第八話

 千雪たちが練習試合を行ったあの日から毎日、他の新入部員も同様の練習試合を行っていた。


 新入部員の試合は最初の匠や春菜、千雪や三崎の試合こそ上級生も目を引くようなものであったが、他の新入部員の試合はそうでもない。バーチャル空間で五分以上本気で走り回り続けるということは想像以上に難しいもので、他の新入部員の試合のうち半数以上は体力の底が尽きてリタイアとなってしまっている。


 バーチャル空間での体力の使い方は、ほとんどの新入部員にとって最初に直面する課題となる。最低限この課題をクリアしないと試合にならないため、レギュラーになることも難しいだろう。


 だからこそ、まずはレギュラー決定戦のメンバーに選ばれるよう、千雪は体力の増強を一つの目標として練習を続けていた。


 朝の七時、まだ学園内にはほとんど人がいない時間。閑散としているグラウンドを一周して体育館に戻り、頰を滴る汗を拭っているのである。菜園部は朝早くから活動しているようで、肥料を運んだり散水用のスプリンクラーを点検したりしている。千雪が「おはようございます」と声をかけると、菜園部の部員たちも「おはようございますー!」と元気よく返してくれる。



「こんな時間から練習してんのか。早いなぁ、千雪」



 そう言って現れたのは弥一だった。いつもの緑のジャージ姿に、制服や教科書をまとめて入れているのであろう大きなスポーツバッグ。襟足が少し癖になっており、瞳もいつもほどパッチリと開いていないことから、起きてからまだそんなに時間が経っていないことが伺える。



「おはようございます、弥一先輩。……そういう先輩も早いですね。家、近いんですか?」


「近いなんてもんじゃないよ、学内の寮に住んでんの」


「え、寮ですか?」



 花山学園に寮があることを千雪自身も知っていた。都内にしては安い入寮費で、学園とほとんど併設する形で建設されている学生寮である。三食を学園内の食堂で済ますことができて人気のある寮だが、入寮条件が非常に厳しい。学業もしくはスポーツで特別良い成績修めており、かつ実家が遠方であることが必須条件となっている。入寮定員は三十名であり、特待生である千雪でさえも、すでに都内に住んでいることから入寮させてもらえなかったという程である。


 弥一が花山学園に入寮しているということはつまり、実家が遠方であるということになる。その話は千雪にとって初耳であったのだが、弥一にそのイメージがなんとなくなかった千雪は弥一に疑問を投げかけた。



「寮ということは……弥一先輩、実家は遠いのですか?」


「うん。俺はね、大阪生まれ大阪育ち」


「大阪……大阪?」


「意外?」


「はい、意外です。訛りとかもないですし……」


「そりゃまぁ訛ろ思たらなんぼでも訛れるけど、東京の喋り方に合わせてるだけやで」



 急に変化した弥一のイントネーションを聞いて、千雪は思わず口を塞いで驚いた。「テレビでしか聞かない話し方だ!」と思いつつも、この露骨な驚き方が相手に失礼になるかならないか判断できずにいると、弥一はまたいつもの調子でケタケタ笑って体育館の方へ入っていった。



「そんな話は置いておいてさ。練習するんだろ? 暇な弥一先輩が付き合ってやるよ。何やるつもりだったんだ?」


「あ、はい。体力に課題を感じているので、それを克服したいと考えていました。とりあえずグラウンドを走ってきたところです」



 千雪も弥一の後を追って体育館に入っていく。誰もいない体育館では、二人の会話がよく響く。弥一が音の反響を楽しむように、靴底と床を擦り合わせてキュッキュッと音を鳴らした。



「体力をつけるのかー、いいね。……いいけど、もうちょっと本質的な練習をしないとな」


「本質的、というと?」


「体力にも色々種類があるっていうこと。別に千雪って長距離走とかには苦手意識持ってないだろ?」


「そうですね。そんなに苦手ではないと思います」


「千雪がこれから身につけていくべきは、もっとスポーツ的な体力だ。体力に限った話ではないな。ボールの投げ方とか走り方とか、そういうのもスポーツらしくできるようになっていかなきゃいけない。平たく言えば、スポーツ慣れってこと」



 そう言うと、弥一はバーチャル空間ではないコートの中へと入っていった。センターサークルの手前まで歩くと、くるりと踵を返して千雪に向き合う。静かに腰を落とし、ほんの少し前かがみになって低く構える。腕は力を抜いており、すぐに指の先が床に触れられそうな距離である。



「ハンターとかスポーツで必要とされる体力は、長距離走とはちょっと違う。こうやって低い姿勢で構えることがほとんどで、猛ダッシュをすることもあれば立ち止まることもある。前を向いて走ることも少ないな。さらにエレメントを使うと、猛ダッシュした時のような疲労感がくる。こういうのに耐え抜くための体力は、ジョギングではなかなか手に入らない。より実践をイメージしたトレーニングが必要になる」


「……なるほど。確かに、今まで私がやってきたトレーニングは有酸素運動の方が多かったのかもしれません」



 千雪が答えると、弥一は「難しい言葉知ってんね」と言って笑った。そして、右手で千雪を呼ぶように手招きすると、またいたずらを思いついた子供のように歯をみせて笑ってみせた。



「鬼ごっこやろう」


「……え?」


「いいからやろう。制限時間五分で、俺を捕まえたら千雪の勝ち。無理なら俺の勝ち。千雪が勝ったら、食堂のスポーツマンゴードリンク奢ってやるよ」



 突然の誘いに千雪は動揺したが、最後の「スポーツマンゴードリンク」の名前を聞いて千雪がゴクリと喉を鳴らした。


 花山学園の食堂は、有名私立の名に恥じないほど味の良いメニューを豊富に取り揃えているが、その中でもスポーツマンゴードリンクは、取材が来るほど有名なドリンクメニューである。


 マンゴー特有の甘さと酸味を兼ね備えながら、後味はスポーツドリンクのようにスッキリしている。経口補水液のように適切な割合で塩分を含んでおり、そのくせカロリーは非常に低いため、スポーツやダイエットのみならず勉強のお供としても強い人気を誇っている。唯一の難点は、他のソフトドリンクの二倍以上の値段がすることである。


 千雪としてもやはり、その人気の味を口にしたいものである。節約のために今日もペットボトルの中にはスポーツドリンクの粉末と水道水を混ぜたものが入っているが、そんなものより美味しいスポーツマンゴードリンクを飲んでみたい。



「……約束ですよ?」


「こういう話に食いつくところ、かわいいね。それじゃ、壁の時計の秒針がゼロを指したら開始ってことで」



 鬼ごっこが開始して、千雪は全く遠慮することなく弥一に飛びついた。もはや弥一が弥一ではなくスポーツマンゴードリンクに見えてくるような錯覚すら起こしながら、ひたすらに弥一を追いかける。


 一方、弥一は最初の姿勢をほとんど崩すことなく、しかも千雪から目を離すこともなく逃げ続ける。あまりにも素早く逃げるので、千雪が「今はバーチャル空間だっけ?」と混乱してあたりを見渡すが、ここは普通の体育館のコートである。


 弥一をコートの端にまで追い詰めることは度々あるのだが、それでも千雪が伸ばした手は宙を切る。千雪の腕の下をすり抜けて弥一が逃げていくのである。


 弥一を追いかけているうちに、先ほど弥一が話していた通り、ダッシュしたり立ち止まったり低い姿勢になったりすることが多いことに気づく。さらに、弥一の方はまっすぐ前を見て走ることはほとんどなく、常に千雪の方を見ながら横向きや後ろ向きに走っていると言っても過言ではない。明らかに弥一の方が身体への負担が大きいはずだが、先に息を切らしたのは千雪だった。


 こうして結局、千雪が弥一に触れられることがないまま五分が過ぎ去ったのである。息も絶え絶えに、千雪は汗を拭いながら呟いた。



「確かに、……しんどい、ですね。なんというか、あまり、今まで自分がやってこなかったこと、を、やらなきゃいけないというか……」


「そうだろうね。その点、ハンドボールをやっていた匠は体力、走り、投げる力とハンターに必要なスキルをほとんど身につけているし、春菜だって身体の使い方が人並外れている。あいつらと差を縮めるなら、こういう弱点を克服していかないとな」



 さりげに、千雪よりも匠や春菜の方が実力があることを指摘されて傷つく気持ちもあった千雪だが、確かに自分の方が実力不足であるに違いないということを再認識して、気持ちを切り替えた。


 千雪より匠や春菜の方が実力があるが、それは、匠や春菜よりも伸び代がはっきりしているということでもある。焦る気持ちはある。しかし、焦っても落ち込んでも千雪が今やるべきことは変わらない。こうして、自分の弱点から目をそらさずに前向きに努力を続けることができるところが、千雪の何よりの武器である。


 何か心に決めたような表情の千雪を見て、結局、弥一は千雪にスポーツマンゴードリンクをご馳走したのであった。



---



「扇寿さんに辞めろって言っただって?!」



 お昼休み。花山学園の食堂は溢れかえっている。一気に押し寄せる生徒たち、思い思いに話す声、カレーやカツ丼やうどんとジャンルを問わないあらゆる美味しい匂い。熱々の白米を口に運べば、五感の全てが支配される空間である。


 その中で、体育の授業から直でやって来てジャージ姿である流星と剣城、それに花山のチョコールグレーのブレザーの制服を着こんだ秀は、好きな昼ごはんを買って一つのテーブルを囲んでいた。


 思わず牛乳パックを強く掴んでしまい中身を溢れさせた流星に対し、剣城はオムライスを口に運びながら冷静に答えた。



「勉強で忙しいなら辞めろって言っただけだ。別に珍しい話じゃないだろ、高三が部活を引退するってのは」


「だからと言って、ツルが土足で踏み入っていいような話ではないんじゃないか」



 味噌汁を口に運ぶ秀が冷静な態度で答えた。「扇寿さんに相談されたってわけじゃないんだろ?」と言うと、剣城はオムライスを食べる手を緩め、ばつが悪そうに目をそらした。



「……悪い」


「僕たちに謝られても」


「そうだな。……いや、でも扇寿に謝るつもりもない」



 そう言って剣城は水と一緒に言葉も喉の奥底へ流し込もうとしたが、ふと前を見ると流星も秀も剣城を凝視してくるので、むせそうになりながら続けて話し出した。



「イライラするんだよ。部活を長く休んだのもそうだけど、誰にも相談せずに一人でどうにかしようとする態度が。プライドの塊なんじゃねぇの。……ったく」



 がっつくようにオムライスを食べ始める剣城の姿を、流星と秀は何も言わずに眺めていた。扇寿がプライドの塊のような人間であることは否定できないのだが、思わず「姉弟そっくりだ」と言わずにはいられなくなる。そう言うとまた剣城は怒るだろうと思って、二人は笑いそうになるのを堪えながら食事を続けた。


 数分ほど、沈黙の中で食事をしてから秀が呟いた。



「でもよかった」


「何が?」


「僕はね、てっきり『レギュラー決定戦のシステムが扇寿さんにとって不利だから』って焦って怒ってるんだと思ってたんだよね」



 今度はむせた。咳き込みながら、剣城は口周りをポケットティッシュで拭って「何言ってんだ!」と答えたが、その様子があまりにも図星だったので流星も秀も心の中で「やっぱり」と呟いた。


 一足早く、牛乳と惣菜パン三つを平らげた流星が剣城を擁護するように言う。



「実際、どうにかならねーのかな。扇寿さん強いけど、1on1で輝くようなタイプの人でもないし。レギュラーの決め方が違えば、すでにレギュラーになっていてもおかしくない人だけど、今年だって匠や春菜相手じゃ苦労しそうだよな」


「強い選手は1on1で十分に活躍できる、っていう理念だろ。別に俺はそこに異論ねーよ。秀だって5on5向きのプレイヤーだけど、1on1で戦える実力があるじゃねぇか」



 強い選手は1on1で十分に活躍できる、というのはハンター界隈では一般的になっている理念である。1on1には多くの基礎やその人自身の判断力が必要とされており、1on1こそが実力の現れるルールだという考え方を持つ者が多い。実際、5on5は得意で1on1は苦手というプレイヤーはそれなりにいるが、1on1が得意で5on5を苦手とするプレイヤーは極めて少ない。


 と言っても、やはり向き不向きは存在する。味方のボールに干渉して軌道を変えることを得意としている秀にとっては、味方の多い5on5の方が向いている。しかし、レギュラー決定戦は1on1で行うので、秀はどうにか1on1でも戦えるようなスタイルを確立して今に至るのである。


 扇寿もまた、1on1が苦手なプレイヤーである。そのことを知る三人は、予想しきれないレギュラー決定戦のことを思いながら呟いた。



「今年は、匠と春菜の二人のレギュラー入りは確実だろうね。あとは扇寿さん、もしくは……」



 言葉の続きは水と一緒に飲み込んだ。


 かの人とは、まだ食堂で一度も会ったことがない。果たして、人気者は昼休みをどう過ごしているのだろうかと、思いを馳せるのであった。



---



 そして、人気者も楽ではない。


 入学して数週間、普通はまだ互いの距離感や価値観を探り探り過ごす時期であるのに、千雪の周りには常に人が溢れていた。休憩時間になるといつも誰かが話しかけてくる。しかも、千雪は常に分け隔てなく人当たりの良さを発揮するため、千雪の周りから人が減ることがない。その人たちがファンなのか友人なのかは、千雪にもわかっていなかった。


 そのような毎日の中で唯一、千雪が一人で心を落ち着かせることができる時間があった。昼休みである。


 千雪はいつも昨日の晩御飯の残りなどを詰めた弁当を持参している。昼休みになると生徒たちは一斉に食堂へ押しかけるが、千雪が向かう先は、その食堂とは逆方向の体育館である。いつも部活で使う体育館の裏手、入学式の日にメインストリートを抜けてから座り込んだ場所。この静かで木漏れ日の気持ち良い場所で昼食をとるのが、千雪にとっての毎日の楽しみの一つだった。


 ……だったのだが、それも今日でおしまいかもしれない。



「君さぁ、千雪ちゃんだよね?」



 千雪がいつものように体育館の裏で腰掛けようとしたところで、男子生徒三人が声をかけてきた。ブレザーの制服で、胸元に緑色の小さいバッジを身につけていることから、三人とも花山の三年生であることがわかる。



「……はい、綾瀬です」


「やっぱそうだよね! こんなとこで何してんの? 一人飯? もしかして友達いないとかそんな感じ?」


「えー! それは寂しいなぁ。お兄さんたちが相手してあげよっか」



 そう言って、千雪を壁の方に追い詰めるように三方から距離を詰めてくる。瞳はギラギラとしていて、口角も歪むようにあがっており、舌舐めずりしている者までいる。明らかに友好的な態度ではない。


 教員の指導が非常に厳しいことと、大学の推薦を狙う生徒も多いことから、質の悪いナンパに出くわすことは今まで一度もなかった。しかしそれは人目の多い場所での話で、このような誰の目にも触れないような場所は学園内であっても危険であるということを、千雪は今初めて学んだのである。



「あの、私はここでちょっとお昼をとろうとしていただけなので、すぐに校舎に戻りますよ」


「じゃあ昼飯食ってる間、お兄さんたちと話そうよ」


「昼飯だけと言わずにさぁ、千雪ちゃんって成績良いんでしょ? 五限サボって、俺たち先輩と遊ぼうじゃんか」



 気持ちが悪い。しかしどう対処するべきかもわからず、千雪は立ち尽くしていた。


 街を歩くときは不審者に出くわさないように細心の注意を払っていた。外を出歩くときは常に人と行動して、一人にならないようにしている。特にマネージャーの美鈴はいつも車を出してくれるので、安心して行動できていた。だからこそ、このような事態になったときのシミュレーションが千雪の中でできていないのである。


 男子生徒三人の言葉に適当に答えながら、千雪は考えていた。緊急事態が起きたとき、ポケットのスマートフォンを最低限操作することで美鈴に連絡ができるようになっている。だからいざという時はそれで連絡ができるのだが、ここは学園内で、相手はただの生徒。学園外の人にヘルプを求めるほどの事態ではないし、事を大きくしたくない。


 冷たい態度であしらって逃げることも一つの手だが、千雪にはそれができなかった。



「千雪ちゃんってば本当に良い子だもんね」



 その言葉を聞くと、相手を邪険にできなくなる。


 神の娘と呼ばれるイメージを崩さない。それは使命感のように千雪の肩にのしかかってくるので、モデルである千雪を知る人の前で悪態をつくことは千雪にとってどうしても難しいことであった。


 完璧でありたい、完全でありたい。何一つ欠点のない人間でありたいという想い。



 ——お前は都合の良いときだけ良い顔をする悪女だ。



 ここにいない叔母の言葉が脳内で反芻される。


 叔母の言葉を否定したい千雪にとって、たとえ正当な理由であっても、叔母の言葉を肯定しかねない行動ができないのである。


 呪いのようなものだ。そのことは千雪にとっても自覚はあったが、それでも「嫌です」と言おうとすると喉に何か異物が挟まったような不快感に襲われる。


 千雪の想いなど露知らず、三人はさらに距離を詰めてくる。言葉数が少なくなってきた千雪のことを面白がって、一人の男子生徒が千雪の頰へと手を伸ばした。


 そのとき。



「外道みたいな真似して恥ずかしくねぇのかテメェら!」



 男子生徒三人どころか千雪までびっくりして、声の方向へと視線をやった。


 扇寿である。


 眉間のシワは今までになく深く刻まれていて、目はむき出しになりそうなほど開かれて、口からは白い牙が見えそうな形相である。長く伸ばした髪が風に揺れて扇寿のシルエットを大きく見せる。右手には扇寿のスマートフォンが握られているが、あまりにも強く握るので画面が割れてしまいそうである。


 突然の部外者の登場に一時は恐れをなした三人であったが、同級生の女子生徒一人であることに気づくと、少し余裕を見せた様子で扇寿に反抗した。



「なんだよ、明治じゃないか。そんな怒るなよ、ただこの千雪ちゃんとちょっと仲良くしてただけ。自分が相手されないからってさぁ、そんな怒らないでくれるかなぁ」


「それともなんだ、勉強が忙しくてイライラするから、俺たち西大の推薦組に嫉妬してんのかー? あーヤダヤダ、八つ当たりも勘弁してほしいぜ?」



 三人がケタケタと笑うので、扇寿が怒りに任せて殴りかかってきそうな勢いである。が、扇寿がブラウスの袖をまくりあげたところで、扇寿は何かを思いついて口角をあげた。



「……あー、そっかぁ。お前ら、西大の推薦枠狙ってるのか。六月に学園内の推薦枠を取れたら、もう進学先が決まったようなものだもんな。西大って推薦枠の成績基準は低いし、身分不相応な大学に進学できて、幸せじゃないか」


「は? あんま舐めた口聞いてっと殴り飛ばすぞお前」



 男子生徒の一人が扇寿に掴みかかろうとしたところで、扇寿はそれをひらりと交わしながらスマートフォンの画面の明かりを点けた。


 扇寿が明かりの点いたスマートフォンの面を三人に見せると、三人の表情がみるみると青くなっていく。先ほど、千雪に詰め寄っていた三人の姿がバッチリと撮影されていたのである。



「こんな恐喝まがいのことをする野郎を受け入れるなんて、まともな大学ならやらねぇよな。どうする? 花山の先生に知らせるか、西大に知らせるか、……ああ、SNSでもいいな。そいつ有名人だから、それはもう尋常じゃない野次馬が石を投げてくるってわけだ」


「おい、ふざけんなよお前」


「ふざけてねぇよ。大真面目だ。もう友達には送ったしな」



 そう言うと扇寿はスマートフォンをポケットにしまい、一瞬で三人に詰め寄った。


 左手で男子生徒一人の胸ぐらを掴むと、そのまま投げ飛ばしかねない勢いのまま怒鳴りつける。



「テメェの将来が大事ならとっととここから去れっつってんだよ! んなことも理解できねぇのかこの低脳腐れ外道が!!」



 そのまま扇寿が頭突きをしそうになったところで、男子生徒は扇寿の手を振り払ってその場から逃げ出した。


 嵐が去ったような静けさの中、扇寿は再びスマートフォンを手にして「大丈夫だった」と誰かへ連絡を送る。その横顔を見ながら、千雪がおずおずと呟いた。



「あの……ありがとうございました、明治先輩」


「明治って呼ぶな。剣城とややこしくなるだろ。扇寿でいい」


「そ、そうですね。ありがとうございました……扇寿先輩」



 スマートフォンの操作を終えた扇寿は、そのまま体育館の表側へと歩き出した。どうすれば良いかわからず千雪が立ち尽くしていると、扇寿が少し苛立ち気味に「んなとこで飯食うなよ、こっち来い」と千雪を誘って歩き出した。


 誘われてたどり着いたのは、体育館の入り口付近のベンチ。体育館を背に設置されたベンチであり、菜園部の花々と蝶々、広大なグラウンドと、メインストリートから流れてくる桜吹雪も楽しめる場所である。直射日光が眩しいが、小さな机も設置されていて屋外の食事場所としてはこれ以上にないほど適した場所であった。


 千雪をベンチに座らせて、扇寿は体育館に併設されている自動販売機で買ったオレンジの炭酸ジュースを片手に腰掛けた。扇寿は何も言わなかったが、とりあえず千雪が弁当を食べ終わるまで居座るらしいことを察して、千雪は「いただきます」と味の感じられない昼食を始めた。



「なんであんな所で飯食おうとしてたんだよ」


「あそこが一番落ち着くので」



 扇寿の瞳が千雪の方を見ている。扇寿自身がどのようなつもりかはともかくとして、睨みつけてくるようなその視線に千雪は萎縮した。体育館裏が落ち着くということは嘘ではないのだが、なんとなく罪悪感を覚えて千雪は申し訳ない気持ちになった。



「食堂で食えよ。混んでるけど席は空いてんだろ」


「食堂ではお弁当を食べてはいけないって校則があると聞いたので」


「ああ、あったなそんなクソ校則。っていうか、そもそも弁当やめて食堂のモノ食ったらいいだろ」


「弁当の方が安く済んじゃうので、つい……」



 花山学園は施設に多大な建設費用がかかっているために金持ち校のイメージがあるが、食堂のメニューは基本的にそれほど高価ではない。五百円未満で具沢山のカレーを食べられるということなど評判も良く、ほとんどの人は弁当ではなく食堂での食事を選んでいる。また、入学費用のかかる私立高校であるために、食堂の食事代を高く感じるような家庭はほとんどないはずである。


 にも関わらず、特待生である千雪が一人称視点で「弁当の方が安い」と語るのを見て、扇寿にも察するものがあった。



「もしかして、一人暮らしか」


「はい、そうです。なので、こうして昨晩の余り物を詰めて過ごす方が色々と楽でして」



 扇寿はそれ以上踏み込まなかった。学生寮には台所がないため、一人暮らしで弁当ということは一般賃貸に一人で暮らしているということである。であれば一体どうして一人暮らしをしているのか、という疑問が聞き手の脳裏に過らないわけがないが、そこに踏み込むのは無神経に感じられて扇寿は話題を変えたのである。



「だったらまぁ、せめて教室か、ここで食えよ。ここならたまに先生も通りかかるから、変な絡まれ方しても誰か気づいてくれる。昼練しようと寄ってくる部員だっているだろうしな。もうあんな、人目につかないところに一人で行くな」


「はい……すみません」


「謝ることじゃねぇよ」



 静かな時間。扇寿の少し不器用な優しさが千雪の胸を温かくする。いつか純が扇寿のことを「かっこいいし、優しい」と評していたのを思い出して、千雪は今更になって納得した。……さすがに「女神」には見えないが。


 千雪の手元のお弁当近くを、白い蝶々がひらひらと踊りやってくる。半分に割って弁当に入れられた梅干しの匂いにつられたのだろうか。箸の先に止まりそうなほど近くを舞う蝶々に、思わず千雪の笑みが溢れた。


 その様子を、炭酸ジュースの缶を口にしながら横目で見ていた扇寿が呟いた。



「……千雪さ」


「はいっ?!」



 急にファーストネームで呼ばれて、千雪は弁当の中身が飛び出そうになるほどに驚いた。蝶々も驚いたように逃げていく。扇寿が怪訝な表情で「……何?」と問うと、千雪は「いえいえ、何も、ちょっと気を抜いていただけです」と答えた。



「千雪さ、なんでもっと嫌がったり逃げたりしなかったんだよ」


「え?」


「さっきの奴ら。嫌だったんだろ。私、一瞬状況が読めなかったから写真撮りながら見てたんだけどさ。千雪、全然拒絶しなかったよな。あんなの、普通なら股間蹴り上げて唾吐いて逃げるところだろ」



 普通の人も股間を蹴り上げて唾を吐いたりはしないだろう。しかし、そのようなツッコミが受け入れられるほど穏やかな空気ではなかった。



「ちょっと、言葉に迷ってしまって。嫌だったのは……確かに嫌でした。だから、扇寿先輩が助けに来てくれたのは本当に嬉しかったです」


「言葉に迷う、ねー。そりゃまぁ、怖いとかそんな理由で竦んだんなら、まだわかるけど。でもさぁ」



 そう言うと、扇寿は千雪の顔を覗き込んできた。


 不愉快そうな扇寿の表情に千雪が疑問を投げかけようとすると、先に扇寿が口を開いた。



「お前、本当は世間体気にして言葉を選んでただけだろ」



 図星をつかれたような感じがして、千雪は言葉を失った。


 世間体を気にしていた、という表現はあまり適切ではないのだが、自分がどう見えるかを気にして言葉を選んでいた点は事実である。利己のために言葉を選んでいたという点が事実である以上、その手前の理由なんて言い訳に他ならない。


 即座に何も言い返してこない千雪からは目線を外して、扇寿は天を仰ぐようにベンチの背もたれに頭を預けた。



「あんなクソ野郎ども相手に、お前は遠慮していたんだろ。嫌って気持ち押し殺してまでして。……ったく、かわい子ぶってお高くとまってるアイドルも気にくわねぇけど、クソ野郎相手にも本音ぶつけられねぇ奴よりは余程マシだな」


「す、すみません。申し訳ないです」


「だから謝んなって、謝ったからどうって話じゃねぇだろ。もうちょっと自分の身を自分で……違うな。もうちょっと遠慮なく自分の思ってること言えるようになれよ。ちゃんと言うこと言えば状況も変わるってものだろうに」



 千雪は言葉を失って、弁当の残りにも口をつけられずにいた。


 扇寿の方も文句を言ってから、その文句が自分自身にも刃を向けているように感じられて、口ごもる千雪に「悪い、言いすぎた」と謝罪の一言を投げかけた。千雪は何も言わなかったが、そこに不満の表情はなかった。扇寿の言葉を心から噛みしめるような、思いつめた表情だけがそこにあった。


 炭酸ジュースを一気に平らげて、扇寿は空の缶を片手に立ち上がった。



「食い終わったら、早めに教室戻れよ。昼休憩もそう長くないんだから」


「はい、ありがとうございます」



 一歩、二歩と。


 扇寿はゆっくりと歩を進めていたが、三歩目で顔だけを千雪の方へ向けて、もう中身が入っていない缶を口に運びながら言葉を投げかけた。



「レギュラーの座、絶対譲ってやらねぇから。そこんとこ、覚悟しとけよ」



 それは、扇寿にとっては千雪をレギュラーにも匹敵するくらいの実力を秘めたプレイヤーであることを認めた一言だったのだが。


 扇寿の真意をどうにも掴めなかった千雪は、少し間抜けた声で「はい」とありきたりな返答をすることしかなかった。


 一方で、その場を早足で去っていく扇寿の瞳は、近い将来に訪れるレギュラーを賭けた厳しい試合の模様を確かに見据えていたのであった。



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