月宴(冒頭)
冷蔵庫を開けると封筒が入っていた。
宛名はない。代わりに、裏返すと真っ赤な封蝋が押してある。くっきりとした紋章は三日月を象っていた。
はあああ、と深い息が漏れた。
できるだけ奥へ、容赦なく投げ込む。苺ジャムの壜にぶつかって不服そうに立てた音を無視し、食材を取り出すと扉を閉めた。
ベーコンエッグとトマトサラダ、それに薄切りのトーストを平らげて、湯を注ぐだけのコーンスープを啜るとようやく体が温まってきた。暖房の設定温度をもうひとつ上げる。年の瀬年の瀬と連呼するテレビなど、寒さと寝起きによる不機嫌が収まらない私には忌々しいだけなのですぐに消した。
洗い物を終えシャワーを浴び、パソコンを立ち上げてメールをチェックする。ウェブサイトをいくつか巡回し、時計を見るとまだ正午にすらなっていない。時間潰しは見事失敗した。
さっきは面倒くささに、今度は観念してため息をつく。
再度冷蔵庫を開け、よく冷えた封筒を取り出す。便箋にはたった一行走り書きがあった。
至急来られたし。酒肴持参のこと。
「馬鹿か?」
酒肴持参のこと、に赤いインクで下線が、あろうことか三本も引いてあるのを見て罵倒を止められなかった。強調するなら至急のほうだろう。万年筆によるものらしい文字が、ざっとした筆致にしては整っているのも気に入らない。
最も腹立たしいのは、私が必ず訪ねてくると信じているところだ。口先だけで信じているよと言いながら実際は都合の良いようにこちらを誘導してくるのではなく、無邪気に純真に。
肝の据わった楽天家など、どう考えても勝てるわけがない。
仕方なく、手近なつまみをかき集める。小魚とアーモンドを混ぜたスナックが好物だと知ってから手元に切らさなくなったのが情けない。情けないが、しっかり布袋に放り込む。他にもチョコレートと生ハムを見つけて荷物に追加した。買ったまま食べずにいたスナック、作り置きの総菜なども詰め込むと袋はちょうどいっぱいになる。
呼ばれて尻尾を振る犬のような振る舞いは嫌いだ。
人付き合いが嫌いなわけではない。むしろ友達は多いと思うし、一緒に何かするのも好きだ。ただ、体よく使われるのはどうしても気に入らない。明らかに蔑まれているのにへらへら笑って従うなんて、まっぴらごめんだった。
まっぴらごめん、なのだが。
都合を無視して呼び出されておいたくせに、いかにも買い出し用といった頑丈な造りのバッグにこれでもかとつまみを放り込んでいるのはどうしてなのだろう。
彼は矛盾を許容するけれど、他人には矛盾を強要する。しかも拒否することをためらうような方法で、なし崩しに人を巻き込んでいく。
つまり、人たらしだ。
ドアノブを掴むときの感触に、いつも少しだけ動揺する。部屋は暖房が効き過ぎてもはや暑いくらいなのに、自室へ続く扉に生えた銀色のステンレスは夏の夜に似てひんやりと手に馴染む。
まるで、向こう側が滲み出してきているみたいに。
ひねれば抵抗なく回り、押し開けた隙間から潮の匂いと波の音がぶわりと流れ出してきた。
立ち入る際のコツは、目蓋を半分閉じておくこと。そうしないと、砂のまぶしさに目がくらんでしまう。
だから最初に見える彼の姿はいつもぼやけている。砂浜にあぐらをかいて座り、水平線をぼんやり眺める様は修行僧のようにも見える。彼自身にそんなストイックさなど、あるはずもないが。
「よ。久しぶり」
月浜定点観測所記録集 第三巻 此瀬 朔真 @konosesakuma
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