第九話
数日後、レギュラー決定戦に選出されるメンバーが二重橋から発表された。
多くの部員が予想していた通り、選ばれたのは、匠、春菜、扇寿、千雪、三崎、そして二年生部員の計六名であった。
そして四月二十九日。今日は学校が休みの日であるが、レギュラー決定戦の日として部活動が実施された。全国クラスである花山のハンター部の新レギュラーが誰になるかについては、部員のみならず雑誌記者が集まるほど注目度が高まっている。学校側が取材NGとしていたが、それでも学園の門の近くには数名の記者が出待ちのようなことをしていた。さらには引越し業者の車まであって、休日というのに門の前は非常に混雑していた。
その門から離れた体育館。入り口近くのベンチで、千雪は高ぶる気持ちをごかますように一人で給水をしていた。千雪の首を滴る汗が、春の日差しを反射している。風当たりもよく、心を落ち着かせるにはちょうど良い場所である。
(最高の滑り出しだ……!)
すでに千雪は三崎と二年生部員との試合で勝利を収めていた。
以前の、最後には体力が尽きた試合とは違う。自分のペースを崩さないまま、二分以上の差をつけて試合に勝利することができていた。
——千雪がこれから身につけていくべきは、もっとスポーツ的な体力だ。
弥一の指導の通り、千雪は実践を意識した体力づくりを続けてきた。ジョギングで持続するような体力のみならず、急なダッシュや負担の大きい態勢の維持を繰り返し、試合にも耐えうる体力を身につけていく。その甲斐があり、二試合とも充分な実力を発揮することができたのである。
レギュラー入りするにはレギュラー決定戦で上位三位に入る必要がある。つまり、あと一試合勝利すれば、レギュラー入りが叶う可能性がグッと高くなる。神の娘ともてはやされる千雪と言えども、この興奮は計り知れない。
千雪としては一度弥一と話して「この間、練習に付き合ってくださってありがとうございました」と言いたいところであったが、なぜか弥一は一番最初のウォーミングアップに参加してから姿を見せていなかった。
体育館の外を見渡しても弥一の姿は見えない。給水も充分に済んだので、千雪は体育館の中に入ろうとした。
その時、歓声……というよりはどよめきに近いような声が、体育館の中から聞こえてきた。
見ると、春菜と扇寿の試合がすでに終わっていたのである。タイマーは片方のプレイヤーの残り時間が四分も残っていることを示している。どちらかのプレイヤーの圧勝だったと推測できる。春菜と扇寿が握手する姿を見ながら、千雪は入り口の近くにいた純に声をかけた。
「純先輩……あの、試合、もう終わったんですか?」
「うん、そうだよ。……いやぁ、ちょっとびっくりしちゃった」
「どちらが勝ったんですか?」
「春菜ちゃん」
「えっ!」
確かに「春菜と扇寿が1on1をすれば春菜が勝つ可能性が高い」ということはすでに多くの部員が予想していたことであった。運動の経験がすでに豊富で、1on1で充分に活かせるだけの実力を持つ春菜であれば扇寿に勝っても何ら不思議ではない。
しかし、どうも館内の様子がおかしい。一年生が三年生に勝利したという試合に変わりはないので、もう少し盛り上がってもおかしくないだろう。
何よりおかしいのは、春菜の様子である。レギュラー入りに大きく足を踏み入れたこの試合はもっと喜んでみせてもいいものだが、どこか浮かない顔をしている。いつもの春菜であれば飛んで跳ねて喜ぶところだろう。先輩に遠慮して慎むような人物ではない。コートから出ると匠とハイタッチを交わしているが、何か心残りがありそうにも見える。
どうしても気になってしまって、千雪はそのまま純に問いかけた。
「何かあったんですか? 私ちょっと給水に行っていて見られなかったんですけど」
「ううん、何もなかったよ。普通の試合だった。これは見ても仕方ないっていうか……給水に行ったタイミングとしてはちょうどよかったんじゃない?」
純の歯切れが少し悪い。純の言い方には少し気になるところもあったが、純に「それより早く行っておいでよ。次、匠との試合でしょ?」と促されて、千雪は駆け足でコートの入り口の方へと向かっていった。
途中、まったく苛立ちを隠そうとしない剣城とすれ違ったのであるが、千雪は剣城のその様子に気づかなかった。
純の方は剣城が体育館から出て行こうとすることに気づいて、躊躇しながらも剣城の方へと声をかけた。
「明治君。……うーん、気持ちはわかるけど。扇寿先輩に思うところがあったんじゃないかな。ちょっとらしくないとは思ったけど、でも」
体育館の扉に手をかけて、剣城は純の方を見ずに言葉を返した。
「ああ、別に。扇寿には扇寿のやり方があるだろうし、扇寿のやり方は間違っていない。目標に沿った賢いやり方だったんだろ。そんなの、俺が批判するものじゃねぇよ」
まるで、温かい言葉であるが。
剣城の続けた言葉に、純は黙ることしかできなかった。
「ただ、俺にとっては反吐が出るほど嫌いなやり方だった。それだけだ」
---
善戦したと言ってもいいのかもしれない。少なくとも、観客は千雪を賞賛するように拍手を送っている。その拍手の音を聞きながら、千雪はどこか寂しい気持ちを抱いていた。日曜日の夜に観るアニメのエンディングを聞くような、胸がざわつく想い。
匠との試合も、春菜との試合も、千雪の負けで試合を終えた。大敗したというわけではないが、千雪の先程までの自信を奪うには充分である。いくら匠にボールを当てても一瞬で当て返されてしまうし、春菜に関してはボールを当てることさえ難しい。このまま何試合繰り返しても同じ結果になることが見えるような顛末である。模範的な笑顔で試合終わりの握手をするのが精一杯で、千雪は体育館の隅に腰を下ろした。
今は扇寿と三崎が試合をしている。扇寿も千雪と同じく、匠と春菜に負けて二年生部員に勝っている。また、この試合は明らかに扇寿の方がリードしているので、レギュラー決定戦の最終結末は最後の試合にかかっている。
匠と春菜は既にレギュラー入りが決定している。匠は全勝、春菜は匠との試合を除けば全勝という好成績を収めた。
あとは扇寿と千雪。最後の試合で勝った方が、レギュラー入りを果たせるということである。
千雪は扇寿の試合を見ながら最後の試合の展開を想像していた。扇寿の戦い方や癖がわかれば最後の試合で対策ができるだろう。そう考えたのであるが。
(……普通の試合するなぁ、扇寿さん)
扇寿の試合は淡々と時間が流れていく。
匠のように派手な投球があるわけでも、春菜のように縦横無尽に飛び跳ねるわけでもない。投げる、走る、避ける。ハンターの一般的な動きを基礎に忠実にこなしていく。三崎の攻め方も派手なやり方ではないので、ハンターの試合の割には普通というべき景色が広がっている。「バーチャルスポーツらしくない」と言い換えてもいい。
千雪がふと横を見ると、霞が腕を組んで試合を見ていた。身体のシルエットをなぞるように靡く髪が美しく様になっている。体育館の窓から入ってくる光が霞の髪の艶をより一層引き立てている。霞は二年生であるはずだが、副キャプテンという肩書きもあり、近寄りがたいようなカリスマ性を放っている。
千雪にとって霞はあまり話す機会のない相手であるので、この機会に話をしてみたいと考える千雪であったが、話題に困って口を開けないでいた。
(扇寿先輩って、どんな人ですか?)
それが真っ先に思いついた話題であったが、どうもその話題は躊躇われた。試合直前に扇寿の実態を探るようでいい気分がしない。実際、千雪にとってこの話題であわよくば扇寿の弱点を知ろうという思惑がないわけでもない。試合を見て学ぶのならともかく、人から聞き出すような真似は避けたかった。
しかし、扇寿以外の話となると特に話題は思いつかなかった。天気などの当たり障りのない話をしようにも、こうして真面目に試合を見ているときにわざわざする話ではない。
千雪が話題に迷っているうちに、もう試合は扇寿の勝利で終わりそうである。
話しかけるのはまた今度にしよう、と千雪が心に決めたその時、千雪の気持ちを知ってか知らずか霞の方から話しかけてきた。
「次だな」
「はい。ちょっと、緊張してます。準備運動しておかないと」
「怪我だけはしないようにな」
ぶっきらぼうな声色の中に、どこか優しさを感じる。その霞の声に勇気をもらったような気持ちになりながら、千雪はその場で屈伸運動などのストレッチを始めた。身体はよく温まっているが、心臓の音がうるさすぎることだけが気がかりである。
霞との会話は短く終わったように思われたが、霞はまだ話を続けた。
「綾瀬は、レギュラーになりたいんだよな」
「はい。もちろんです」
「それは今年じゃないといけなったのか?」
「……え?」
千雪は驚いて霞の方を見たが、霞の方は涼しい表情をしていた。特に変なことを聞いたつもりはなく、ただ日常会話的な質問をしただけだ、とでも言わんばかりの表情である。しかし千雪がキョトンとしたまま霞を見つめるので、霞も自分の言ったことのおかしさに気が付いたようで、自分の発言を撤回した。
「すまない、変な聞き方をしてしまった。綾瀬がレギュラーになることを歓迎していないわけじゃない。新入部員がレギュラーになることは部活の良い刺激にもなる。歓迎すべきことだ。ただ……」
霞が言葉を探して遠くを眺めている。どういう表情をして霞の言葉を待てば良いかわからず、千雪はストレッチを止めて霞の方を見つめていた。
コートの方からブザー音が聞こえる。扇寿の勝利で試合が終わったのである。多くの部員が拍手を送る中で、千雪と霞は取り残されるように壁際に立っている。
体育館の窓から入ってくる風が、急かすように霞の髪を揺らす。霞は千雪の方に向き直ると口を開いた。
「覚悟を聞きたかったんだ」
「覚悟、ですか」
「花山は全国優勝を目指している。当たり前だが、それは険しい道のりだ。千駄木先輩と酒巻先輩がいてもなお、昨年も果たせなかった目標のために、私たちはずっと練習している。遊びじゃない。真剣だ。レギュラーじゃなくても真剣さは求められるが……そうは言っても、やはりレギュラーに求められる覚悟は違う。それを、綾瀬に確認したかったんだが。野暮な聞き方をしてしまった。今は試合に集中するときだ」
そう言って、霞は「頑張れよ」と千雪に励ましを入れた。千雪も「ありがとうございます」と笑顔で答えて、ぎくしゃくした動きでコートの入り口の方へと向かっていった。他の部員も、最後の決戦を待ちわびるように応援の声をあげている。数分後にはコートに立って扇寿と対峙している。そのことが信じられないような気持ちのまま、千雪はどうにか足を動かした。
——それは今年じゃないといけなったのか?
最後の試合の前で、千雪は気づきたくないことに気づいてしまった。
霞は撤回したが、千雪は霞の質問に対して答えを持ち合わせていなかったのである。
扇寿は三年生のため今年が最後の部活動になる。今から行う試合に扇寿が負ければ、もう公式の試合に扇寿が出場することはないと言っても過言ではない。学校によっては、年功序列で出場選手を決めるところもあるだろう。
一方で、千雪はどうしてレギュラーになりたいのだろうか。
(ハンター部に入部した。だから試合に出たい。……それしか、考えてなかった)
レギュラーを目指すことは当たり前であった。千雪に限らず、ほとんどの部員はそうだろう。
当たり前であったからこそ、漠然としていた。「今年じゃないとダメか」という問いに今答えるなら、「来年でもいいです」になってしまう。できれば扇寿にレギュラーを譲るべきなのかもしれない。どうしても、そのような考えを抱かずにはいられない。
千雪がコートの入り口に立ったところで、体育館の入り口に一人の影が見えた。
弥一である。どこかから帰ってきたところなのだろう。
近くにいる純や春菜、匠と談笑しながら試合を観戦しようと腰を下ろしている。じっと見ていては弥一と目が合ってしまうかもしれないので、千雪はコートのセンターサークルの方に視線をやった。
(今年じゃないとダメ、なのかな)
答えを探すように、千雪はコートの中へと一歩を踏み出した。
コートの外では、霞が千雪と扇寿の姿を見守っていた。胸騒ぎが収まらない。すべてを知っているからこそ霞は、ただ、今はこうして冷静な瞳で行く末を見届けるしかできなかったのである。
---
センターサークルの上で互いに一礼をする。扇寿の方はにこりと笑うこともなく、無愛想のまま千雪と対峙した。何か千雪が扇寿の恨みを買ったか、そう見えてしまうほどの緊張感が走っている。まだ礼をしただけだというのに、観戦している純も手に汗を握っていた。
先攻は扇寿に決まった。先行が持つ最初の三十秒、インターバルの立ち回り方は人によって千差万別である。一般的には、自身のウォーミングアップや相手の出方を伺うように様子見のボールを投げる人が多いが、相手によってやり方を変える人もいる。今日の扇寿はどちらかというとスロースターターであったが、今回の試合に限ってはそうではなかった。
容赦ない。ブザー音と共にボールを生み、ボールができるや否やボールを放ってくる。
しかし、千雪も油断などしていない。素直とも言える軌道で胸元に飛んでくるそのボールを難なく避けてみせる。
……が、違う。確かにボールは千雪に当たらなかったが、ボールは千雪を横切らずにフェードアウトした。
はっとして、千雪は視線を扇寿に移す。すでに扇寿の手にはボールが握られていて、千雪の進行方向めがけてまっすぐにボールを投げようとしていた。
(さっきのは目くらましか!)
ここから体制を立て直して避けられるような距離ではない。避けられないだろう、そう多くの人が思う中で、千雪は体制をひねって地を勢いよく転がってみせた。千雪がコンマ一秒前にいた場所にボールが鋭く突き刺さる。
間一髪。千雪が咄嗟に行ったのは受け身であった。柔道などの衝撃から身を守る受け身とは違って、素早く地面を転がって起き上がり体制を立て直すことに特化した、ハンターならではの受け身である。まだ受け身を上手くできる一年生が少ない中、千雪は考えるよりも先に受け身でボールを避けていた。受け身を取れたことは千雪自身が一番驚いている。
扇寿もまた千雪の行動に驚きを見せていたが、少し奥歯を噛み締めて、さらに千雪に猛攻を仕掛けてきた。ダッシュで千雪との距離を詰めながら、その勢いのままボールを投げる。
(扇寿先輩、さっきまでの試合と全然雰囲気が違う!)
その威勢に気圧されそうになりながらも、千雪は冷静に扇寿を見据える。
練習してきた体制で扇寿と対峙する。目をそらしてはいけない。気圧されてはいけない。こうも突進されては背中を向けて逃げ出しくなるが、驚異的な存在であるからこそ真正面でぶつからないといけない。
自分を叱咤するように練習してきたことを思い出しながら、——千雪は分身した。
もう今日になって千雪が幾度とやってきた技である。よく見ると幻影の方は透けるということを扇寿が知らないわけがない。しかし、扇寿の動きを一瞬止めるだけの効果はある。扇寿の投球がワンテンポ遅れたところで、千雪は扇寿の背後へと回り込んだ。
まだ開始して十数秒の出来事である。しかし、確実に扇寿相手に互角に立ち回っている千雪の姿に歓声が湧き上がる。今日初めて試合を観戦している弥一もまた、千雪の成長ぶりに興奮した声をあげた。
「やるじゃん千雪! 千雪は目に見えて成長していくから面白いよなぁ、純!」
「そうですけど……ちょっと千雪ちゃん、飛ばしすぎな感じしますね。まだインターバルだし、もうちょっとペースを落とさないときつくないですか」
純の指摘ももっともで、弥一は少し唸り声をあげた。
インターバルの最中にボール権が移動すると、インターバルタイムはゼロになって相手のタイムのカウントダウンに移り変わる。インターバルの残り時間が先攻の持ち時間に加算されることはない。
後攻からしてみれば、インターバル開始時に当てられても終了時に当てられても状況は変わらないのである。そう考えると、インターバルに必死に逃げて体力を消耗してしまうよりは、開始時に当てられたとしても体力を温存できた方が得であるといえる。『しっかり逃げてインターバル中にボール権が変わらないようにする』か、『インターバル中にボール権が変わることを覚悟して体力を温存する』か、普通はどちらかに絞る。
千雪は『しっかり逃げてインターバル中にボール権が変わらないようにする』という選択をしたということになるが、その戦略が功を奏するとは純には思えなかったのである。弥一もまた純の考えに同意であったが、純に疑問を呈した。
「千雪って、扇寿の初期能力が何か知ってるわけ?」
「たぶん知らないと思います。……ああ、確かに、そう考えるとそうですね」
弥一や純の予想は的中していた。
千雪は扇寿の初期能力を知らない。扇寿は今日一度も初期能力を使って試合をしていない。普段の練習でも初期能力を見せなかったので、千雪が扇寿の能力を知ることができなかったのである。
だからこそ千雪は警戒していた。もしも扇寿の初期能力が守備に特化していた場合、扇寿にボールを当てることは困難かもしれない。実際、千雪の春菜との試合は春菜にひたすら逃げ回られて終わっていた。同じ轍を踏むことがないよう、万が一に備えて千雪は全力で逃げることを選択したのである。
千雪自身は守備が得意なわけではないが、「一度ボールに当たれば最後かもしれない」というプレッシャーは無意識のうちに千雪の身体を動かしていた。
弥一と純の話を隣で聞いていた春菜は、純に問いかけた。
「ちなみに、扇寿先輩の初期能力って何ですかー?」
「勝手に話すと私が怒られちゃうかもしれないから言えないけど。正直、1on1向きの能力じゃないんだよね。向きじゃないっていうか……『できない』かな」
「できないなんてことがあるんですか?」
「珍しい話じゃないよ。扇寿先輩だけじゃなくて、秀もそう。秀の初期能力は『味方のボールの軌道を変える』ことだけど、自分のボールの軌道は変えられないんだよね」
「なるほでぃ」
「だから、千雪ちゃんが必死で扇寿先輩を警戒しているところ悪いけど、今日は扇寿先輩の初期能力は見られないだろうなぁ」
その純の声が千雪に聞こえるはずもなく、千雪は変わらず扇寿の猛攻を全力で避け続けていた。自分の体力が心配にはなるが、極端な話、完全に逃げ切ることができれば試合時間は五分半で終了する。五分半であれば、今のペースでも動き続けることができる。
覚悟しただけことはあり、千雪はインターバルを逃げ切ることに成功した。タイマーのカウントがゼロになり、扇寿の持ち時間が五分を切り始める。それを千雪が横目で確認して得意げになったところで、扇寿は小さく呟いた。
「まさかとは思うが、五分半逃げ切れると思ってないだろうな?」
その音は、本当の試合開始を告げるホイッスルのようであった。
何度目かの投球を、何度目かの幻影を使って避けていく。千雪はそのつもりであったが……扇寿はそれを読んだ。いつものように千雪がボールを避けて扇寿の背後に回り込んだつもりが、扇寿は大きく身を翻して、背後にいた千雪の足元にめがけてボールを投げたのである。ボールはしっかりと千雪の脛に当たって、ブザー音と共に跡形もなく消えていった。
たった二秒。インターバルを逃げ切れたと思ったのも束の間、インターバルをすぎた瞬間の出来事である。逃げ続ける千雪が優勢に思えた試合であったが、千雪が呆気に取られている間に、持ち時間が逆転した。
扇寿は何ともないと言いたげな顔をして千雪の正面に立っている。その姿を見て、千雪は悟らずにいられなかった。
(私の動きはすでに見切られていた? ずっとこれを狙って動いていたということ……?!)
多くの部員が扇寿への賞賛を送る中で、純は険しい顔で二人を見ていた。純を含め多くのレギュラー部員にとって、この展開は読めていた。だからこそ、全力の逃げ切りを選択した千雪がいかに悪手か純にはわかっていたのである。
単に走ってボールを投げるよりは、幻影を使って逃げ回る方が大幅に体力を食う。一年生と三年生という経験や体力の差も合間って、試合開始から三十秒程度しか経っていないとは思えないほどの体力格差が発生している。
千雪は扇寿の出方を伺いながらボールを投げた。普通のボールだ、エレメントを使うまでもなく避けられる程度である。
先程の扇寿のように猛攻を仕掛けるという手もあるが、体力が不利な状況でそれを行うわけにはいかなかった。我武者羅ではなく、戦略的に攻めの一手を考えなければいけない。
と、千雪は考えていたが、弥一の見解は逆である。
「匠も春菜も覚えておけよ。相手の手の内を知りたいとき、相手の出方を伺いたいときは、攻め一択だ」
「……というと?」
「今の千雪みたいに、普通に攻めているだけでは相手も普通に避けるだけだろ。んなもんわかりきってる。相手がどんな能力を隠し持っているか知りたければ、ガンガン攻めるしかない。能力を使わないと避けられないような攻めを食らわしてやれ。相手がどんな能力を持っているかなんて、考えてわかるようなものじゃないんだからさ」
「確かにそうですね。しかし、綾瀬さんは体力を消耗しているから攻めあぐねているのでは?」
「だったらボールを生むのをやめて、調子を整えた方がいいな。テキトーに攻めているだけでは現状維持にしかならない。他のスポーツは知らないが、持ち時間で勝敗が決まるハンターにおいて現状維持ってただただ攻め手が不利になるやり方だ」
千雪自身も数回ボールを投げてから、状況の変わらなさに不安を覚えて手を止めた。とりあえず動きを止めないように攻め続けていたが、扇寿の動きも変わらない。
その中で、千雪は希望のような現実逃避のような予想を持ち始めていた。扇寿の初期能力が、少なくともボールを避けることに役立つようなことではないのでは、ということである。
確証を得るには至っていないが、千雪の攻撃は勢いを増し始めた。幻影を使ってフェイントを交えながら攻撃回数を増やしていく。先程と違って扇寿もエレメントを使って身体能力を強化しながら距離をとって避けざるを得ない。再び調子が戻ったようにも見える千雪の様子に、また観戦している部員たちは面白そうに歓声をあげた。
しかし、それを許す扇寿ではない。
千雪が扇寿をコート端にまで追い詰める。千雪自身も単にボールを投げ続けていたわけではなく、ここぞという時に最大威力のボールを放てるよう、力のエレメントの加減を調整しながらここまできた。
千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。一つフェイントを挟んで、扇寿の動きを制限する。扇寿の足が確実に止まったところを狙って、至近距離にも関わらず遠慮なく、千雪はその華奢な身体には似合わないほどの威力のボールを放った。
確かに放った、確かに扇寿はそれを避けられなかった。
しかし、ブザー音が鳴り終わった後には千雪のタイマーがカウントダウンを続けていた。扇寿の持ち時間は一秒だけ減少している。
至近距離で攻める弱点である。扇寿は咄嗟にボールをキャッチすると、そのまま素早く千雪の右脇腹にめがけてボールを投げ返していたのである。
その一球に賭けるように投げていた千雪がそれに反応できるはずもない。扇寿にボールを当てること自体はできたが、事態は好転しない。むしろ、精一杯の攻めの手を返された分、より状況が悪化したとも言えるだろう。
一連の流れを目で追っていた弥一は小さく口笛を吹いた。
「鬼だな、扇寿」
笑いどころだろうか。ラフな試合であれば純が冷たく笑ってあしらう流れになったかもしれないが、今はそうもいかなかった。純の険しい表情が、むしろ弥一の冗談を肯定しているかのようである。
純の様子に何か思うところがありつつも、弥一は思ったことを次々と口にした。
「それにしても、扇寿、今日はなかなか絶好調だな。匠と春菜の試合には負けたって聞いたけど、その割には本調子以上の立ち回りができてるし。春菜に四分くらい差をつけて負けたって聞いたから、調子が悪いのかと思ってたけどな」
「弥一先輩、春菜ちゃんと扇寿先輩の試合を見てないんですか?」
「俺、今日はちょっと外に出てたんだ。……ぶっちゃけ、どうだったわけ? 春菜が扇寿を圧倒したってこと?」
茶化すように聞いた弥一であったが、春菜は渋柿を食べたような表情をして黙っていた。隣にいる匠も春菜の方を見ながら複雑な表情をしている。
何かよくないことがあった。そこまでは察しつつも、弥一は疑問をそのままにしておけず純の方を見た。純はしばらく答えに悩んでいたが、心配そうに千雪と扇寿の方を見ながら答えたのであった。
「手を抜いていたと思います、扇寿先輩。多分ですけど、絶対に千雪ちゃんに勝つために、確実にレギュラー入りを果たすために、春菜ちゃんとの試合を捨てたんですよ」
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