虚ろ星に

鳥辺野九

 

   うつぼし



「カクレクマノミって知ってる?」


 海の雫が落ちてきた。


 ここから先を行くには傘が必要かも。いや、手は空けておきたいからレインコートか。


 ぼんやりと両手を見つめながら的外れなことを考えているから、真夜まやは隣に立つ異星人の少女の声を聞き逃してしまう。


「聞いてる?」


 異星人の少女は小首を傾げて返事を求めた。手をかざすようにして立ち尽くす真夜の顔を覗き込む。


「……ごめん、何て?」


 かつては砂浜と呼ばれた乾いた砂丘を乗り越え、その頂上に立ち、ようやく見つけた海は未だ遠く。その途方も無い距離に足が止まってしまった少女が二人、他愛のない会話を続ける。


「カクレクマノミって海に住む魚」


「ううん、食べたことない」


「やだ、食べ物じゃないよ」


 小さく首を振る真夜に異星人の少女はケラケラと明るく笑った。


「ソワチナほど生き物に詳しくないんだよ」


 笑われた真夜はむすっとした顔で乾き切った砂に直接腰を下ろした。砂丘の天辺、さらさらと流れ落ちる砂が制服のスカート越しに感じられる。


「テレビとかで見たことくらいあるでしょ? オレンジ色で派手派手な魚」


 ソワチナも真夜に寄り添うように砂の上にすとんと座る。海風を感じ取るためか、大きめのパーカーのフードを脱いで真っ白く太い髪を晒した。


「さすが『ラディカリアの観察者』ね。お詳しいこって」


「自分の星の生き物くらい知っときなよ。白いラインが入った可愛いお魚よ。その子が主人公のアニメ映画もあるくらい」


 地球生まれの自分よりもテレビや映画に詳しい異星人に言われても。どうやっても魚類を可愛いと思えない真夜は返答に困り、はるか遠くの海を眺めるだけだった。


 そこに見える大いなる水溜りは、真夜の知ってる海とはだいぶ様相が変わっていた。こんな遠く、かつての砂浜から見ても人を寄せ付けないほどに波が引いているのがわかる。


 この砂丘もなだらかで美しい砂浜だったはずだ。今では風に晒されてこんもりと盛り上がり、ただただ歩きにくい障害物だ。


「カクレクマノミは性別が固定されていないの」


 砂を運ぶ乾いた風が真夜のショートの黒髪を、ソワチナの真っ直ぐで長い白髪を、ふわりとさらう。


 なびく太い髪を押さえて伏し目がちに語り出したソワチナの横顔を、真夜は気付かれないようにこっそり見つめた。オレンジ色のパーカーにこぼれるくっきりと白い髪の毛がよく映えている。こんなカラーリングの魚がいたな。真夜は思い出した。あれがカクレクマノミか。


「群れの上位の個体がメス化して、残りの個体は全部オスになるの」


「まるで逆ハーレムね」


「でね、もしそのメスが死ぬと、次に上位の個体がメス化して、群れを引き継いで逆ハーレムを作るの」


「何その理想的なBL展開」


 真夜は無邪気に笑った。それを見てソワチナもケラケラと笑う。


「オスとしてメスボスのお尻を追いかけてた奴が、今度はメス化して自分より下のオスにお尻狙われるんでしょ? クマノミって意外とアグレッシブね」


「いろんな性の形はあるけど、優れた遺伝子を残すための効率的なルールだと思わない?」


 不意に真夜の笑いが止んだ。ソワチナの伏していた赤い瞳がくりっと真夜を捉える。


「この惑星も同じだよ」


 ソワチナは笑顔のまま言った。


「私たち『ラディカリアの観察者』もそう。優れた遺伝子を探して宇宙を旅してる」


 真夜は黙ったまま風が巻く空を見上げた。舞い上げられた砂と飛び散った海の雫に濁る空、昼間の白い月がぽっかり浮かんでいる。そしてその月よりもはるかに巨大な浮遊惑星が天空を覆っていた。


 特定の恒星や矮星の重力に束縛されることなく、自由に銀河を公転する天体、浮遊惑星。浮遊惑星ラディカリアが太陽系の地球軌道に接舷して、すでに三ヶ月の時が流れた。


 初めて浮遊惑星ラディカリアが観測された時は、それこそ惑星衝突による地球の最期だと地球人たちは大パニックに陥った。真夜も巻き込まれた絶滅前夜のような狂騒を今でもよく覚えている。


 地球人が異常な環境に慣れるのを待つかのように、ゆっくりと長い時間をかけて地球に接近した浮遊惑星。やがてラディカリアがまるで生命体のような浮遊惑星本体と、その衛星軌道上に周回するラディカリアの観測船とに構成されると判明する。


 オーストラリア大陸ほどの巨大な観測船にはラディカリアの観察者たちが乗り込み、浮遊惑星とその飛び行く先の新天地を観察していた。何億年もの過去から、何億年もの未来まで、その観察は続くだろう。


 人類は地球外知的生命体との出会いに歓喜し、同時に自分たちに訪れた運命に絶望した。


 ラディカリアの観察者は地球人の収穫にやってきたのだった。


「この三ヶ月さ、いろんなことを考えたよ」


 地球最後の三ヶ月。真夜を取り巻く環境は激変し、日常は崩壊した。


「うん」


 ソワチナが静かに頷く。


「人類の絶滅とか、地球の海がなくなるとか。でもね、話が凄すぎて全然ピンとこない」


「惑星単位の話だもんね。正直、私もスケール感が違い過ぎて意味わかんない」


「観察者がそれ言っちゃダメでしょ。それに私が聞きたいのは惑星単位の話じゃなくて、人間単位の話」


 砂丘よりはるか遠く、荒れる海を見つめる真夜。かつての砂浜に置いた指先がパートナーを求めて砂を這う。


「どうして私を選んだの?」


 真夜は濃い茶色の瞳で、ソワチナは真っ赤に済んだ瞳で、互いに見つめ合った。


 はるか昔。浮遊惑星ラディカリアは太陽系で最も生命の繁栄に適した第四惑星火星に接舷した。


 何の前触れも警鐘もなく、ラディカリアの観察者は速やかに火星人類を収穫し、その大地に満たされていた海の大半を回収した。


 そして火星は死んだ。


 ラディカリアが次の繁殖地にと狙いを定めたのは、太陽系という惑星の群れの中で火星の次に上位の個体である地球だった。


 火星由来の生命とラディカリア原生生物との遺伝子をミックスさせ、新たな胚を海とともに原始地球へ入植させる。それが浮遊惑星ラディカリアの生殖方法だ。


 新たな生命の地球入植を終えて、浮遊惑星ラディカリアは再び銀河の深淵へ旅立った。


 数億年の膨大な時間を経て、ラディカリアの再来の時。それは地球人類の収穫の時。母なる海の回収の時。


 地球人のラディカリアの観測船への移植もいよいよ終盤だ。


 ラディカリアの観測船への移植者の数は一千万人。残りの七十億人以上の地球人は、海の大部分を失って砂と岩石だらけの地球に取り残される。かつての火星がそうだったように、間もなく地球はただの乾いた惑星と化すだろう。生命が生きるには余りに過酷な環境だ。


 観測船から地球へ降り立ったラディカリアの観察者の数も一千万人。観察者一人が地球人一人を選び、観測船へ連れて帰る。自らの遺伝子と交配させて、新たな生命の胚を産み、また別の惑星へと入植させる。


 真夜は観察者ソワチナに選ばれた人間だった。


「地球って女の子だったんだね」


 浮遊惑星ラディカリアは地球を選んだ。カクレクマノミの群れで、上位のメスが死んで代替わりに次位の個体がメス化するように、火星が死んで地球はメス化した。そしてラディカリアによって生命を宿された。


 じゃあ真夜はどうだ。何故観察者ソワチナは地球人真夜を選んだ。


「私も地球生まれの女の子だよ。ソワチナだって観察者の女の子でしょ?」


 地球のように上位のメスだったから。優秀な遺伝子を持っていたから。ただ地球に降りた時に近くにいたから。そんなのは嫌だ。特別な理由が欲しい。ソワチナにとって特別な存在でありたい。真夜はそう思った。


「うんとね、わかんないけど」


 ソワチナは躊躇いがちに言った。


「なんか、真夜のこと好きになれそうだったから?」


 それでいい。それだけでもいい。真夜はようやく心から笑えそうな気がした。


「メス化した地球が育てた命ってどこに行くの?」


 笑いながら問いかける真夜にソワチナはかすかに首を振った。浮遊惑星ラディカリアが何処へ旅立つか。どれだけの旅になるのか。ラディカリアの観察者もそれを知らない。

 

 海岸線は砂丘から遠く。海は浮遊惑星ラディカリアへと重力チューブで吸い上げられ、無音の巨大竜巻のごとくに渦巻いていた。そんな地球最期の壮絶な光景を眺めながら、真夜はそっと甘えるように呟いた。


「船に乗る前に、海の水を味見したいな。地球の海がどれくらいしょっぱかったか、覚えておきたい」


 海の雫が落ちてきた。ソワチナは頬を伝う一粒の水滴を拭う。


「じゃあ、一緒に舐めに行こ」


 砂丘に座ったまま逆立つ海を見上げて、ソワチナは真夜の手を砂ごと握りしめた。

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