ヘチカチの木

マツモトキヨシ

ヘチカチの木について

資料b


 A県Y郡H村には「へちかち原」と呼ばれる広大な枯れ野がある。半径1kmに及ぶこの地には作物はおろか雑草の類すら生えず、土地の者には忌み地として敬遠されている。しきたりによって「へちかち原」の中に住居が建てられることはなく、人通りも猟期に土地の者が足早に横切っていくのが見受けられる他は絶えてない。


「へちかち原」の全体はなだらかな峠になっている。峠の頂上から少し西側に外れた地点がちょうど中央に当たるが、そこには何かを燃やしたような黒い焦げ跡が残っている。言い伝えによれば、この焦げ跡は枯れ野の発生した当時からその姿を留めているという。


 今回のフィールドワークではH村の古老であるG老人に「へちかち原」の話を聞くことができた。「へちかち原」について土地の者は高齢者ほど話を避けたがる傾向にあるが、G老人は「他に詳しい経緯を知る者も最早おらず、自分が話さなければ忘れ去られてしまうだろうから」と調査への協力を申し出てくれた。


 聞き取りはG老人宅で昔ながらの囲炉裏を囲んで行われた。G老人は土地の言葉に身振り手振りを交え、「へちかち原」について饒舌に語るのだったが、時折ふと話すのをやめて押し黙ることがあった。そんな時G老人は目をつむり、耳に手を当ててじっとしているのだった。何か聞こえて来やしないかと注意を払っているようだった。


「へちかち」とは、土地の言葉で人の話し声の意味である。


(後略)




へちかち原縁起



霜月八日


 村の外れにある峠の猟師小屋に、猟師の太助(64)とその孫の豆太(5)が二人で暮らしていた。


 豆太の両親はいない。母たえは肺炎で世を去り、太助と同じく猟師であった豆太の父、清太は昨年山に入ったところをツキノワグマに襲われた。豆太が最後に目にした父の姿は、むしろをかけられて村人たちに担がれていくところだった。


 幼くして両親を失った経験が、豆太の心にどれほどの傷を残したのかは定かでない。ただ父の死の後、豆太は奇妙なことを口走るようになった。


しゃべる声が聞こえる」


 夜になるとそう騒ぎだすのである。何でも寝床にいると床下で話し声がするのだと言う。くぐもっていてよく聞き取れないが、その声は確かに自分に向けて何かを語りかけている。低い声がささやいたり、時折ぼそりと何かをつぶやいたりしている、というのが本人の弁だった。


 この訴えには太助も手を焼くやら豆太の境遇を哀れに思うやらで、一度は一計を案じて「死んだ父母が様子を見に来たのだ」と言い聞かせて見たものの、豆太が納得することはなかった。


「おとうとおかあは死んだべ。下からする声はそうじゃあねんだ。……じさまも聴けばわかるよ」


 明くる日落ち着きを取り戻した豆太は、猟に出る太助にそう話した。とはいえ豆太と寝床を共にする太助には、床下の声はついぞ聞こえてこなかったのである。


 豆太が怖がるものがもう一つある。二人の住む猟師小屋の前の木である。これはつい一昨年には影も形もなかったものだが、豆太の父が亡くなるのと前後して生え、今日では家に出入りする時には必ず目に付くようになった。背丈は豆太より少し高い程度で、夏にはいくらか貧相な葉をつけたが、旧暦の霜月にはすっかり丸禿になっていた。


 下草のただ中にひょろりと生えたこの木を豆太が怖がるのは、太助にとって床下の声に輪をかけて理解しがたかった。豆太は昼間この木のそばに近づこうとしないし、夜ともなれば木の隣にある厠にすらひとりでは行けなくなる。だから催した際には隣で寝ている太助を起こして、厠まで一緒についてきてもらうのが常だった。


 その日も厠に豆太を連れて行った太助は、豆太が用を足し終えるのを傍らで待っていた。底冷えする晩で、足元には霜が降りていた。くだんの木は空にかかった半月の光を浴びて、頼りなげに夜風に揺れている。


 太助は白い息を吐きながらふと木の方へ視線をやって、


「いっそのこと鉈で断ち切ってしまおうか」


 そんなことを考えた。それで翌朝まだ豆太が寝ている間に寝床を抜け出して、鉈を手に立ち木の前まで来たはいいが、どうしてもその気になれない。


 太助にしてみれば死んだ清太と入れ替わるようにして生えた木が、やっとのことで豆太と同じ背丈まで伸びたのである。そう考えると切るに忍びない。太助はしばし考えてから、結局立ち木に背を向けて小屋の中へと戻っていった。


 日々はそのようにして過ぎていった。



霜月十一日


 この日太助は村の猟師と連れ立って猟へ出たが、ほとんど成果を上げることができなかった。元より冬山のこととはいえ、彼らの行く先に獣が姿を現すことはなかった。唯一あった収穫はウサギが罠にかかっていたことで、わずかな取り分で山分けするよりは、と太助は残らず村の猟師にやってしまった。


「おらのせいで獲物がかからねのかもしれん」


 その帰り、太助が村の猟師に言った。猟師というのは迷信深いもので、太助は豆太の父の身に起きた凶事と猟の不振を結び付けているのだった。


「次は一人で行ったらどんだ」


「ほんたらこと言ってはいかん。豆太はどうするだ」


 村の猟師は太助をたしなめた。もし太助の言うことを真に受けるものがいれば、良からぬ事になりかねないからだ。ただでさえ峠にある猟小屋から村までは半道(2km)も離れている。蓄えがあるうちはいいが、そうでない時に村八分では命にかかわる。


「皆あんたと豆太のことを心配しとるだ。妙なことを考えるんじゃあね」


「んだな」太助は思い直したようだった。


 山を下り、峠に差しかかったところで二人は別れた。家に向かう太助の耳には、豆太の何事か話す声が聞こえていた。留守にしている間に歌でも歌っているのかもしれなかった。


「寂しい思いをさせるわい」


 太助はそう独り言ちてから、猟師小屋に向けて声をかけた。


「おーい。豆太。じさまがけえったぞ」


 すると小屋の中からしていた声がぴたりと止んだ。太助はすぐにでも豆太が出迎えに出てくるかと思ったが、表の戸は閉じたままだった。さては自分の呼びかけが届いておらず、声が止んだのはたまたまかな、と太助は思って、気にせず小屋の前で荷物を降ろし始めた。


 そのうちにまた戸の内から声が聞こえた。太助はもう一度小屋にいる豆太に「じさまがけえったぞ」と声をかけて、戸を開けると小屋の中には誰もいなかった。太助は茫然と周囲を見回したが、厠の側に背の低い立ち木が一本、風にそよいでいる他には何も見当たらなかった。


 けれども声はするのである。時に低く、時に大きく。出どころはわからないが、確かに小屋の近くだ。やがて太助が絞り出すように口にしたのは、


「清太か?」


 豆太の父の名だった。


 まもなく豆太が帰ってきた。どこにいたのか聞くと「峠の反対側で遊んでいた」とのことだった。



霜月十六日


 この日太助は一人で猟へ出た。獲物を求めて半日ばかりも山を彷徨ったが、成果はなかった。


 山菜を取りに来た村人が山を下りてくる太助の姿を目にしている。太助は村でもよく知られた熟練の猟師であるから、一人で猟に出るのは別段おかしなことではなかった。ただ山菜採りはそこで太助の帰りを待つ豆太のことを思い出し、帰りに様子を見に行くことにした。


 山菜採りが峠に差し掛かると、思いがけず豆太が道の脇に座り込んでいるのが目に入った。


「こんなところで何をしとるだ」


 山菜採りが尋ねると、豆太は「遊んでた」と答えた。今の今まで地面の霜をいじっていたらしい。指先が赤く染まっていた。


「風邪ひいてまうぞ。家に入っていなさい」


「家にいたくねんだ」


 理由を聞けば「声がするから」だと言う。


「前は夜だけだったけど、今は昼間も聞こえるんだ。じさまはおとうとおかあの声だって言うけど、おらはそうは思わね。だどもじさまはすっかりおとうが戻ってきたつもりで、今朝も一緒に猟にいぐって言ってた」


 話しながら豆太はしきりに猟師小屋のある方向をうかがうのだった。山菜採りは怪訝な面持ちで豆太の言葉を聞いていたが、そのうちに山道から戻って来る太助の姿に気が付いた。


 太助はやはり一人きりだった。日の暮れかかった薄暗い峠道を、猟銃を背負った影がしずしずとこちらへ向けて歩いてきている。山菜採りはそれが何だか空恐ろしくて見ていられなくて、背負子を背負いなおすと、豆太との話を切り上げてさっさと村へ帰って行った。



霜月十八日


 丑三つ時のことである。布団の中で豆太はふと目を覚ました。いつもなら隣で寝ている太助を起こして、厠までついてきてもらうのだが、この日に限って言えば豆太が目を覚ましたのは尿意のためでも、床下の声のためでもなかった。


 小屋の外で人の気配がするのである。戸の前に二人組がいて、何やら声を潜めて話しあっている。太助に知らせようと思い、隣を見た豆太だったが、そこに祖父の姿はなかった。


「じさま」


 豆太は太助を呼んだ。返事はない。暗い小屋に一人きりだと思うと、四方の壁に押し潰されるようだった。豆太は叫びたくなるのをじっと堪えた。一人でいることもそうだが、それ以上に外にいる何者かに自分の存在を気取られるのが恐ろしかったからだ。


 豆太は寝床を這い出して、冷たい床を踏みしめながら戸の前まで行った。近づいたことで初めてわかったが、話しているうちの一方は太助のようだった。これには豆太もほんの少し安堵を覚えた。


「じさまは誰と話しとるんだべ」


 豆太は戸をほんの少し引き開けた。小屋を出てすぐのところ、月明かりの下に、太助がいた。


「ああ、いい夜だ。星に手が届きそうだ」


 それはいつも豆太を厠に連れて行くときに言う言葉だった。今太助の前に豆太はおらず、代わりに背の低い立ち木が生えている。


 豆太は見た。闇の中で木の枝がほのかに光り輝くのを。さながら夏に現れる蛍だった。光はまるで太助の呼びかけに答えるかのように、強まったり弱まったりを繰り返している。そして先ほどから太助に答えている声の強弱は、木が放つ光と同期していた。


「木と話しとるんだ」


 豆太はそう確信した。枯草ばかりが広がる月明かりの原野に、太助と木が並んで話をしている。


「それ、シイーッ」


 太助が言った。それは日ごろ豆太を厠へ連れていく際、緊張をほぐして豆太に小便を出させるためにかける言葉だった。木はそれに応えるかのように、一層強く光り輝いた。


 豆太はそろそろと戸を閉じた。音を立てないよう寝床へと戻り、頭から布団を被った。震えが収まらなかった。太助と話している声は、床下から聞こえてくる声と同じだった。



霜月十九日


 この日は峠の猟師小屋を山を一つ越えた隣の村に住むウィッチドクターが訪れている。これは以前太助と関わりのあった村の者たちが、話し合いの末に呼び寄せると決めたのである。太助および豆太に対する詳細な経緯の聞き取りはこの際に行われた。


 原因について太助からはほとんど有用な話を聞きだすことができず、調査は難航した。ウィッチドクターは小屋の建材を調べたり、太助一家が常用する井戸の中を覗いてみたりしたものの、それらしきものはどこにも見当たらなかった。


 転機をもたらしたのが豆太で、彼は始めのうち黒づくめの異様な風体をしたウィッチドクターにおびえた様子だったが、そのうちにおずおずと近づいてきてこんなことを言った。


「ウィッチドクターさま。小屋の前にしゃべる木があります。それが原因ではねだべか」


 話を聞いたウィッチドクターは小屋の前に舞い戻った。厠の前にポツンと立った木を子細に調べ上げて、ついには


「ははあ。これはマンドラゴラだね」


 と結論付けた。


「マンドラゴラとはなんだが」


 問いかける村人に、ウィッチドクターはわざと大きな音を立てて地面を踏みしだきながら話した。


「地上に出ている部位は単なる木にしか見えないんだけどね。本体は地面の下なんだ。人間そっくりの根をしていて、地上に出ている状態でその声を聞くと、人は死ぬか正気を失うんだよ。コイツは根っこが地面に埋まったままで話しているから、声を聴いても無事で済んでいるんだ」


 ウィッチドクターは豆太の方を見て、「お手柄だね」と言った。それから峠までついてきた村人たちに向けて、静かな声で指示を出した。


「マンドラゴラは本来であれば引き抜いて薬の材料にできますが、ここではすでに被害が出ているので、惜しいけれど薬剤をかけて枯らしてしまいます。村の皆様は今から私が言う山草を集めてください」


 話が終わると村人たちは三々五々散らばって山草を探しに出かけた。その場に残った豆太に向けて、ウィッチドクターは言った。


「薬ができるだけの山草が集まるには、きっと時間がかかると思う。私はふもとの村にいるから、何かあればいつでも訪ねて来るように」


 村人たちは暗くなるまで山草を探したが、思うようには集まらなかった。豆太はウィッチドクターが帰った後で、ここ二、三日でとみに生気の薄れつつある太助を小屋の中に連れて戻った。太助は自分をむしばんでいるものが小屋の前の木だと聞いても反応を示さず、ぼんやりと宙を眺めていた。


 その晩、立ち木はいつもより強い光を放っていた。



霜月二十日


 午後のことである。猟に出られず一日中寝床に臥せっていた太助が、ポツリとこんなことを言った。


「今夜木に灯がともる」


 部屋の隅に座り込んでいた豆太は、太助に聞き返した。


「じさま、灯ってなんだべ」


「豆太か」


 太助はその時初めて豆太がいることに気づいたようだった。


「……可哀想にな。灯ってのは山の神様のお祭りだ。おまえのおとうも来てくれるぞ。起きて見てみるといい」


「じさま、何でほんたら風になっただ」


 豆太は涙声で言った。太助にはそれが聞こえなかったようで、後はもうブツブツと何かを低くつぶやくばかりだった。


 山中では薬剤の原料探しが続けられていることだろう。だが完成の報せは未だない。失意の豆太は膝を抱えて座り込んだまま、いつしか眠りの中へと落ち込んでいった。


 目を覚ましたのは真夜中の事である。小屋の中の闇に、話し声がこだましていた。心を苛み、萎えさせてしまう呪いの言葉だ。豆太は耳を塞ぎ、顔を伏せた。


 そうしているうちにふと、聞こえてくる中に呻くような、苦悶の声が混ざっていることに気がついた。立ち上がって目を凝らして見れば、太助が布団を蹴飛ばして、畳の上で腹を抱えてうんうんと唸っていた。


「じさま」


 豆太は太助に駆け寄った。


「じさま、どうした。腹か。腹がいてえんだな」


 太助は額に玉の汗を浮かべて頷いた。畳の上でゴロリと寝返りを打つと、着物ごしにその腹部がほのかに光を放っている。


 豆太は困惑しながらも、震える手で太助の着物の前をはだけた。すると骨と皮ばかりの腹を透かして、太助の臓物が光っているのが見えた。豆太は悲鳴を上げた。しばらくおろおろと両の手を突きだしたままでいたが、そのうち何かを心に決めた様子で、


「じさま。待っててくれ。今ウィッチドクターさまを呼んでくるからな」


 と言うなり、戸外へ向けて駆け出していった。


 外ではマンドラゴラが枝という枝に光を漲らせていた。その一部は光のつぶてとなり、星と見分けがつかないほど盛んに空に放出されている。声もその晩はとりわけ強く、豆太が幹に近づいた時には頭が割れんばかりの大音声にさらされた。


 耳を塞ぎ、頭を低くしてその前を走り過ぎる豆太の足は素足だった。降りた霜が足に刺さって血が出ると、地面の血の流れた箇所がたちどころに隆起して、中を走る根が血を吸うのだった。


 豆太は悪夢を見ているような気持ちになりながら、峠道を無我夢中で駆けた。やっとのことで峠を降りきって、村に着くと住人たちは皆起きて家の外に出ていた。彼らは峠に光る怪しい光を見とめたのだった。


「ウィッチドクターさま」


 豆太が大声で呼ぶと、人混みを掻き分けてウィッチドクターが現れた。


「抜かった。まさかここまで育っていたとはね。すでに峠全体を掌握していたんだ」


 ウィッチドクターはそう毒づいて、村人たちに夜が明けるまで家の中に籠っているように命じた。それから豆太の前で背を向けて屈むと、


「負ぶっていくから、猟師小屋まで案内して」


 豆太を背に乗せて、峠へ向けて道を急いだ。先ほどから光は強まる一方で、今や峠全体が夜空を突く七色の塔と化している。あるいはそれが天候に影響したのかもしれない。月が出ているにも関わらずやがて雪が降り出した。その年の初雪だった。


 峠に差し掛かると、そこら中にこれまで見たこともないような太い根が張り出していた。それらの放つ強い光で、辺りは真昼も同然だった。そして一帯にはマンドラゴラの声が地響きのように鳴り響いている。


 小屋の前ではマンドラゴラの枝が獣の尾のようにのたくって宙を打っていた。空の星に掴みかかるかのようだった。


「成長したマンドラゴラが地面から這い出そうとしているんだ。こうなるともう手に負えない」


 ウィッチドクターは小屋に近づいた。小屋の木材もまたマンドラゴラの枝と同じ色に光り輝いている。鳴り響く轟音に負けじと大声で太助の名を呼ぶが、反応はなかった。


「仕方がない。私が連れてこよう」


 ウィッチドクターは背負っていた豆太を地面に降ろして、小屋の中へと入った。太助はもはや畳の上に伏していなかった。奥に立って両腕を目いっぱいに広げ、天井や壁から発散される光の粒を全身に浴びている。そしてその体もまた、小屋と同じく発光しているのだった。


 警戒しながら小屋の中を進んでいくウィッチドクターを、豆太が不安げな面持ちで戸の外から見ていた。ウィッチドクターは太助のすぐそばまで近づいて、「太助さん」と名前を呼んだ。太助は首をゆっくりとめぐらして、ウィッチドクターの方を見た。それから低い、掠れた声でこう言った。


「……ああ……いい夜だ…………星に……手が……届きそうだ…………それ……シイーッ」


 次の瞬間、太助は全身から強い光を放った。もはや人の身には程遠い存在と化した身体にいくつものひび割れが走って、そこから光の粒子が溢れ出し、ついには火球となって爆発した。ウィッチドクターは吹き飛び、壁にしたたか背中を打ち付けた。


 痛みに呻きながらウィッチドクターが立ち上がろうとした時、豆太が茫然と立ち尽くしているのが目に入った。ウィッチドクターはすぐにでも豆太を連れて峠を降りようとしたが、豆太はその腕をするりと抜けて、小屋の脇へと駆けて行った。そこには鉈がかけてあった。


「んがよくもじさまをやったな」


 鉈をとった豆太は泣き叫びながら、マンドラゴラに斬りつけた。それも一度や二度ではない。そのたびマンドラゴラの幹からは黒い血が噴き出し、悲鳴にも似た声が上がった。枝は狂ったようにのたうった。ともすれば枝の先で打ちのめされかねない豆太をウィッチドクターが後ろから押さえつけ、肩に担ぎあげた拍子に手に持った鉈が地面に落ちた。


 ウィッチドクターはそのまま全速力で峠を駆け下りた。返り血で血まみれの豆太は、ウィッチドクターの肩の上で異常な光景を目にした。太助があれほど今年は見かけないと言っていた鹿の姿。ただしそれは光が鹿の形を象ったものだった。人の形をした光もあった。豆太の父と母によく似ていた。斜面を内側から食い破るようにして現れる木の根。降り注ぐ雪は地面についた端から蒸気に変わっていた。絶え間ない轟音がそれらに対する正常な思考を奪っていった。


 村に着いたウィッチドクターはすぐさま目についた村人の家に入って、豆太に耳を手で塞いでじっとしているように言った。その晩豆太を始めとする近隣の住民たちが最後に目にしたのは、大量の蒸気と光を放出する峠から、何か巨大なもの星空へ向けて登っていく姿だった。


 浮かび上がったものは極彩色の光輪に幾重にも取り囲まれていて、その中に体の至る所から根を生やした人らしき姿が、影絵の如く浮かび上がって見えた。それが口を開いた時、猛烈な空気の波が一帯を襲った。風が荒れ狂い、真下にある峠からは途方もない大きさの水蒸気の雲が空の高みへと沸き上がった。その間村人たちはずっと何の音も聞こえなかった。あまりにも大きな音が他のすべての音をかき消していたのだった。


 卒倒する者が出るやら、前後不覚に陥る者が出るやら、村人の被害は様々だったが、幸いにして死者は出なかった。何かが去った後、空には名状しがたい色のオーロラがいつまでも残っていた。



霜月二十一日


 夜が明け、猟師の一人が峠を訪れると――この猟師は十日前に太助と猟に出た人物である――あたりはすっかり様変わりしていた。この季節の峠には枯草や冬の花が見られたが、それらが一つ残らず煙を上げる白い灰に変わっていた。太助と豆太が暮らしていた猟師小屋はあらかた崩れ去り、灰に埋まった猟銃は融けて縮んでいた。


 太助の遺体は跡形もない。小屋の跡地には人が立って入れそうな深い穴が開いていて、周囲は焦げ跡になっていた。もはやこれ以上できることが何一つないのは明らかで、猟師は早々と村へと引き上げていった。


 語るべきことはもうあまり残っていない。豆太は猟師の元で預かられることになった。ウィッチドクターは山向こうの村へと帰って行った。猟師は後にこの日のことを振り返って、「帰る前にウィッチドクターと話をしておくべきだった」と語っている。


「始めは気のせいだと思ったんだ。もうこれで全部終わったんだって。だども後から、実はそうじゃねんじゃねえかって気がしてきて。……崩れた小屋を見に行った時に、太助のしゃべる声を聞いた気がしたんだ。ほんたらわけねって思ったんだども、ちょっとの間してまた峠のそばへ行ったら、今度は清太の声が聞こえて。……あそこにはまだ何かがいるんじゃねだろうか」


 以上が枯れ野が「へちかち原」と呼ばれるゆえんである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヘチカチの木 マツモトキヨシ @kiyoshi_matzmoto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ