クリスマスシンドローム

桃染さつき

クリスマスシンドローム

 一二月二五日。

 今日は、猫も杓子も浮き足立つクリスマス。世の中は今、クリスマスムード一色だ……と思う。自信をもって断言できないのは、自分の目で外の様子を確認できないからだ。

 ベッドから上体を起こし、窓の外の景色に目を向ける。澄み切った青空の中、申し訳程度に粉雪が舞っている。

 クリスマス症候群。子供も大人も、なぜかその日を特別視してしまう。もちろん全員がというわけではない。が、ほぼ過半数以上がそうしているだろう。

 クリスマスといえば、ケーキであったりパーティーであったり、サンタクロースからのプレゼントやイルミネーションにクリスマスツリー、デートや豪華な食事なんてものを連想して、実際にそれらを堪能する者が多い。いいや、堪能するというよりかは従っているように見える。

 クリスマスだからケーキを食べなくちゃいけない。クリスマスだからプレゼントを買わなくちゃいけない。クリスマスだからイルミネーションを、デートを、以下略。

 そんな彼らは、集合的無意識による一種の強迫観念にかられているように思う。

 別に否定したいわけじゃない。ただ、なぜクリスマスだからケーキやイルミネーションやツリーやらが必要なのかがわからない。

 あたしにとっての今年のクリスマスは、何といっても駅伝大会だった。ケーキやプレゼント云々よりも至極大事なことなのだ。しかし、あたしの楽しみにしていたクリスマスが訪れることはなかった。

 あたしにとって走ることは生甲斐だ。幼い頃から走ることだけに精を出して生きて来たのだからそれも当然。他に熱中できるものは何もない。

 どうしてきつい思いをしてまで走らなきゃいけないのか?

 そう聞かれたことがある。答えは単純に楽しいからだ。そのきつさこそが、あたしにとっての楽しみである。自らの体を追い込み鍛える行為は、決して自身を裏切らない。苦しさに耐え、頑張った分だけ必ず結果に繋がる。だからやめられない。走り続けることは、己の限界との闘争である。

 めげない、負けない、挫けない。これがあたしの人生においての三箇条だ。だが、今回初めてその三箇条に抗うことを余儀なくされた。


「今頃、みんな走ってるんだろうなぁ」


 五日前、あたしは部活動の帰り道で事故に遭いかけ、足首を強く捻り骨折してしまった。そのため現在入院中である。

 とっさに体が動いてしまったのだ。車一台分しか通れないほどの細い道だった。目の前に居た小学生の背後から、止まる勢いもなく猛スピードで自転車が迫っていた。瞬発力や足の速さには自信がある。だから、一切の迷いなく駆け出していた。正面から小学生を包み込むようにして庇い、立ち位置を逆転させようとした時だった。

 鋭く、滾るような痛みが走った。

 幸い衝突は免れたが、自転車はそのまま走り去ってしまった。

 運転手はフードを深くかぶっていたため、顔はわからなかった。体格から推測するならば、一五〇センチ前後で小柄だったため、女性として考えるのが妥当だろう。あくまであたしの見込みでしかないのだけれど。

 右足首の痛みを完全に認識した瞬間、頭の中が真っ白になった。

 ――駅伝に出場できない。

 医者からはおおよそ全治一か月と言い渡され、出場はもちろんのこと、観戦すら許可が下りなかった。だから仕方なく病室でおとなしくしているというわけだ。

 そんなあたしのもとに、幼馴染の伊織菜絆は今日も訪れた。


「こんにちは、椿ちゃん。足の具合、どう?」


 あたしよりも一〇センチほど背の低い菜絆は、厚手のチェスターコートに身を包み、頭にはベレー帽を載っけている。首元を覆う白いタートルネックに、カーキ色のキュロットスカートからのびる華奢な太もも。彼女は、同性のあたしが見ても魅力的で愛らしいと思う。だが、その服装は明らかにこの部屋には不釣り合いだった。


「まずまずってところかなぁ。っていうか足元寒くないの? 少し赤くなってるよ?」


 雪化粧を施したように冷気を帯びる彼女の脚は、季節外れな紅葉の景色を連想させた。


「ううん、全然寒くないよ」


「いや足震えてるし!」


 菜絆は明らかに強がっているだろう。変なところで意固地だ。


「なんでそんな格好してきちゃったの? 風邪ひいちゃうよ? あ、待ってさては男だな? これからデートの約束でもしてるんでしょ?」


「ち、違うよ。だって、今日、クリスマス……だから……」


 頬を膨らませ、あたしを非難するような目を向ける。菜絆は怒った顔をしても可愛くて迫力なんて一切ない。寧ろ頭を撫でたくなる。


「可愛いなぁ菜絆は。ほらおいで、温めてあげる」


 あたしの呼ぶ声に、菜絆は素直に従った。

 たおやかな彼女の体をそっと腕の中に収める。微かに鼻腔をくすぐる桃の耽美な香りに頭がクラッとした。


「菜絆、今日も良い匂い」


 猫の毛並みを整えるようにして、菜絆の後ろ髪を撫でる。手入れを一切怠っていないのだろう、彼女の艶やかな髪はいつだって抜群の指通りだ。


「えへへ、ありがとう。椿ちゃんに褒められると、嬉しい」


 菜絆はうっすらと頬を朱色に染め、下から覗き込むような上目遣いであたしの瞳を射る。

 彼女にとって今日は特別な日に違いない。あたしにはわかる。きっと菜絆は、今日のお見舞いをクリスマスデートにしたいのだと。

 あれはいつからだっただろう。いつの日からか、毎年この一二月二五日クリスマスは菜絆と一緒にイルミネーションを見たり、プレゼントを交換し合ったり、ケーキを食べたりと、俗に言うクリスマスデートをしていた。今年は駅伝大会で菜絆と一緒には居られないと思っていたのだが、結果的に彼女とのいつも通りのクリスマスに落ち着きそうだ。

 まあ、イルミネーションを見に行くことはできないけど。

 残念だと思っているあたしも、結局は集合的無意識に囚われているのだろうか。


「椿ちゃん。今、イルミネーションは見に行けないって顔してた」


「あはは、わかっちゃった?」


 ゆっくりと菜絆を腕の中から解放する。


「椿ちゃんのことなら何でもお見通しだよ」


 そう言って微笑むと、菜絆は右手にぶら下げていた紙袋の中に視線を落とした。


「だからわたし、今日はね、椿ちゃんのためにイルミネーションを用意したんだ」


「え?」


 きょとんとするあたしに向けて、菜絆はそれを取り出した。


「じゃ、じゃあーん! クリスマス使用のハーバリウム! わたしの手作りなんだよ?」


 シナモンの幹を軸に、ヒムロスギを基調として、サンキライの実とアジサイの花びらを散らしてみたんだ、そう嬉しそうに解説する菜絆だったが、あたしにはただ単純に綺麗だという気の利かない感想しか用意できなかった。


「うわー! すっごい綺麗! あれ、でもこれイルミネーションというよりクリスマスツリーじゃない?」


 あたしの問いかけを待っていましたとばかりに、菜絆は紙袋の中からもう一つ何かを取り出す。


「ううん、その両方。ハーバリウムを、このライトステージの上に乗せると……」


 カチッという音を追い、ハーバリウムに色が灯った。


「え! 何これすごい!」


 クリスマスツリーを閉じ込めたハーバリウムが、赤色、青色、黄色や紫色など、目まぐるしく鮮やかに衣装を変えていた。

 それはまさしく、手のひらサイズのイルミネーションに違いなかった。


「メリークリスマス! 椿ちゃん!」


「ありがとう、菜絆。すごく、すごく嬉しいよ。絶対大事にするから」


 イルミネーションを受取り、じっくりと観察するように眺める。凝っているのはハーバリウムの中身だけではないみたいだ。瓶自体にも雪の結晶の模様を施し、キャップ部分の下のくぼみにはレースと星のアクセサリーが取り付けられている。


「そうだ、あたしも菜絆にプレゼント用意してるんだ。そこのワゴンの引き出しに入ってるから、開けてみて」


 菜絆は首をかしげて遠慮がちに引き出しを開くと、小さな箱を手に取った。


「開けても、いい?」


「もちろん」


 その合図で、菜絆は慎重に小箱の蓋を外す。


「これ、椿の花、だよね?」


 今彼女が手にしている小箱の中には、椿の花の形をしたネックレスが入っている。

 そして、


「あたしも今、薺の花のネックレスをつけてるんだよ? お揃いのやつ、特注なんだ」


 首元をはだけさせ、菜絆にネックレスを見せつける。


「椿ちゃん……。ねぇ椿ちゃん? わたしにこれ、つけてほしい」


 菜絆の懇願するような眼差しに、あたしはしっかりと頷いた。


「うん、いいよ」


 菜絆はベッドに膝をつき、あたしの顔を覗き込むようにして近づく。そんな彼女のうなじに手をまわし、ネックレスを取り付けた。


「うん、すごく似合ってる。可愛いよ、菜絆」


 タートルネックの上から主張する椿の花が、菜絆の笑顔をより際立たせた。

 彼女の咲かせる花が、いつだってあたしの胸を満たしてくれる。

 どんなに苦しくても、ゴールの向こう側でいつも彼女がその花を咲かせて待っていてくれるから、あたしは完走できる。

 最初はもちろん自分の自己満足のためだった。でも、いつの間にかあたしは、限界の先に咲く一輪の花を求めるようになっていた。

 めげない、負けない、挫けない。あたしを支えてくれるのは、今までもこれからもきっと菜絆という花だ。


「菜絆はさ、どんな時もあたしと一緒に居てくれたでしょ? 今回だって毎日アレンジメントを携えてお見舞いに来てくれたし、とても嬉しかった。幼稚園の頃から、ずっとあたしの隣には菜絆が居て、菜絆があたしのことを応援してくれるから、だからあたしはいつまでも走り続けることができるんだと思う」


 負けてもまたすぐに立ち上がれるのは、菜絆があたしを励ましてくれるから。めげずに、挫けずに頑張れるのは、菜絆が応援してくれるから。

 彼女は、あたしにとって世界に一つだけのかけがえのない花だ。


「ずっとあたしのそばにいてくれてありがとう、菜絆。これからもよろしくね」


 あたしは菜絆に右手を差し出した。なんとなく気恥ずかしくなって、握手で誤魔化そうとしたのだ。だけど、菜絆はその手を取らなかった。代わりに、あたしの胸に飛び込んできた。


「わたしも、椿ちゃんに感謝してる。わたしね、椿ちゃんと一緒に居るとすごく幸せな気持ちになれるの。どんなに綺麗な花を見ても満たされない気持ちも、椿ちゃんは満たしてくれる」


 菜絆は、ゆっくりとあたしの背中に手をまわす。妙に艶めかしいその手つきに、意思とは無関係に背筋がひと際大きく跳ね上がる。そんなあたしの反応に、菜絆は耳元で「可愛い」と囁いた。

 瞬間、耳の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

 菜絆の右手が徐々に上へと迫りあがってくる。撫でるように首筋を這い、下顎を存分に弄ぶ。

 彼女は満足げに、甘美さを絡めた息をあたしの耳に吹きかけた。


「椿ちゃん、わたしね、甘いケーキも用意したんだ」


「え?」


「目、閉じてもらえるかな? わたしが食べさせてあげる」


 その指示に異を唱えることなく従い、あたしはきつく瞼を閉じた。

 刹那、あたしの意識の中に未知の感覚が熱く溶け込んだ。

 ――甘い。

 それは確かに甘さを十分に含んでいた。しっとりとしたホイップは、乾いたあたしの唇を強引に潤してくれる。

 初めは軽く触れ合う程度だった。だがそれも、互いの欲求に歯止めが利かなくなり、どちらからともなく、ついばむように唇を求め合った。


「椿ちゃん、好き……大好き」


 菜絆の声が唾液と混ざり合い、あたしの中に流れ込む。

 あたしも菜絆のことが好きなのは間違いない。ただ、その好きの意味合いが菜絆のものと同じかどうかはまだわからない。だから少し戸惑ってしまう。

 こういう関係になってもいいものかと。


「椿ちゃん……椿ちゃん……っ」


 吐息の隙間から漏れる、菜絆のあたしを呼ぶ婀娜めく声に血が騒ぐ。

 好きだという気持ちがある以上、菜絆を拒む理由にならないのは明白だ。


「うん。あたしも、菜絆のことが好き」


 お返しに、あたしも菜絆のオブラートを舐めるように抉じ開けて、甘い熱を流し込んだ。

 体の内側から肌がピリピリと痺れていく感覚に、本能が刺激されて止められない。

 ――もっと菜絆を感じたい。

 あたしもとっくに理性を損失してしまったみたいだ。

 しばらくの間、あたしと菜絆の荒い息だけが病室のBGMと化していた。


 落ち着きを取り戻した病室に、スマホの素っ頓狂な音が鳴る。ディスプレイに目を落とすと、部活メンバーから今日の結果の連絡が届いていた。


「結果、出たみたい」


あたしの声に、ベッドの脇に腰かけていた菜絆がこちらへ振り返る。


「どう、だったの?」


「予選八位、だって」


「……そっか」


 これまであたしたちは上位三位以内に入賞してきた。一度は優勝したこともある。そんなあたしたち三年生にとっての最後の試合は、正真正銘の惨敗だった。

 大会に出られなかった悔しさと、自身の無力さを痛感した途端、視界が霞み出した。


「なず、な……」


 あたしの絞り出した声を拾い、菜絆は優しく抱き留めてくれた。


「やっぱり、悔しいよね。わたしの胸の中で、気が済むまで思いっきり泣いていいからね?」


 彼女の温もりに身を任せ、溢れ出した感情を抑えることなく吐き出した。

 今だけは、今だけは負けてもいい。また立ち上がれるから、あたしは何度だって立ち上がれるから、今はもう弱音を吐かせてほしい。


「わたし、ずっと椿ちゃんのこと見て来たからわかる。一生懸命走り続けてきたからこそ、だからこその悔しさなんだよね」


 菜絆は、子供をあやすようにあたしの背中を擦ってくれている。


「大会で結果を出すことは、椿ちゃんにとってすごく大事なことだったのかもしれない。だけどね、椿ちゃんはを庇って助けたんだから、それはすごく名誉なことだよ。一生誇っていいことなんだよ」


 今回のあたしの分岐点を、あたしの後悔を、間違っていないと諭してくれる菜絆。

 ――その時、妙な違和感を覚えた。

 それは、だった。


「椿ちゃんは悪いことなんてしていない、だから、どうか自分のことを責めないで」


 そうだ、あたしは悪いことなんてしていない。悪いのは……。


「わたしにとって椿ちゃんは、とても素敵な花だから」


 あたしの周りを取り囲む、複数のアレンジメントと正面の植物標本ハーバリウム。ここに来てから、菜絆のくれた色んな花たちに励まされて過ごしていた。今も尚、目の前の大事な花に慰められている。

 ――こんなこと、気づかなければよかった。

 あたしは多分、今までずっとそうだったのだろう。そして、これからもそうやって菜絆のものになっていくんだ。

 クリスマスはいつだって必然だったんだ。子供も大人も、そのほとんどがそれに囚われている。もちろん、菜絆もあたしも。

 今回だって、きっと初めから決められていた。

 あたしはその波から逃げきれなかったんだ。

 足首の痛みを、取り囲む無数の花たちが祝福する。

 そうか、あたしは菜絆にとっての――。

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クリスマスシンドローム 桃染さつき @momozome_satuki

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