい。出来ればひと思いに殺して欲しい。
すると、「ちょっと早いって」と京介に手を取られ、ハッと我に返った。
「ご、ごめん。あの、本当に……」
返答はなく、手を握られたまま夜道を行く。
夜風に晒され、段々と呼吸が落ち着いてきた。
彼の手を少しだけ握り返すと、二人の汗でやけに滑る。
「このあと、綾乃の家に寄ってもいい?」
「へっ!?」
不意打ちに素っ頓狂な声が出た。
僅かに前を歩く京介は、横目にこちらを見て頬を染める。
「何て言うか、だらけ足りないっていうか。続き、するんだろ。それなら、映画でも観たいなって」
「嫌ならいいけど」と自信なさげに付け加えて視線を伏した。
綾乃はニンマリと笑みを浮かべ、彼の二歩分ほどぴょんと踏み出す。
「うん、続きしよっか」
時刻は午後七時を回った。
夏は、もう少しだけ続く。
(あとがき)
大変ありがたいことに、本作は第6回カクヨムWeb小説コンテストラブコメ部門にて特別賞をいただきました。
今後ものったりぬったり頑張っていくので、無理のない範囲で温かく見守って頂けると幸いです。
また、これを機に去年から放置していたツイッターのアカウントを再稼働させるので、気軽に話しかけて頂けたら嬉しくなります。よろしくお願いします。
【WEB版】陽キャなカノジョは距離感がバグっている 〜出会って即お持ち帰りしちゃダメなの?〜 枩葉松@書籍発売中 @tokiwa9115
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