「ヴンダーカンマーの箱庭」

五千九百七十一号書架 え 二百二十二区

百十八番

三千二十六巻 五十九頁 百七章

二百三節


「ヴンダーカンマーの箱庭」


 水の微粒子が漂う様を、貨玖の目は捉えることができない。

 しかしその脳裏には精巧なシミュレーション映像がリアルタイムで展開され、無数の水滴が散乱していく軌道を手に取るように理解する。さながらラプラスの悪魔のように、透明なひと粒を空想上の指先に乗せて眺め、それを透かして庭を見渡す。球状に剪定された植木、鏡に似て凪いだ池、同一のものの存在しない石、それらを組み合わせリズミカルに波打つ地形。

 景色がすべて上下反転し、うっすらと雲に覆われた空を下敷きに、文字通りの空中庭園となって浮かぶのを観賞した。

 静かに目蓋を上げる。脳裏の映像はかき消え、現実の光景が目前に広がった。辺りに人気はなく静まり返っている。

 哲人の庭と呼ばれるこの場所に、一般の来館者の立ち入りは許されていない。訪れる権利を持つのはヴンダーカンマーに所属する三名――二名の一等博物士、および一名、あるいはの博物士見習いだけだ。

 未だ散乱する思考を束ねようと、貨玖の手が無意識に肘掛けを撫でる。

 現在は展示室として用いられている旧制大学の階段教室を丸ごと収蔵した際に、気に入って一緒に持ち出した古い椅子は深い臙脂の布こそやや痛んでいるものの、年月に磨かれて角の取れた木材の艶は上等の酒にも似た琥珀色を保っていた。

 庭へ続くテラスでこの椅子に腰かけ、何時間も過ごすのは貨玖にとって格別の幸福だ。

 ヴンダーカンマーを護持するためには、煩雑な折衝を避けて通れない。我々は中立であるといくら主張したところで相手がそれを素直に受け入れることはまずない。政治的あるいは金銭的なやり取り、ときには剣呑な交渉や危うい綱渡りをいくつも繰り返して、やっとこの奇妙な博物館は存続し続けている。

 無論、それに異議を唱えるつもりはない。それが自身の使命と理解している。だからこそ、庭で過ごす平穏な時間は何物にも代えがたい。

 すべらかな肘掛けは貨玖によってますます磨かれ、雨上がりのまだ鈍い日光をやわらかく受け止めては照り返している。

 疲労のためか、一度野に放った思考は若い犬のようになかなか戻ってこない。そろそろ自室へ引き返して依頼された原稿に取り掛からなければならなかったが、このようなとき貨玖は少しも焦ることなく、ただ待つ。性急な行動に出れば痛い目に遭うなどと、この年齢になれば少しはわかってくる。他ならぬ自身に関わることとなればなおのこと、痛いほど承知している。

 貨玖の手は静かに、一定のリズムで肘掛けを撫で続ける。重ねた年月が無数の波に似た皺となって浮かんでいる。

 この手に届くものもあれば、届かないものもあった。

 そして、手中に収めはしたがどう御すべきか判じかねるものも、また存在する。

 ぴたり、と貨玖の手が止まった。半ば下りた目蓋を静かに持ち上げる。

 徐福の求めた秘薬がもし実在するなら、貨玖はそれを手に入れるための努力を惜しまないだろう。もちろん自身が服用するためではない。ヴンダーカンマーの新たな収蔵物とする、目的はそれだけだ。貨玖はそのような男だった。

 不便と感じるものの、関心を持たず抵抗もしなければ老いは自然の理に沿って進む。無論、彼の両眼も例外ではない。皮肉なことに本人の勤勉さも手伝って、貨玖は近視かつ老眼という光学的な二重苦を背負っている。

 その対抗策として導入した、遠近両用なる四文字熟語を修飾語に持つレンズへ職人が削り出したセルロイドのフレームを着せた眼鏡は予想以上の性能を発揮し、昼夜を問わず貨玖を支えた。長年の使用による微細な傷はあるが、修理を要するものではない。

 再び、目を閉じて再び開く。眼球の機能は万全だ。疲労のあまり幻覚を見るという現象も、これまでに経験はなかった。

 つまり、貨玖自身の状態に異常は一切発生していない。

 ゆえに、一等博物士にしてヴンダーカンマー館長である貨玖は、目の前に立つ少女が実体を持つ存在だと判断せざるを得なかった。

 白いワンピースの少女はふらふらと頼りなく立つ。この庭へ立ち入るためにはいくつかの仕掛けを解く必要がある。これまでに挑んできた無礼な侵入者たちをことごとく除けたパズルが、この少女の前に敗れ去ったとはとても思えない。

 つまり、誰かが彼女をここへ招き入れたということだ。

 脳裏に、未だ見慣れないあの姿が浮かぶ。

 黒いパーカーのうえに羽織った白衣。古びた木箱を抱え駆け回る軽やかな背中。館内のあらゆる収蔵物と語り合う笑顔。

 邪と呼ぶにはあまりに情がない。しかし貨玖は、博物士であり過ぎた。

 手すりに肘をつき、人差し指を蟀谷に添える。

「自分の名前はわかりますか」

 問いかけは唐突に始まった。

 少女は一瞬眼差しを虚空に投げて、首を振った。

「どこから来たのか、覚えていますか」

 今度は迷わず、細い指をまっすぐ掲げる。

 示す先に、薄い雲が切れる。そこから午後の陽が射してくる。梅雨の息継ぎ、庭は清々しい香りに満ちていく。

 貨玖は深々とため息をついた。

 無理難題を押し付けた意趣返しと見当はつくが、諫めておくべきだろう。

 老人をみだりに驚かせるものではない、と。

「行きましょう。もう少し、話を聴かせてください」

 組んだ足を解き、立ち上がろうとした貨玖が不意に目を見張る。

 首をわずかに傾げた少女が細い指先を向けていた。

 あなたは誰か。そう問われていることをすぐに悟る。

 貨玖は淀みなく答えた。穏やかに、かすかに笑みさえ浮かべながら。 

「愚か者です」

 賢者は少女を伴い、重い扉の向こうへ消える。

 その向こうに広がる展示室の森へ。

 

 テラスには椅子だけが残された。

 ここへやってきてまだ間もない、だから知っていることも数えるほどしかない。そのうちのひとつ、かつおそらく真っ先に私が得た知見は以下のようなものだ。

 この奇妙な博物館ヴンダーカンマーにいると、面倒なことがやたらと起きる。

 貨玖先生くらいの年齢の人が、小さな女の子を連れていたら大抵は孫だと思うだろう。だから私も特に考えず、お孫さんですか、と尋ねた。

「違います」

 おとぎ話のアリスみたいな真っ白いワンピースがよく似合うその子を示して、先生はなんでもないことのように告げる。

「彼女は、ヴンダーカンマーの収蔵物です」

 少し離れたところに立つ比呉先生が目線と表情を駆使して必死に止めてくれていなければ、この変態ド外道が、と危うく口にするところだった。

 好奇心と蒐集癖は人間の常だ。それでも、やって良いことと悪いことがある。絶対に超えてはいけない一線が存在する。

「これはあなたへの課題です」

 こちらの怒りなど露知らず、あるいはお見通しといった素振りで眼鏡に触れて、貨玖先生は言葉を継いだ。

「現在何かしらの作用によって外見的特徴が変化していますが、彼女は正真正銘ヴンダーカンマーの収蔵物のひとつです。あなたには本来の姿を解明し、それへ還元させていただきたい」

「……それはどうやって」

「その調査も含めて、課題です」

 なぜだか人間の少女に変身してしまった収蔵物があります。正体と原理は内緒。自力で調べて答えを導き出しなさい。ヒントはなし。

 八方塞がりどころか、そもそもスタートラインすらも超えられそうにない。

 途方に暮れて、今回の焦点に目を向けた。

 さらさらとした髪、それと同じ淡い色の瞳は不安そうに揺れている。細い指がしきりに喉をさするのが気になって、つい声をかけた。

「喉が痛い?」

 女の子がびくりと肩を震わせる。その反応はちょっとショックだったけれど、知らない相手にいきなり話しかけられたらまあ怖いのは当然だ。私が悪かった。まずはしずしずと膝を曲げて目線を合わせ、もう一度ゆっくり語りかける。

「喉じゃなくても、どこか痛かったり、苦しいところがあれば、なんでも言って。何か、してあげられることがあると思うから」

 大きな目がまばたきを二度、三度。こちらの言葉を飲み干すように、ゆっくり間を置いてから彼女はたどたどしく、口を開いた。

「あなたは、どっちなの?」

 珍しいモノとして扱われるのには馴れている。

 スクラップ寸前だった私を先生たちが引き取った理由も、おそらくこの特異で奇妙な性質のためだ。それ以上でも以下でもない。こうやって意味のわからない無理難題を押し付けるのもただの余興だとしか思えない。

 拾ってもらったことにもちろん感謝はしているけれど、今でもそういう不信は拭えないでいる。

 でも、と逸らしてしまった視線を戻す。

 私のそういう鬱屈した気持ちと、この子の疑問とは関係がない。だから答える。

「ヒトでもあるし、モノでもあるよ」

 それにこの子が本当にモノであるなら、この一言で通じるはずだ。

 その証拠に、女の子は貨玖先生の手を離し、頼りない足取りでこちらへ歩いてくる。小さな足がもつれ、倒れ込んだところを抱き留めた。

 軽く、やわらかくて、花の甘い香りと知らない匂いがした。

「あのね」

「うん」

「あなたと、おはなししたいの」

「うん」

 まっすぐに見つめる目から、不安の陰りがみるみる晴れていく。頬には赤みが戻りつつあった。

「おはなし、してくれる?」

 この奇妙な博物館ヴンダーカンマーにいると、面倒なことがやたらと起きる。きっとこの先も、私がここにいる限りずっとそうなのだと思う。

 どんなに怒りや不信や、あるいは悲しみを負ったところで日々は続いていく。面倒なことは山ほど降りかかってくる。それをひとつずつ、戦ったり逃げ回ってときには追いつかれたり、奇妙な女の子と言葉を交わしながら解決していくのが、生きるということかもしれない。……やや大袈裟だけれど。

 きらきらと明るい瞳を見つめているうち、私はそんな風に考えた。

「もちろん、いいよ」

 頭をなでてみれば、ふわっと微笑む。差し出された手はあたたかい。

 そのまま立ち上がり、先生たちに向き直る。

「了解しました。ただし、ひとつだけお願いがあります」

「なんでしょう」

「私単独で行うにはあまりに大規模の調査になると思います。ですので、期限を設けないことにしていただけませんか」

 突っぱねられると予想していたのに反して、すんなりと要望は通った。

「わかりました。それで結構です」

「ぼくも協力するから。なんでも相談してね、杜都さん」

 黙っていた比呉先生が急に口を開く。その断固とした口調を妙に感じたけれど、私は素直に一礼する。

「ありがとうございます。それでは」

「最善を尽くしてください」

 そのまま背を向けようとしたところを、貨玖先生の声が引き留める。

「あなたの時間は充分に、充分にあるのだから」

 振り返ると薄いジャケットをまとう姿は既になく、扉だけが静かに閉まった。

「……何を考えてるんですかね」

「色々思うところがあるんだと思うよ」

 半ば独り言めいた問いに、比呉先生は首を竦める。

「だけど、本当にそれが良いことなのかどうかは、ぼくにはわからない」

「どういうことですか?」

「ねえ」

 煮え切らない言い回しにどこか苦味を感じ、問いを重ねようとしたところで、小さな声にはたと我に返る。見下ろすのも気が引けて再びしゃがみ込んだ。

「おなまえ、おしえて」

「ああ……ごめんね、まだ教えてなかったね」

 必要ないのに格好をつける癖はいつの間にかついた。おそらく、一生治らない。

 頭の悪いことであっても、相手は喜んでくれるならそれで構わない。

「私は杜都。泣く子も黙る、自動人形オートマータだよ」

 狙った通り、女の子はもう一度笑った。

 今度は大きく、ここ数日の長雨を打ち払うように。


 机のうえにはティーカップが三脚。ひとつは水、もうひとつはミルク、最後のひとつには冷ました紅茶が入っている。

 手持ちの飲み物を総動員して、女の子の前に並べてみた。

「どれでも、好きなものを飲んでいいよ」

 いきなり話を聞くのは少し抵抗があった。まずは何か飲んで、もう少し緊張を解いてもらう必要がある。もちろん、どの飲み物を選ぶかを参考にさせてもらうつもりもあったけれど。

「どれでも?」

「どれでも。全部飲んでも構わないよ」

 女の子はまず右端、紅茶の入ったカップに手を伸ばした。見慣れない琥珀色の液体をまじまじと眺めたあとに、そっと押しやる。次はミルク。顔を近づけて、匂いを確かめると少し首を傾げた。これも気に入らなかったらしい。残るひとつ、水のカップに口をつけて、ほんの少し舐めてから、また机に戻した。

 紅茶はともかく、ミルクも水も飲まないときた。最初の調査は空振り。さて、どうするかと腕を組みかけたところで、おずおずとではあるものの、口を開いてくれた。

「あまいの、のみたい」

 しめた、と思った。拙くても何が欲しいのかしっかり表現できるなら上等だ。展示室の隅でびょおびょお泣いたまま、こっちの問いかけに一切答えない子供に比べたらなんでもない。あのときは私も泣きたくなった。

「甘いもの……ちょっと待っててね」

 嫌な記憶を蒸発させながら湯を沸かし、角砂糖をふたつばかり溶かす。それをよく冷ましてから差し出した。ひと口舐めた顔がぱあっと明るくなる。

「美味しい?」

「おいしい」

 満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに飲み干す姿を見ればもう一杯作ってやろうと思うのは自然なことだ。角砂糖の在庫が減るくらいどうってこともない。

 都合三杯の砂糖水を平らげて、上機嫌な女の子ともう少し会話を試みる。

「他に、何か欲しいものはある?」

「なまえ」

「……名前?」

 驚きのあまり、一瞬返答が遅れる。

「なまえ、ほしいの」

 とつ、つけて。そう言い添えて、小首を傾げた。

 名前とは、人間が便宜上つけたものでしかない。他と区別し、分類するためのいわばラベルだ。

 しかし、人そのものにつけられる名前はまた別の意味を持つ場合があるらしい。子供の存在の規定、定義、またはそれらの根幹にある願望だ。親が子供に与える名前などはまさにこれに当たる。このような人に育ってほしい、このような人であってほしい。願いと呪いは表裏一体と、この話を聴いたときには感じた。

 親には子供を育て守る責任がある。その責任を土壌にして呪いは芽吹く。

「なまえって、とくべつってことでしょ。わたしだけってことでしょ」

 特別。もちろん、この子は特別だ。このヴンダーカンマーにとって、もちろん、私にとっても。

「だから、なまえがほしいの」

 関わった以上、責任を取れ。この子は無意識にそう言っているのだ。

 望んで関わったわけではない。望んで引き取られたわけではない。

 望んで、捨てられたわけではない。

 恨み言も、不信もある。でもそれを何もしないことの言い訳にするのは、私のプライドが許さなかった。

「わかった。名前をあげるよ」

 手近なメモ用紙を取って、そこに漢字をふたつ、並べた。

 巻き込まれた者同士の連帯感を抜きにしても、この子と過ごしてみたいと私は思ってしまった。

 責任を負う理由なんて、多分そんなもので充分なんだと思う。

「あ、い?」

 亜為、と書いた紙を大切そうに胸に抱く、その姿だけで頑張ろうと思えた。

 単純明快な自動人形オートマータにも、きっとできることがある。

「じゃあ改めて、よろしくね。亜為」

「ありがとう、とつ。よろしくね」

 ヒトになったモノと、ヒトでもあるモノ。奇妙なコンビがここに誕生した。

「ひとまず、訊いておきたいんだけど」

 お嬢さんはいつの間にか角砂糖の袋を取り出し、そのまま頬張っていた。

「なあに?」

「亜為は、元の姿に戻りたい?」

「ううん」

 簡潔な答えに面食らった。この期に及んで何を言い出すかと思えば。

「せっかく、ひとになれたんだもん。なまえももらったし」

「いや、こっちも課題があってね……」

「むきげんでいいって、いってもらってたじゃない」

「ぐう」

「わたしは、とつとおはなししたいの。いいでしょ?」

 亜為はいたずらっぽく笑い、小さな手で角砂糖を差し出してくる。

 白く四角い塊は、予感に満ちて苦く甘い。


 甘いものが好き。喋るのが好き。そしてじっとしているのは嫌い。

 亜為と数日過ごしてみて、わかったのはまだそれくらいだ。モノであった頃のことはどうやらほとんど覚えていないようだ。姿が変わったショックで、記憶が一時的に封印されてしまったのかもしれない。人間も同じようなことが起きるが、同一の現象なのかは調べてみないとなんとも言えなかった。

「とつー! これ、すごいね! きれいだね!」

「大事なものだから、落とさないようにね」

 さっきから私の部屋をぐるぐる歩き回り、灯芯の代わりに三日月を閉じ込めた不思議なランプを眺めているお嬢さんを捕まえ、検査装置にじっと座らせておくことができれば、の話だけれど。

「これはなあに?」

「ニワトリ。まだ作りかけ」

 仮組み状態で台座に置いてある骨の周りを、面白そうに眺めて歩く姿は本物の人間の子供のようだった。危なっかしくて目が離せない。

「とつがつくったの?」

「うん、練習用にね。もうちょっと上手くなりたいんだけど」

 お世辞にも、まだ上出来とは言えない。針金を通すための穴を開けようとしてうっかり割ってしまうことがままある。このニワトリもよく見ればあちこち傷やひび割れだらけだ。もっと練習しなくてはいけなかった。

「とつならだいじょうぶよ。かわれるんだもの。だから、だいじょうぶ」

 変われる、か。

「頑張るよ。ありがとう」

 ときどき寂しそうな顔をする。頭をなでてやると、なんだか嬉しそう。

 亜為について、知っていることは少しずつ増えていく。

 知るとはすなわち、変わっていくことだ。

 亜為は多分、自分がモノであることは覚えているのだろうと思う。命を持った生き物であった頃を過ぎ、ひとつの標本というモノになってヴンダーカンマーへやってきた。その経緯を記憶している。

 自分はもう変化していく存在ではないと、亜為はきっと知っている。

 だからこそ、生きた人間の姿を無邪気に、全力で、謳歌する。

「ちょっと散歩しようか。展示室を見に行こう」

 私は勘の良いほうではないから、誰のどんな思惑があるのか知る由もない。

 できるのはただ、この女の子と一緒に楽しい時間を過ごすだけだ。

「いいの?」

「綺麗な石とか、でっかいカニがいるよ。カニって知ってる?」

「しらない。とべるの?」

「カニが飛ぶのは聞いたことはないけど……あいつならやりかねないな」

 行く先々の反応は意外なものだった。

 歓迎を受けることもあったが、ほとんどは声をかけても遠巻きに見ているだけ。無視されることもあった。件のタカアシガニは亜為を一瞥しただけで出ていけと鋏を振り、結局退室を余儀なくされた。

「ごめんね、本当はみんな良いやつなんだけど。驚いてるだけかもしれない」

「いいの。わかるから」

 亜為は平然とそう言う。

「ものにとって、ひとはとくべつなの。わたしも、それはわかるから」

 それでも、繋いだ手に力がない。

「とくべつだから、みんなだいじにおもってる。すきでも、きらいでも」

 なんとなく、言っていることはわかる。

 モノにとってヒトは特別な存在だ。憧れであり、愛する存在であり、もちろん憎しみの対象でもある。

 だから、自分と同じモノであるはずの存在がある日突然ヒトの姿を得たなら、彼らは平静ではいられないだろう。

 そこまで考えて、ふと疑問が頭に浮かんだ。

 ヒトでもありモノでもある私は、彼らにどう思われているんだろうか。

「亜為、資料室に行ってみる?」

「しりょうしつ?」

「本がたくさんあるよ。写真とか、絵も」

 答えの出ない問いは無数に立ち塞がる。立ち向かうためには、手を動かすしかない。

「いく!」

 亜為の表情にぱっと明るさが戻り、私たちは連れ立って展示室を出た。

「亜為と言ったか? あの子」

「また変なのがやってきたね」

「誰の差し金か知らんが気味が悪いな。ありゃまるっきりまがい物だ」

「その言いかたはひどくない?」

「そうだよ、あの子自身は何も知らないっぽいじゃん」

「課題だって杜都は言ってたけど」

「杜都ちゃん、隠し事してるようには見えなかったわ」

「お、あんたはちゃん付けで呼ぶのか」

「好きに呼んでって言ってたよ。ぼくは杜都くんって呼んでるし」

「杜都ちゃまとか?」

「なんなのちゃまって」

「いや面白いかなって」

「全然面白くないよ」

「そんなあ」

「やめてよ、なんの話かわかんなくなってきた」

「亜為ちゃんのことだよ。杜都さんが連れてた女の子」

「見た目こそ変わってたけど、私たちと同じだよね?」

「それは間違いない。あの子は俺たちの仲間だ」

「だけど、なぜだか人間の姿をしてる」

「おまけに杜都とは

「だね、杜都っちとは全然別物。亜為ちゃんは違うもん」

「あの子と話したやついる?」

「ちょっとだけなら」

「どうだった?」

「なんていうか、反応が鈍かった。声は聞こえてるみたいだったけど」

「こっちの発言の内容は理解していなかったと思うぞ」

「亜為が何言ってるのかもよくわからなかったし」

「まあ普通に考えれば、姿が変わったせいだよね」

「意図的に封じられてる感じもするなあ」

「会話ができないようにされてるってこと?」

「だったらもう誰が怪しいかってすぐわかるじゃん」

「あの二人か」

「それ以外いないだろ」

「何考えてるのかな」

「そもそも、杜都を連れてきたのもあの二人だよね」

「杜都は別に悪くないじゃん」

「そうだね。むしろ助かってるよ、存在がいるのは」

「俺たちの仲間が勝手に姿を変えられた。気に入らないのはそこなんだよな」

「違いない、大事なのはそこだ。杜都はああなんだし」

「とにかく杜都さんに話しておくべきじゃない? 亜為ちゃんがいないときに」

「ぼくらだけじゃ何もできないってのが歯がゆいよね。やられっぱなしだ」

「だからこそ、力を借りるのさ。そして私たちの言葉を託すんだ」


私たちモノとヒトのあいだにいる、杜都の力をね」


 ヴンダーカンマーのもっとも大きな役割は、蒐集と保存だ。

 展示室に並ぶのはコレクションのほんの一部でしかない。裏側にはその数百倍、もしかしたらもっと多くのモノたちが眠っている。彼らのひしめく隙間をそっと抜けながら、私たちはあてどもなく歩き回った。

「まぶしいね」

 ここでは絶対に走り回らないように、そしてモノに話しかけないようにと言い聞かせたのをしっかり守る亜為は、静かな歩調でついてくる。

「ここにあるもの、ぜんぶひかってる」

 埃をかぶった剥製、表紙も中身も破れて読めない本、絵の具の剥落した絵画。薄暗い大部屋に所狭しと並ぶそれらをみんな、亜為は光ってまぶしいと言う。

「それは多分、見たことのないものだからだね」

「みたことない?」

「見たことのない、知らないものを見るときって、わくわくしない?」

「する! とつのめをみたとき、わくわくした!」

 元気で、思いがけない返答だった。

「私の目? そんなに珍しいものじゃないと思うけど」

「でも、わたしのしらないものだもん。まぶしくて、きらきらしてて、わくわくしたよ。まっさおでどきどきしたよ」

 モノの感情表現は時として、あまりにストレートだ。人間の美辞麗句に慣れているとそれがまっすぐ心に刺さって、顔がくしゃくしゃに熱くなってしまう。

 資料室の通路が狭くてよかった。振り向かない限りは、同行者がいても安全だ。

「……それはよかった」

 ひっくり返りそうな声でそう答え、骨格標本の並ぶ一角を抜ける。次は植物だ。対象を押し潰して乾燥させた腊葉標本、壜詰めの液浸標本、花も葉も茎も根も、ありとあらゆる植物がここに並んでいる。

 摘み取られ加工されたこれらは、いわば「死んだ」モノたちだ。そうわかっていても、この不変の森のような空間を通るときには深呼吸をしてしまう。彼らの記憶から立ちのぼる酸素を吸うように。

「このはな、すき」

 いつの間にか私より先に進んでいた亜為が、急に声を上げた。スチールの棚に並んだ標本のひとつを指差している。

「すごくおいしいんだよ。さくと、うれしかった」

 重いガラス壜を下ろし、手近な机に置く。固定液に浸されてすっかり退色しているが、亜為にはこれがなんの花かはっきりとわかるらしい。

 茎をぐるりと取り巻く葉と、先端に密集する小さな花。

 古びたラベルに目を凝らせば、「ヨツバヒヨドリ」と記してある。

「亜為は、これが好きなんだね」

「うん。でも、とつのくれたあまくてしろいのも、すきだよ」

 甘いものが好き。正確には、花の持つ甘い蜜が好き、ということか。

「相当大きなヒントだな」

「なあに?」

「ちょっと良いことがあった」

「そうなの? よかったね」

 亜為の頭をぽんとなでると、細い腕で抱き着いてくる。

「とつがうれしいと、みんなうれしいんだよ」

 展示室をめぐったとき、亜為はモノたちに話しかけていた。

 モノは当然、モノ同士と対話ができる。人間のそれと同様に不自由なく互いの意思をやり取りできる。ところが先ほどの亜為はそうではなかった。話しかけているだけで、会話が成立していなかったのだ。何かを言っているのはわかるが、何を言っているのかはわからない。おそらくそんなところだ。モノのほうも随分動揺していて、見ていられなくて私が通訳に入るほどだった。

 それでも感じるものが、通じるものがあったようだ。

 たとえ意思疎通ができなくても、彼らを「みんな」と表現するくらいには。

「みんな嬉しいか。そうかあ」

 ほっと胸をなで下ろす。亜為は確かにモノであり、よって帰るべき場所はこのヴンダーカンマーで間違いないと、これではっきりした。

「とつは、わたしたちのおはなしをきいてくれる。わたしたちがうれしいとき、いっしょによろこんでくれる。だから、みんなとつがすきだよ」

 そして、ほんの少し口を噤んでから、こう言い添えた。

「とつといっしょに、たびができたらよかったな」

 はしゃぎ過ぎたのか、次第に亜為の足取りがふらふらと頼りなくなってきた。目蓋も半分降りている。部屋へ戻り、枕代わりにクッションをソファに並べるとすぐ眠ってしまった。毛布をそっとかけてやる。穏やかな寝顔を少しだけ眺め、足音を忍ばせて再び資料室へ戻った。

 静かに扉を閉めれば、大きなため息のような気配がどっと押し寄せる。

「みんな、驚かせて悪かった。ごめん」

 ――まったくよお

 壜詰めのヨツバヒヨドリはすっかり呆れた様子だった。

 ――俺もここに来てから随分になるがな、あんたみたいのが立て続けに現れるなんざ思ってもないことだぞ

「それについては返す言葉もない」

 ――正直に答えてほしいんだが、あのちっこいのはあんたの仕業か?

「ただの自動人形オートマータにそんな芸当ができるわけないよ。大体、自分の仕組みだってちゃんと理解できてるか怪しいんだから」

 ――あの子は杜都さんとは違う感じがしたよ

 キャビネットの向こうからキツネの剥製が声を張り上げた。

 ――あたしもそう思う。なんか出来過ぎてるっていうか

 ギンカガミの骨格標本が言い添えて、しばし辺りには同調する声がひしめく。

 ――わぁったよいっぺんに喋るな。うるせえったらねえな

 えらく口の悪い、しかし実のところ面倒見の良い兄貴分的な性格であるらしいこの花は、ごく自然に資料室の代表として振る舞う。

 ――で? このあと黙っててくれと言ったよな。約束は守った。次はあんたの番だ。話を聞かせてもらおうか

 亜為を連れてここへ来る前に、モノが多いから通りやすいよう整理してくると言って少しだけ部屋で待たせた。そのあいだに話を通しておいた。

 少し変わった客が来る。恐らくみんな驚くだろうが、長居はさせない。会話もしなくていい。どうかそっとしておいてほしい。そのように依頼したのだ。

「うん。その前に、改めて。みんなありがとう。協力してもらえて助かった」

 深々と頭を下げてから、私はここまでの経緯を話した。

 ――はあん。展示室の連中が妙にうるさかったのはそれか

「急に会わせた私も悪かったんだ。みんなが動揺するのはわかってたのに」

 ――今さら言ってもどうしようもねえだろ。これからのこと考えな

「……そうだね」

 まずは基本に立ち返ろう。亜為の正体を突き止め、元の姿へ戻す。それが私の課題、やるべきことだ。それは同時に亜為のためでもある。モノでありながら、姿はヒト。その中途半端な在りかたが拒否されるものであることは既に明白だ。亜為が抵抗なくヴンダーカンマーに受け入れられるには、元の姿へと戻してやる以外に選択肢はないように思えた。

「亜為を元に戻す。それが正解なのはわかってる。だけど」

 ――だけど?

「あの子は、そう思ってるのかな」

 なまえって、とくべつってことでしょ。わたしだけってことでしょ。

 本来必要ないはずの、自分だけの名前。だけど亜為はそれを欲しがった。

 あの子の言葉がただの気まぐれだとは、どうしても思えない。

 ――何が幸せか決めんのは当人だ。あんまり深入りすんなよ

 突き放す台詞のくせに声は和らいでいて、ずるずると座り込んでしまう。

「きみの幸せってなに?」

 ――ここでだらだら過ごしてりゃ充分だよ。ちょっと狭苦しいがな。なにしろこれだけいりゃあ、話し相手には困んねえし

 改めて、広大な資料室をぐるりと見回す。

 ヒトの都合で作られて、流れ流れてここへやってきた膨大なモノたち。意思はあっても抗う術を持たない彼らは、今日も静かに佇んでいる。

 モノはヒトを許し続けなければならない。

 たとえ、その姿すら変容しても。

「恨んでないの?」

 ――あん?

「きみだって本当だったら、どこかの山のなかで静かに咲いていたかもしれないのに」

 深々とつくため息が返事の代わりだった。

 ――俺の理不尽は俺のもんだ。勝手に嘆いてんじゃねえよ

 今度こそはまったくもって、返す言葉がない。

 ――何が正しいだの誰のためだの言い訳ばっかり重ねてどうする。肝心なのはあんたの望みだろ? あんたはどうしたいんだ。自分の胸に手ェ当てて思い出せ

 言われるままに、胸に手を当ててみる。

 体温はない。それを生み出す心臓もない。そんなものは与えられなかった。

 あるのは、おそらくは心や魂と呼ばれる何かだ。

 こんなものがあるから私は苦悩する。何も考えず言われたことだけをこなす、文字通りの人形でありたいと思ったこともある。

 だけどもしもこれがなかったら、生きるとはなんなのか考えることもなかった。続いていく日々のなかで迷い悩みながら、それでも自分の望みを追い求めていくことが幸せなのだと、思い至ることもなかった。

「生きるって、しんどいね……」

 思わず漏らした言葉を、賢い花は一笑に付す。

 ――だから最高なんだよ、生きるってのは

 笑われて、そう言われて、腹をくくる。

 しんどく、最高に生きていこうと、決めた。

「あの子はさ」

 腹から声を張り上げれば、辺りが一斉に耳をそばだてるのがわかった。

「旅をしていたらしいんだ。主食はおそらく甘いもの。それから」

 重いガラス壜を恭しく持ち上げる。

「彼のことが好きなんだって」

 ――まぎらわしい言いかたすんじゃねえよ

 すかさずヨツバヒヨドリが切り替えして、どっと笑いがあふれた。

「私は、亜為の正体を突き止める。あの子が誰で、どこから来て、どんなふうに生きてきたのか、全部知りたい」

 ――そうこなくちゃ

 ――いいぞ、もっともだ

 聴衆の反応は上々だった。演説はさらに加熱する。

「だけど、亜為を元の姿に戻しはしない。あの子はヒトの姿であり続けることを願っている。亜為の願いを叶えること、それも私の望みだ」

 ――そのためには?

 ――杜都は何をしなくちゃいけない?

 問いかけに、大きく息を吸って吼える。

「貨玖先生と喧嘩する! 課題がどうした、私はやりたいことをやる!」

 うおおおっ、と音のない声が天井まで沸き立った。

「まずは亜為の正体だ。みんなにも手伝ってもらうからね!」

 ――まかせとけ!

 ――腕が鳴るねえ!

 ――手抜くんじゃないよ!

 大歓声のなか、仁王立ちする私に窘めの声がかかる。

 ――あのよう。威勢の良いのは結構なんだがな、あんた下手なことしたら追い出されるんじゃねえのか

「恩は忘れてないよ。先生たちがいなかったら私はとっくにスクラップだった。でもそれは、私が私を縛る理由にはならない」

 それに、と付け加えた口元が邪悪に笑うのが、はっきりとわかった。

「珍しい拾い物にわけわからない難題押し付けて、悩んでるのを眺めて楽しもうって言うなら、こっちもせいぜい楽しくやってやるよ」

 不信を不信のまま表明するなんて、そんなのつまらない。

 ――めんどくせえのを焚きつけちまったな

 嗜虐的な笑みをたっぷり声に含ませて、ヨツバヒヨドリはそう呟いた。


 亜為が時計と文字の読みかたをすんなりと覚えてくれたのは幸いだった。

 手が回らないあいだ本を貸し与えるといくらでも夢中になって読んでくれたし、今日の午後三時に話があるので部屋にいてほしいと言えば約束の五分前にはやや小走りで戻ってきた。

「とつ、おはなしってなあに?」

 古びた絵本をかたわらに、ちょこんとソファに腰かけて言う。

「ちょっと訊きたいことがあってね。えっとさ……」

「うん」

「元の姿に戻りたくないって、このあいだ言ってたよね」

「……うん」

 瞳に不安の色が浮かんで、あわてて両手を振る。

「違う違う、戻らなくちゃいけなくなったってことじゃないんだ。……だけどさ、本当は自分がどんな姿だったのかは、知りたくない?」

 しばしの沈黙。じっとこちらを見つめたまま、考え込んでいる。

「おもいだせないの」

 そうしておずおずと、喋り始める。

「わたしがだれなのか、どんなにがんばっても、おもいだせない」

「そうか。もしかして、思い出せないからもう元に戻れないって思ってた?」

「うん……」

 ヒトの姿のままでいたいという希望は、嘘ではないと思う。

 だけど、亜為が記憶をなくしてしまったことを恐れているのもまた事実だ。

 記憶が過去を形作り、過去のうえに現在が立ち、それが未来を描いていくのは、ヒトもモノも変わらない。

「とつとおはなしするのは、たのしいよ。でもこわいの。わすれちゃったから。わたしはだれなんだろうって。まるで、わたしがいなくなったちゃったみたい」

「そんなことない」

 思いがけず、声を張り上げてしまう。亜為の前に膝をつき、両手を取った。

「最初に会った日、私と話したいって言ってくれたね。それから一緒に角砂糖を食べて、資料室で好きな花のことを教えてくれたね。一緒に旅をしたかったって、言ってくれたよね」

「とつ……」

「私は覚えてるよ。この先どんなことがあっても絶対に忘れない。だから亜為はいなくなったりしないし、亜為は、亜為以外の誰でもないんだ」

 小さな手がぎゅっと、握り返してくる。

「ほんとに? わたしがもし、もとにもどっちゃっても? とつとおはなししたこともわすれちゃっても?」

 大きな瞳に、透明な波が上がる。

「本当だよ。約束する。それに」

 資料室の狂騒から、何日経ったか。

 机に積み上げた本が何度崩れ、ノートのページをどれだけ消耗し、インク壜をいくら空にしたか。

 時間も労力も惜しみなく注ぎ込んで、ようやく辿り着いた。

 すべてはただ、この言葉を伝えるために。

「それにね。自分が本当はなんなのか、それさえ忘れずにいられたら、どんなに姿が変わっても怖いことはないと思うんだよ」

 はっと息を呑む気配。深く頷いて、答えた。

「亜為が本当は誰なのか。多分、わかった」

 本の山から抜き出した、分厚い虫類図鑑。蝶の項目を開いて示す。

 褐色と、目の覚めるような明るいブルーが斑に入り混じった羽。

「アサギマダラ、っていうんだ」

 あの日資料室へ行かなかったら、答えには辿り着けなかったと思う。

 ヨツバヒヨドリと、旅。忘れてしまったと亜為は言うけれど、本当に何もかも失ってしまったわけではない。崩れた壁から射す光のように残るものは、確かにあった。

 必要なのは、たったひと筋の光明でいい。

「海を越えるくらいの距離を移動して、ヨツバヒヨドリの蜜を好む。本当はまだいくつか候補があるけど、でもこれで間違いないと思う」

「……うみ」

「亜為も、きっと見たことがあるよ」

「ひろくて、きらきらしてて、かぜがふいてる?」

「そうだね。海って、そういう場所なんだろうな」

 海。地球表面の七割を覆う、塩水をたたえた部分。生命の源。

「うみ、しらない?」

「知ってるよ。でも、見たことはないんだ」

 知識があるだけで、未だ私には遥かに遠い場所。そのひとつだ。

「うみのうえ、なんどもとんだよ。すごいかぜでこわかったこともあったけど、なんどもとんだ」

 亜為の目が図鑑から離れ、私を見た。

 大きく開いた瞳には、新しい光が宿っている。

「いかなくちゃ、っておもうの。どうしてかはわかんない、だけどとぶんだって、そうおもうの。いつもわかるんだよ。つぎのところへいくんだって」

「そうか。亜為はすごいね、ちゃんとわかるんだね」

 図鑑を持つ私の手に、白い指がそっと触れた。

「わたしはもう、とべないけど。でもいつか、とつをうみにつれていってあげるからね」

 やくそくだよ、と蝶の子は目映い眼差しを向ける。きらきらと輝くのは、降り注ぐ陽射しが水面を揺らすから。

 最初に出会ったあの日、鼻をくすぐった知らない匂い、清々しく透明で、胸を躍らせる匂い。それはきっとどこか遠くの、まだ見ぬ海に吹く風だ。

「楽しみにしてるよ」

 たくさんはしゃぎまわって、波打ち際を走って、日が暮れるまで砂浜で遊ぼう。

 そのためには。

「報告書にも詳しく書きましたが」

 見上げる視線に小さく頷いて、声が震えないよう腹に力を込める。

 何も怖いことなどない。

 いまやヴンダーカンマーにあふれるモノすべてが、私たちの味方だ。

「彼女を元の姿に戻すことには、反対です」

 紙束の表紙をめくっていた貨玖先生が、ついに顔を上げる。

「なぜですか?」

「ヒトの姿でいること。それが彼女の望みだからです」

 眼鏡の奥の瞳に見据えられても、私は怯まなかった。

 亜為が、しっかりと私の手を握ってくれている。

「貨玖先生。先生もご存じの通り、モノにはヒトと同様の意思が宿っています。そして私は彼らと会話ができる。ゆえに私には、彼らの望みを聞き届ける使命があります」

「アサギマダラを元来の姿へ還元する。それがあなたへの課題のはずですが」

「そうですね。ですが、私は彼女の願いのほうが重要であると考えます。それに、先生にとって本当に肝心なのは課題などではありませんよね?」

「どういう意味でしょう」

「姿がなんであれ、あらゆるモノと対話ができる。そんな芸当ができるからこそ、私を引き取ったのではないですか」

 先生は答えない。

「私は、ヒトとモノのあいだに在ります。どちらでもあり、またどちらでもない。ならば一方に肩入れするのは筋が通りません。先生が何を考えていらっしゃるか私にはわからない。しかしこれだけは申し上げます。私を、モノを御するためのただの端末と思われるのは、はっきり言って、迷惑です」

 もう一度息を吸い、言い放つ。

「貨玖先生。あなたに拾っていただいた恩はあります。しかし、私は意思を持つ自動人形オートマータです。誰かに、何かに縛られることは、決してありません」

 たとえ打ち捨てられ、粉々に砕かれ、灰も残さず燃やされても。

 反響した声は、部屋じゅうを飛び交って次第に消えていく。

 先生は眉ひとつ動かさない。瞳の奥にわずかにちらついた影の意味を読み取る術も、私にはなかった。

 だからただ、黙って待つ。

「わかりました」

 たっぷり間を置いてから、貨玖先生は口を開く。

「では、課題を以下のように更新します。今後もその少女を――アサギマダラを、あなたの責任のもとで引き続き保護してください。必要な品があれば、都度申請するように」

 予想もしなかった回答に一瞬、間が空く。

「では、彼女はこのままで構わないということですね?」

「報告書は受理しました。あなたの言い分も同様に。以上です。まだ何か?」

 私たちは顔を見合わせ、揃って頭を下げて貨玖先生の部屋を出る。廊下を進み、角を折れ、充分に離れたところで、二人揃って少しずつ速度を上げる。速足から駆け足、やがて全力で自室へ飛び込んで抱き合った。

「よかった……!」

 引き続き保護しろとわかりづらい言いかただったけれど、ヴンダーカンマーの館長が直々に許可を出した。亜為はこれからもヒトの姿のまま、ここで過ごしていける。

 私たちの願いは叶った。

 あまりの感激で力の加減が効かず、亜為がもごもごと苦しげに抗議してくる。慌てて腕を緩めてやるとぱっとこちらを見上げ、顔をくしゃくしゃにして、目を潤ませて笑った。

「さあ、旅支度をしないと。海へ行こう」

 蝶の少女は、大きく何度も頷いて答えた。

「とつ、ありがとう。だいすき!」


 亜為の水着を買うための申請書を作る前に、やるべきことはたくさんあった。

 まずは仲間たちへ報告に行く。資料室ではやんやの喝采のなか、亜為は深々とモノたちへ頭を下げた。ヨツバヒヨドリに対しては特に何度も礼を述べていた。

 ――まあ、良くやったんじゃねえの

 花の房をぷかりと揺らし、頼れる兄貴分はそう褒めてくれた。

 ――あんた、亜為っつったか。これからは杜都をたっぷりこき使ってやんな。ここの館長をやり込めたんだ。大体のことはできるだろうよ

「あんまり無茶なことは勘弁してほしいけどね」

「ううん、いいの。とつがいっしょにいてくれたら、しあわせだよ」

 本当にもう、この子はまっすぐ過ぎる。

 またぞろ囃し立てられながら、私は赤くなりつつある顔をこすった。

 ――杜都よ、しっかりやんな。こっからが正念場だぞ

 資料室を出る間際、ヨツバヒヨドリにそっと声をかけられる。

「精いっぱいやるさ。今回は本当にありがとう」

 ――こんなのは柄じゃないんだがな。幸運を祈るよ、本当に

 その声がほんのわずかに曇っていた理由を知るのは、もう少しあとになる。

 ――ってことは、この子はしばらくこのままなのね

 展示室では、意外なことに冷静な対応が待っていた。

「うん。この子が望んだことだから、叶えてあげたいんだ」

 ――杜都がそこまで言うなら、仕方ないね

 ――まともに話せないのは不便だがな

「そうなんだよ。コミュニケーションの問題は解決しないといけない」

「わたし、れんしゅうする。みんなとはなしたいから、がんばって、れんしゅうするよ」

 意気込む亜為の言葉を伝えると、さっそく世話好きなモノたちが特訓の相手を買って出てくれた。

 ――よし、じゃあこっちへおいで嬢ちゃん。まずは聴く練習からだ

 ――焦らなくて良いからね。ゆっくり、少しずつやっていこう

 什器の前にしゃがみ込んだ亜為へ、部屋の隅にある椅子を当てがってやろうとその場を離れかけたときだった。

 ふっと、肩に小さな気配が留まる。

 ――おつかれさま、杜都

 二度三度、小さく羽ばたいてぴたりと閉じた青い羽。ゆらゆらと揺れる緑色の触角。

「ありがとう。……そうか、きみに話を聴く手もあったな」

 ――あの子とぼくは随分違うからね。役に立てたかわからないよ

 世話好きでヒト好き、そしてモノ好き。ケースのなかにいるより展示室を飛び回るのを好む、やさしく理知的で正直者の蛾。

 ずっと部屋に籠もっていたから、オナガミズアオに会うのは久しぶりだった。

「本当にくたびれたよ。貨玖先生があんなに簡単に折れたのは予想外だけどね」

 軽口のつもりだったが、返答までに間があった。

 ――ちょっと、聴いてほしいことがあって

 なぜか声をひそめ、そっと体を寄せてくる。周りに聞こえるのを恐れるように。

「どうしたの、改まって」

 ――亜為ちゃんの姿がどうして変わったのか、それはまだわからないんだよね

「ああ……いや、誤魔化しても仕方ないか。その通り。全然わからなかった」

 それに関しては、報告書でも正直に述べるしかなかった。

 アサギマダラが突如としてヒトの姿へ変化した理由およびその原理については、まったく見当がつかないと。

 ――ぼくらにとってもあれは理解しがたいことだった。だから、みんなで推測してみたんだ。いったい何が起きたのか

 みんな、とは本当に「みんな」のことだろう。

 亜為の処遇について知らせを待っていた、ヴンダーカンマーじゅうのモノたち。

「それで、きみたちの結論は?」

 ――気を悪くするかもしれないよ。それでもいい?

「聴いてから決める。そもそも私に話すつもりだったんでしょ?」

 ――そう言うと思った

 触角を小さく揺らし、ため息のような仕草をしてみせた。

 ――亜為ちゃんは人為的に姿を変えられた。ぼくたちはそう思ってる

「人為的、か」

 いくらモノが意思を持つからといって、自ら変身するような魔法めいたことが起こるとは考えづらい。そしてヒトはモノができないことをいとも簡単にやってのける。ヒトとモノしかいないこの場所ならではの、シンプルな推論だ。

 でも。

「仮にヒトの仕業だとして、誰がやったんだと思う?」

 小さな青い蛾はほんの少しのあいだ黙り、意を決したように私の肩から離れた。

 ――杜都はヒトでもモノでもある

 ふわりと宙を舞い、目の前の椅子に降り立つ。

 ――見かけはまるっきりヒトだけれど、ぼくらと話すことができる

 どうやら、直接説明する気はないらしい。

「それは亜為も同じだよ、まだ会話は覚束ないけれど」

 ――そう、亜為ちゃんは杜都ととてもよく似てる。そんな杜都はどうやって、ヴンダーカンマーへ辿り着いた?

 不良品として捨てられ、焼却炉へ投げ込まれる寸前に現れた、二人のヒト。

 一方は、在るか消えるか好きなほうを選びなさいと言った。

 もう一方は、ぼくたちと一緒においでと手を伸べた。

 覚えている限りの最初の記憶。ヒトとモノの狭間に対峙する二人の博物士。

 ひゅっ、と空気を切る音。

 それが自分の喉から鳴ったのだと、すぐには気づかなかった。

「……冗談でしょ?」

 ――ぼくらの総意だよ

 短い返答が、嘘のなさを端的に語っていた。

 こちらを見る複眼は深く光を吸い込んで、何も読み取れない。

「だけど、先生たちがそんなことをする理由がない」

 ――理由はある。あくまでぼくの推理だけれど

「なに?」

 ――杜都は既に半分、真実を言い当ててる

 淡く蒼褪めた羽を静かに開き、また閉じながら、オナガミズアオは語る。

 ――博物士たちにとって、課題自体は重要じゃない。彼らの興味は亜為ちゃんではなく杜都にあった。これはぼくもそう思う。だけどね、彼らは杜都を単なる見世物にしていたわけじゃない。ヒトの姿に変化したモノを杜都がどう扱うか。どうやって正体を突き止めるか。杜都が、モノの抱く願いを叶えようとするか。それを見極めるのが目的だったんだよ

 そのために、そんなことのために、アサギマダラを、亜為を利用したのか。

「もしその推理が本当なら、私は」

 ――証拠はないと思う。あったとしても、杜都の手の届かない場所に隠されているはずだ。……杜都、無理に探ったら今度こそ、本当に

 壊れることなんて怖くはない。捨てられた時点でとっくに覚悟していた。

 でも、今は違う。

「あなたの責任のもとで、か」

 さっきまでの喜びが引き潮のように遠のいていく。

 私が下手な行動に出て抹殺されれば、亜為もただでは済まない。最善の策は、このまま平和に、事を荒立てず、何も追及せず過ごしていくこと。

 懸命にモノの言葉へ耳を傾ける、白いワンピースの女の子とともに。

 ――杜都、ぼくたちは

「わかってるよ。少し、考える」

 そう答えて、椅子の背もたれを掴んだ。

 古びた布張りの、ごわごわとした手触りが妙に気に障る。


 哲人の庭には今日も男が一人、テラスに出した椅子に腰かけている。

 深く目を瞑り、眠るような佇まいでそこにいる。

 男の脳裏にはふたつの背中がある。

 白いワンピースと淡い色の髪。

 黒いパーカーと同色の髪。

 手に手を取り、展示室を次から次へと駆け巡る、仲睦まじい姿。

 天井へこだまする、はしゃぐ声と足音。

 微笑ましい情景は、もはや過去のものだ。

 男の自室の最深部には誰にも立ち入ることのできない秘匿された小部屋がある。小部屋の奥、ガラスケースのなかに一体の人形が安置されている。

 少女の人形。

 軽く閉じた目蓋には淡い色の髪が影を落とし、細い体を白いワンピースが包む。

 残された片割れの、傷つき塞ぎ込んだ横顔を隠しもせず展示室を彷徨する姿を見て、胸が痛まなかったわけではない。

 しかし男は愚かであり、それ以上に、博物士であり過ぎた。

 モノと対話し、その願いを知り、叶えようとする。

 本人も未だ全容を知らないであろう力の、その一端を確かに見た。

 見てしまった以上、見過ごすことはできない。

 あの自動人形オートマータを、最高の博物士に育て上げる。どんな犠牲を払っても。


 それが最後の仕事になると男は――貨玖は、覚悟を決めた。


「で? 首尾良くいったのかい」

「はい。アサギマダラは無事、標本に戻りました。人形のほうは厳重に保管してあります」

 生真面目な返答をどう取ったのか、男は長い足を組み、品定めするような目で客人を眺める。

「しかし今回は骨が折れたよ。昆虫標本を詰められる人形なんて注文は、受けたことがなかったからな。しかもしてくれときたもんだ」

「……館長の意向ですので」

 ボストンフレームの奥をかすかにしかめるのを見て、喉の奥を震わせる。

「報告もなしにお披露目したのはその意趣返しってところかい? 驚かせちゃあ可哀想だろうよ。いくらあんた自身は不満であってもさ」

 返答は咳払いひとつ、それきりだった。

「俺は頼まれた仕事をしただけだよ。別に法に触れるようなことはしちゃいない。支払いも弾んでもらった、充分過ぎるくらいにな。ただまあ」

 ひとつ言わせてもらうなら、と悪びれる様子もなく煙草に火を点ける。

「あくまで本人が出てこないあたり、その館長とやらも喰えない奴らしいがね」

「それは」

「わかってるよ。あの額の半分は警告だろうさ。他言無用、余計なことは訊くな。その程度はわきまえてる」

 客人の眉間にさらに深く皺が刻まれ、男はあくまで愉快そうに続ける。

「さて。その代わりと言っちゃあなんだが、ひとつ答えてくれないか。依頼にはまったく関係ない話だ、問題ないだろう?」

「……なんでしょう」

 不承不承に口を開いた客人は、淡い煙の向こうで男が嗤ったことに気づかない。

「そう警戒するなって。昔に作った人形の話だ。黒髪の青目、完全自律思考型。悪くない出来だったが仕上げの調整をミスった。おかげでくそ生意気で不愛想で……ああそうだな、人間らしい性格になったよ。あんた、知らないかい?」

 返ってきたのは沈黙でも動揺でもなく、問いだった。

「あなたがおっしゃる、人間らしい、とはなんですか」

 男は目を瞬いて、客人の顔をまじまじと見た。

 いかにもお人好しといった風貌はここへ訪れたときと寸分違わない。しかし、先ほどまでの気後れするような気配が綺麗に消えていた。

 覚悟を決めた面構えに、男は客人に対する認識をやや改める。

「問うことだ。ヒトに対し、モノに対し、そして世界に対して、あらゆる問いを投げる、投げ続けることだよ」

 答えに嘘はないと判断したらしく、質問を重ねる。

「その人形は、どうされたのですか」

「処分した。随分前のことだ、運が悪けりゃとっくに灰になってるだろう」

「……そうですか。では」

 客人は書類の束を机に置き、立ち上がった。

「ではぼくは、運が良いほうに賭けます。その人形がまだどこかで生きて、今も問い続けているほうに、賭けますよ。……そちらが報告書です」

 一礼し、立ち去る背中に男はもうひとつ、言葉を投げた。

「俺のむす――によろしく」

 足音が一瞬、止まる。しかし引き返すことはなく、扉の向こうへ消えた。

 静まり返る工房に薄紫の煙が細く立ちのぼる。

 男の見つめる先に、培養液に浮かぶ一対の眼球があった。

 青い虹彩が放つ虚ろな視線は工房の壁を覆う棚へと向いている。人工皮膚の束、右上腕の骨格サンプル、色とりどりの毛髪のひと揃い、メス、鑿、鋏、ワイヤー、注射器、縫合糸などが無造作に詰め込まれた棚の端には、完成を待つ作品たちが静かに瞑目して並ぶ。

 部屋の中央には巨大な作業台が据えられ、一角に丸く埃の描いた跡がある。

 そこにはかつて奇妙な照明が設置されていた。くすんだ真鍮とガラスの火屋、灯芯の代わりに手のひらに乗るほどの小さな三日月が光を放つ。

 かつてあの人形に、男はそのランプをささやかな餞別として持たせた。

「どうしてるのかね、あいつは」

 ひどく楽しそうに男は――人形師は呟いて、笑みを浮かべる。

「いずれまた会えるさ。杜都」

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