第七話

 千雪と、三崎と呼ばれる少年がコートに入る。


 三崎は一年生。千雪は知らなかったが、千雪の次に入部試験に合格していた者である。


 先ほどの試合で部員たちが興奮していて、口々に「頑張れよ!」「ぶちかましてやれ綾瀬さん!」との声も聞こえる。明らかに千雪を贔屓するような声が多くて千雪は苦い気持ちになったが、三崎の表情を見て気づいた。


 この少年、明らかに千雪に惚れている。


 ファンという域を超えた、界隈で『ガチ恋勢』と呼ばれる類の者かもしれない。


 高校一年生にしては小さな背丈に小さな手足。度のキツそうな緑淵のメガネをしているが、度のキツさに負けないほどの大きくてまん丸な瞳をしている。


 口は小さく噤まれていて、運動のせいかどうかはわからないが頰が少し赤く染まっており、眉は弱々しく垂れ下がっている。


 千雪を応援する声の中には、千雪への鼓舞ではなく、三崎への野次も多く含まれているようである。



「綾瀬です。よろしくお願いします」



 コートの真ん中で、あくまで普通に、一般人同士と何一つ変わらない挨拶をする。


 それだけなのだが、三崎はそれだけでもう混乱してしまったようで「あわわわのあのは」と唇を震わせている。


 レベルの高い匠と春菜の試合のあとで緊張する千雪であったが、今は別の意味で緊張していた。


 先攻後攻を決めるまでの少しの間、三崎はようやく聞き取れる程度の調子で話しだした。



「私、綾瀬さんのファンをしています。D組の三崎裕太です。元々は姉がファンで……それから、僕も好きになってしまって。入学前から、いつも見てました。たまたま同じ花山学園に入学できて、とても、とても光栄です!」


「わぁ、そうなんだ! あり——」


「それで、ち……綾瀬さんが、ハンターに入部するって聞いて!」



 三崎の溢れんばかりの想いが、千雪の言葉さえ遮る。



「この機会に、私も経験のないことをやってみたくなったんです。だから真剣に練習して、入部できて、それで今こうやって綾瀬さんと試合ができます。それが嬉しいんです! 私は、綾瀬さんがやりたいことを応援したいと思っています。綾瀬さんの力になりたいです」



 三崎が話しているうちに、千雪の先行として試合の幕が開けた。


 三崎が一歩ずつ後ろに下がっているが、このままボールを投げれば当てられるかもしれない程度の距離感である。「綾瀬さんの力になりたい」という言葉に試合の八百長が含まれているのかと、千雪は不安になりながら右手でボールを作り始めたが、その不安は杞憂に終わった。



「綾瀬さんや、このチームが本気で成長できるよう、正々堂々本気でやります!」



 そう言い切って、千雪がボールを生成し終えると同時に、三崎は思いっきり千雪と距離を取るように後ろに飛び移った。


 真剣な表情をしている。


 簡単にボールに当たってくれそうにもない雰囲気に、千雪は「ありがとうございます」と聞こえない程度の声で呟いた。



(……と言っても、初期能力がわからないのよね)



 千雪自身が話題になっているから当然で、千雪の初期能力も部内に知れ渡っていた。と言っても、「あたり一面をボールだらけに見せる幻影の能力」と中途半端に伝わっているため、どのように使えるのか、何が脅威なのかまでは広まっていない。実践的に使うのは今日が初めてになる。


 一方、千雪は三崎の初期能力を知らない。


 攻撃、回避、どちらに役立つ能力なのかさえわからない。情報の差でやや千雪が不利であるため、立ち回りが重要になる。


 千雪は、まずは普通にボールを投げる攻撃を始めた。


 作っては投げ、作っては投げを繰り返す。


 身体能力が高いことと、ボールが自らの手で生まれることを除けば、現実世界でのボール鬼ごっこと何ら変わらないような状況である。


 なかなか思うようには当たらず、千雪は奥歯を噛み締めた。



(見ていたときに想像したよりも、距離感が難しい。コートは思っていたより広いし、ボールが手元にない時間の隙が大きい)



 匠は投球のスピードが速く、春菜はコートの横断スピードが速い。


 そのため、匠と春菜の試合を見ているだけではコート上の大きさなどのイメージが掴みにくい。こうして、実際にやってみたときにイメージとのギャップを感じることになる。


 このまま攻めているだけではインターバルの時間が無意味に過ぎてしまう。千雪は三崎と対峙しながら、自分の考えを整理した。



(まずは一本、幻影を使わずに取りたい。できれば、相手の能力がわかってから使いたい。それと……別に、三崎さんは元運動部とか、そういう人じゃない気がする。大丈夫、単純な運動神経では私が勝る。冷静に、相手の隙をつけばいい)



 コートの真ん中にいる千雪に対し、三崎はコートの端の方で千雪の出方を伺っている。


 間も無くインターバルの時間はなくなろうとしていたが、千雪はあえてそちらを意識するのをやめることにした。


 無駄な思考が徐々になくなってきて頭が涼しくなるような感覚を抱く中で、部員の誰かの「ファイトー」という声が館内でこだまするのを感じるのであった。


 千雪が走り出す。


 三崎の真正面、三崎としては右か左に逃げざるを得ない状況である。


 三崎は、千雪から見て左に走り始めた。よく観察すると、三崎は逃げるときにボールを見ない傾向にある。


 だからこそ逃げ足は速いが——。そのことに気づいた千雪に、勝機を与えることとなった。


 投げるふりをする。


 三崎の視界の端で千雪が投げるふりをするので、三崎はなおさら一所懸命にもう一つのコートの方へと走り出した。


 それを見た千雪がボールを投げる手を止め、三崎の死角へと静かに回り込む。


 三崎の背中側……そうすると、三崎が千雪から見てまっすぐ前へ走っていくのが見えるのである。


 鋭く、投げた。


 ボールを見ない三崎には、自分の逃げる先と同じ方向にボールが投げられたのが見えなかったのである。


 ボールは三崎の背中に当たり、攻守交代となった。タイマーを見ると、千雪の残り時間が4:50となっている。


 インターバル以上の時間をわずかに削ったが、五分五分、いや、千雪の方が優勢と言える状況である。



(ボールから目を離さないように逃げないと……)



 三崎がボールを生成し、互いに出方を伺っている。三崎は先ほど逃げるときに全力で逃げたせいか、すでに息を切らし始めている。今年は暖春であったが、これほどに動くと館内の空気が真夏のように重苦しく感じられてくる。三崎は手の甲で額の汗を拭ってから、しっかりと両手でボールを掴んだ。


 千雪の方はというと、三崎の初期能力について考えていた。


 運動神経がそこまで上昇していた訳ではないところを見ると、三崎の初期能力は身体能力の増強ではない。必死で逃げていた点を見ても、逃げる上で役に立つ能力でもない。すると、あり得るのは投球に役立つ能力か、あるいは千雪の幻影のように全く別の能力かだろう。


 息を整えるのに十秒ほど費やして、三崎はボールを投げ始めた。千雪と距離があるので難なく避けられる。ボールの威力もさほど強くなく、お手本通りのフォームで投げている千雪の方が力が乗っているように見える。体力も明らかに千雪の方が多く残しているので、このまま千雪が逃げ切ることも夢ではないだろう。


 と、多くの人はそう思った。


 靴が床を弾く音。一際大きな音が響く。突然に、三崎が大きく一歩を踏み出した。



(これは、仕掛けてきた?!)



 千雪は警戒しつつも、先ほどの三崎の二の舞にならないように三崎から目を離さずに距離をとる。ただ突進する三崎と、三崎の出方を伺いながら走る千雪との距離は徐々に短くなり、さらにコートの端にも近くなる。


 千雪がコートラインにほんの少し目をやったところで、三崎はボールを投げた。それほど距離が離れていない中、千雪の鳩尾へと向かってボールがまっすぐ投げられる。



(まずい……いや、これなら避けられる!)



 と、千雪が大きく身体を右に傾けたが。


 ボールは無情にも千雪の左肩に当たり、大きなブザー音が鳴る。三崎がボール権を得ていた時間は四十秒にも満たない。予想よりもはるかに早いタイミングで、攻守交代となったのである。


 それをコートの外で見ていた春菜は、不可解そうに首を傾げた。



「あれ? ちゆちゃん、今、避けなかった?」


「普通のボールだったら避けられたと思うよ」



 と、事の次第を正確に見届けていた秀が答える。



「三崎くんのボールの軌道が曲がったんだよ。少しね。綾瀬さんはボールをよく見て避けていたけど、ボールの軌道が変わったために避けきれなかったんだね」


「なるほど。匠とは全く逆の能力ってわけですなぁ」



 一方で、千雪も秀ほどではないにしても状況は掴んでいた。ボールを避けたにも関わらず、ボールが自分の後を追うように曲がった。


 三崎の初期能力が何かをもたらしたのはわかるが、わからないのは「どうしてボールが曲がることになったのか」である。


 曲がるような軌道のボールを投げたのか、千雪が逃げた方向を確認してからボールの軌道を曲げたのか、あるいは、ボールが勝手に千雪を追尾するのか。



(追尾する……だとしたら一番厄介だけど、多分違う。それならもっと早く攻めることができたはず。そうしなかったってことは、そこまで強力な能力じゃない。ちょっと軌道をずらす程度の能力のはず。そうだとしたら、対策はわかる!)



 確信を得て、千雪はボールを生成した。


 右手で鷲掴みにして、いつでも投げられる体勢のまま三崎を追いかける。先ほどの反省から三崎は千雪やボールから目を離さなかったが、それでも弱腰な性格は簡単に治るものではない。


 千雪が右手からボールを離すと、三崎は大きく身体を翻すように右方向へと走り出した。ただひたすら、ボールが飛んでくるであろう場所から逃げるように。


 それが隙になる。


 千雪はすかさず、三崎が逃げた方向へとボールを投げた。


 ボールが自身に飛んできたていたことなど知らなかった三崎は当然ボールに当たり、攻守交代となる。



(……? どうして? 千雪ちゃんは確かにボールを投げていたのに、こんなに早くボールが飛んでくるの? フェイントじゃないよね、僕は千雪ちゃんの右手からボールが離れた瞬間を見たのに。投げてから三秒くらいはかかるはずじゃ?)



 何が起きていたかよくわかっていない三崎は、ただ部員たちが歓声をあげるのを唖然と聞いていた。


 視界の端では、純が嬉しそうにガッツポーズをしている。



「やるぅ、千雪ちゃん、もういい感じに幻影を使ってるじゃん!」


(……幻影?)



 純から聞こえてきた言葉を聞いて、三崎はハッとした。


 ボールは作成者が消してからもう一度生成するまでに三秒ほどの時間がかかる。しかし、それはあくまで本物のボールの話だ。


 千雪が最初に投げたボールが、偽物だとしたら?


 千雪が投げたように見せたボールが偽物で、実は千雪がボールを投げているフリをしている間に、本物のボールを生成していたのだとしたら?



「そうか。……すごいですね、綾瀬さん。私じゃ敵わないでしょうか?」


「ううん、まだ始まったばかりだよ」



 三崎の賞賛に千雪は無難な受け答えをしつつ、千雪の方も焦りを感じていた。


 幻影を、ハンターというゲームの勝利のために使ったのはこれが初めてだった。自分が生み出す幻影と自分の動きを一致させて「本当に投げている」ようにみせる芸当をしてみせたのもぶっつけ本番で、本当は上手く行くかどうかすら不安であった。


 手はわずかに震えており、何より、先ほどとは比べ物にならないほどの汗を流している。夏の日差しを浴びてきたかのような雰囲気だ。



(……緊張しちゃったし、思ったより体力を使うんだね、これ。練習しがいがある、と思っておこうかな)



 体力の消費を悟られぬよう、千雪は息を無理矢理に整えて三崎と対峙した。


 距離が離れている間は、三崎の投球はそれほど脅威ではない。能力を節約しながら避けることも充分可能だろう。


 問題は、距離を詰められたとき。


 千雪には、距離を詰められてもなんとかできるだけの勝算があるのだが、体力だけが気がかりである。


 まだ試合は二分も経過していない。


 一方、三崎の方は千雪の体力事情を知らないとはいえ、自分の得意な間合いに詰めようとしている。


 ボールを持って、ゆっくりと千雪に近づくだけ。


 間合いが詰まるのもゆっくりではあるが、三崎の目がしっかりと千雪の動向を捕らえている分、千雪が迂闊に動けない状況となっている。


 三崎がコートの真ん中を通り過ぎて、千雪としては三崎の横を抜けたい状況となっているが、そうもいかない。三崎の手には常にボールが捕まれているので隙がないのである。



「綾瀬さんって、中学生の頃とかは部活に入っていなかったって聞いたことがあるんですけど、本当ですか?」



 不意に三崎から質問が飛んできて、千雪は警戒しつつも首を縦に振った。油断を生んで攻めてくるつもりかと疑ったが、三崎にその様子はなく、ただ純粋に質問をしただけのようであった。



「すごいですね。私なんかより……いや、私なんかと比べる方がどうかしてるんですけど。勉強もできて、運動もできて、あと楽器もできて絵も描けるって聞きました。お弁当も自分で作っていて美味しそうだって聞いたことがあります。何か苦手なことってあるんですか?」


「ま、まぁ。苦手なことは隠しておきたいから、言えないようなことなら……」



 強いていうなら、このような質問の受け答えが苦手だろうか。


 そのようなことを考えていると、ふと、三崎の目の色が変わった。



「私、勝ちたいです。綾瀬さんのファンなので。綾瀬さんが好きなので。だから……綾瀬さんに認めてもらえるようなこと、何か成し遂げたいんですよ!」



 愛の告白にも近い言葉を携えて、三崎が千雪の方に走ってきた。


 手元がわずかに光っている。


 左足をぎゅっと前に踏み込んで、助走の勢いを乗せて今まさにボールが放たれようとしている。



(認めてもらえるように、か)



 ボールはまっすぐ飛んできているように見える。


 ここで右か左に身体を倒せば普通は避けることができそうなものだが、そうはいかないことを千雪は知っている。ボールが曲がって自分を捕まえにくるはずだ。


 だから、千雪は、二手に分かれることにした。



「ちゆちゃんが増えた!!」



 春菜の驚愕の声が館内に響く。


 周りの部員の目からは、二人の千雪が、左、右、それぞれに避けたように見えるのである。



「え、ちょ、千雪ちゃん?!」



 三崎も、自分の目の前の光景に驚いて思わず声を漏らした。


 ボールは先ほどのように曲がらず、コート端の壁にぶつかって消滅する。ハンターでは基本的に、コート端の壁にぶつかったボールは本人の意思に関わらず消滅するようになっている。ボールが消滅したのとほぼ同時に、左側に逃げていた千雪もまた幻のように消えていった。


 幻影だ。


 今度は千雪自身の幻影を生み出し、咄嗟に本物の千雪がどちらかわからないようにしてみせたのである。


 千雪は二つの目的を持ってこの幻影の作戦を決行していた。一つは、単にボールを避けること。もう一つは三崎の能力の見極めである。


 三崎の能力が「相手に追尾する」であれば幻影があったところで追尾ができるはずである。「曲がるような軌道のボールを投げた」場合も同じで、そうであれば千雪の身に何が起きようともボールは曲がるはずである。


 つまり、千雪の分身に驚きボールの軌道が曲がらなかったということは、三崎は千雪の行動を見てからボールの軌道を曲げている。これを見極めるために、千雪は分身を生み出したのである。



(大丈夫、これで……全部わかった。対策も、できてる……)



 ふ、と。


 千雪は自分の目の前の景色が暗い万華鏡のように歪むのを感じた。しばらくすると普通の景色に戻るが、今度は景色が少し眩しく感じられる。思わず膝に手をついて深呼吸をしたくなるが、それを我慢していると周りの音があまり聞こえなくなるような錯覚に陥った。


 動かない千雪に対して、三崎はボールを弱めに投げた。ボールはあまりにもあっさりと千雪の左腕に当たって、大きなブザー音が鳴る。


 そのけたたましい音で千雪はようやく我に返ったようで、タイマーの方へと視線をやった。千雪側のカウントが減り始めている。



——4:22・3:41



 千雪の様子がおかしいことに気づいて、正義はタイマーを止めてから千雪に声をかけた。



「綾瀬、体力がないんじゃないのか? これは練習だから無理しなくていい、休むか?」


「体力……」



 正義の言葉を聞いて、千雪はようやく自分の状況を理解した。三崎と対峙したときのボールは、千雪の思惑通りに避けることができた。


 しかし、そのときに使った幻影の能力がさらに千雪の体力を食い物にしたのである。


 そのせいで三崎が投げたボールにも気づかず、今、このような状況になっている。



「いえ、すみません、大丈夫です」


「……本当に大丈夫か?」


「一時的に体力がきつかっただけです。普通にしていれば、全然」



 千雪の言葉を丸々信じてはいない正義だったが、「絶対に無理はするなよ」と言うとタイマーのカウントダウンを再開させた。


 実際、何もしていなければ体力は回復してくる。しかし、このゲームで何もしないというわけにはいかない。ただボールを生成するだけでも体力を使うのがこのハンターというスポーツである。


 千雪は改めて三崎と向き合うと、すぐにボールを生成し始めた。


 また少しだけ視界が歪むように感じるが、先ほど酷くはない。こうして向き合っているだけであれば、自分の中でエネルギーが湧いてくるのを感じられる。体力も心配であるが、千雪としてはそれよりも不安そうな顔をしている三崎のことの方は気がかりであった。



(こんなことで遠慮させちゃダメ。三崎君に悪いし……正々堂々、勝たなきゃ)



 しばらく、千雪は幻影を使うのをやめた。幻影を使わずとも三崎にボールを当てるくらいのことはできる。三崎自身がボールを避けるための能力を特に持ち合わせていないし、単純な運動神経では千雪が勝る。しかも、三崎は逃げるときの体力の使い方があまり上手ではないので、回復に時間を使いながら攻めるだけでも攻守は交代できるだろう。


 と、千雪は考えていたのだが、現実は甘くない。


 次に攻守交代のブザー音が鳴るまでに、千雪は四分近い時間を使い果たしてしまったのである。


 試合の様子を見ていた純が不安そうに呟いた。



「さすがに、これは千雪ちゃんが劣勢と言わざるを得ないかな……」



——0:21・3:41



 千雪も三崎も息を切らしている。


 体力自体は五分五分に見えるが、だからこそ、次に攻守交代すると千雪は確実に負けることになるだろう。


 実質、これが最後の攻防戦だ。


 館内により一層、緊張感が走るのであった。


 一方、試合を見ていた扇寿は眉間にシワを深く刻んで監督に話しかけた。



「あの、監督。今日この後ってまだ練習試合するんですか」


「いいや、今日はこれが終わったらいつもの練習に戻るつもり」


「わかりました。ちょっと外で自主練してきていいですか。体、冷えそうなんで」


「かまわないよ」



 監督の了承を得ると、扇寿は手に持っていた上着のジャージを体育館の端に置き、代わりに水の入ったペットボトルを持って外に出て行った。


 その様子を、その何か思いつめたような横顔を、監督はじっと見つめていたのであった。


 試合の方は、千雪が今まで以上に動き回って三崎を翻弄している。


 千雪は幻影を使えないが、三崎は曲がるボールを投げることができる。


 曲がるボールが猛威を振るう間合いにさせないために、千雪がひたすら機敏に動いて、思い通りの間合いにならないようにしてみせているのである。


 それは集中力を必要とする立ち回りであったが、試合時間は残り三分。体力も集中力も、ギリギリ持つかもしれない時間である。



(千雪ちゃんさすが……全然諦めてない!)



 三崎も心に焦りが生まれ始めていた。


 圧倒的に三崎が有利な状況になったはずだが、今までと違い、鼠のように走り回る千雪にボールを当てられる様子がない。


 当てられるチャンスがあるとすれば、千雪の体力が底を尽きて走ることさえもできなくなったときだろう。



(千雪ちゃんの体力を削って、最後にカーブボールで決めるしかない。ちょっとずるい作戦だけど……ごめん!)



 同様に、千雪も三崎の動きを警戒していた。


 三崎は千雪の様子を伺って隙を作らないように動くのをやめて、今度は隙が多かろうと何だろうと忙しなくボールを投げてくる戦術に切り替えている。


 一瞬でも千雪が立ち止まればボールに当たるだろう。そう思うほど、とめどなくボールが襲いかかってくる。


 千雪に当てるためにボールを投げているというより、千雪に休憩の隙を与えないために三崎が立ち回っていることを千雪も察していた。


 観戦していた部員の一人が「千雪ちゃんいじめていいのかよ三崎ー!」と茶々を入れたが、側にいた霞が「そういうくだらん野次は止めろ」と厳しく言い放ったので、二人の行く末を応援する声だけが館内を響かせるようになった。


 千雪の足の動きが少しずつ鈍くなっていく。


 三崎の残り時間は一分ほど。


 時間と体力のどちらが先になくなるかは誰にもわからない。三崎自身も何度もボールを投げていただけあって、千雪に負けず劣らずの汗を流している。



(時間がなくなってしまう。これはきっと最後の一球。……決めてやる!)



 三崎は怒涛の投球をやめ、コートの真ん中から千雪の動向を伺った。


 今日、何度も見た光景だ。


 千雪はもう先程までのようなひたすらに走り回るだけの体力は持ち合わせておらず、三崎の横をすり抜けていくことはできない。


 時間は刻々とすぎて、残り三十秒を切った。これが最後の対峙であると、誰もが拳を硬く握り締めて見守った。


 三崎が数歩間合いを詰めて、投球体勢に入る。野球のピッチャーとバッターのような、ゆっくりと、そして時を忘れるような緊張感がある。



(絶対、絶対、避けてみせる!)



 最後の力を振り絞るように。



「……え、嘘でしょ?」



 千雪は再び、自分の幻影を生み出した。低い体勢で、膝を少し曲げ、見上げるようにして三崎の出方を伺っている。その千雪の姿がよく見ると二重になっていて、そこに幻影が混じっていることがわかる。


 そんな体力が残っているはずはない。


 実際、残っていない。


 もう千雪は身体の本能的なものでそこに立っているだけで、周りの景色はほとんど見えていない。かろうじて、三崎がまだボールを投げていないことがわかる程度だ。


 三崎の持ち時間が残り十秒を切り始めて、部員たちのカウントダウンの声が始まる。



 ——10、9、8……



(ダメだよ、千雪ちゃん、無理しちゃダメだ)



 三崎は悲しい気持ちになりながら左足を踏み込んだ。


 覚悟の決まった目だ。


 それでいて、哀愁を持った目。


 憐れみの中で、自らの勝ちを確信した、その目が。二重に見える千雪の、実態の姿を確実に捕らえる。



 ——7、6、5……



「綾瀬さん、気づいていないかもしれないけど……」



 ——4、3……



「綾瀬さんの幻影の方は、少し透けて見えるんだ。私には見えるよ、綾瀬さん!!」



 ボールが放たれる。


 今日の三崎の中で、一番鋭い一球だ。


 虚ろな意識の中で、千雪と千雪の幻影は逆方向に走り出した。


 しかし、三崎の言う通り幻影の方は透けて見えてしまっている。ましてこの疲れだ、もう幻影と言えども、半分くらいしか目に見えていない。


 そのことにまで気が回っていない千雪は、三崎が幻影に惑わされることを信じて右に走り出してしまった。


 ボールが曲がる。


 右だ。


 三崎の瞳は本物の千雪を捕らえている。


 右に逃げていく千雪を許さず——。



 ——ビィィィィィィィィィィィィィィィィィィ!



 タイマーのブザー音が鳴り響いた。


 それは、攻守交代の……ではなく、試合終了を知らせる音であった。


 ボールは確かに、本物の千雪と同じ方向に曲がってみせた。


 しかし、千雪の膝がもう千雪の体を支えきれなかったために、千雪がその場で倒れてしまったのである。


 千雪を追うように曲がったボールは、下方向に倒れゆく千雪を追うことまではできず、そのまま試合終了と共に消えるしかないのであった。



「千雪ちゃん!」



 同時に、純や正義、そして監督がバーチャルのシステムを一時解除してコートへと入ってきた。


 純が血相を変えて何度も何度も「千雪ちゃん、千雪ちゃん!」と名前を呼ぶ。千雪はなんとか自分で起き上がるくらいのことはできた。



「私……ええと、勝ちましたっけ?』


「うん、勝ったよ! よく頑張ったね! でも今はそうじゃなくて、とにかくお水飲んで!」



 春菜が千雪のペットボトルを持って走ってきた。水を口にすると、視界が徐々に晴れて周りの音が聞こえやすくなる。それでもどこか頭はボーっとしていて周りの声は頭に入ってこなかった。


 心配そうにしていた三崎は、千雪が大丈夫そうな様子であることを確認すると「負けました」と言って握手を求めた。千雪にとって握手といえばモデルとファンの交流であるが……実際自分のファンである三崎が、スポーツマンとして握手を求めていることに気づくと嬉しくなって、千雪も「こちらこそ」と笑顔で返した。



「勝ったなら、よかったです」


「よくない!」



 千雪の笑顔とは対照的に、純は泣きそうな怒り顔で「無理をしちゃいけないんだから!」と千雪を叱りつけた。叱るというより、怒鳴るような勢いである。


 自分が怒鳴られたのはいつぶりだろうか、そんなことを考えながら、千雪は純の注意を真剣に聞き入れながら何度も「ごめんなさい」と頭を下げるのであった。



---



 体育館に一番近いグラウンドでは、陸上部とサッカー部が練習をしている。


 走り込みをしている陸上部のフォームを遠巻きに見ながら、扇寿もまるで自分が陸上部の一員になったような気持ちで走り込みの練習をしていた。


 体育館では感じられない自然の風を肌で感じて、心と体が心地よくなっていくのを感じる。サッカー部の掛け声が自分への声援であるように聞こえて、扇寿はより一層速く走ってみせた。


 ふと前を見ると、体育館から歩いてくる一人の影が見える。


 青ジャージと風になびくポニーテールですぐにわかる。ハンター部の副部長、霞である。



「一年の試合が終わったので戻ってください。扇寿さん」



 霞は一切の笑顔を見せず、冷たい表情で言い放った。


 この無愛想では新入部員に全く心を開いてもらえないのではと思った扇寿であったが、自分の態度を考えると、人のことを言えないということに気づいてため息をついた。



「わかった。戻る」


「……気合入ってますね。しばらく休んでたからですか。それとも——」


「別に、そんなんじゃねぇよ」



 扇寿は霞の発言を制して歩きだした。


 霞が言おうとしていたことは扇寿にもわかる、レギュラー決定戦のことである。図星のことを言われるのは気分が良くなかったので、扇寿はその話題にしたくなかった。


 しかし、その扇寿の気持ちも知らずに霞は話を続ける。



「レギュラー決定戦、扇寿さんは間違いなく選ばれると思いますよ」


「何を根拠に」


「わからないわけないでしょう。他に選ばれるのは……一年の根津、乃木。あと、あの綾瀬もあり得るでしょうね。三崎はわかりませんが、今日の負けを踏まえて成長できれば可能性はあるでしょう。少なくとも、四人とも今のレギュラーじゃない二年生よりも力を持っている」


「ふーん。悲しいね、元いる部員が新入生に負けるとは」



 扇寿としても、霞の発言は否定できなかった。


 スポーツ推薦の二人が人並外れてセンスを持っているのは当然として、千雪もこれまで培ってきた運動神経が遺憾無く発揮されている。スポーツというものをこれから学べば、並外れた成長が期待できる。三崎は極めて強い持ち味はないが、目標のためにしっかりと努力ができる点で千雪に似た素質を持っている。今の二年生より先にレギュラー入りしてもおかしくないだろう。


 元いる部員が弱いわけではない。今年の入部者に、磨けば宝石となるような原石が多かったという話である。



「剣城にさ」



 扇寿が近づいてくる体育館を眺めながら話し始める。



「勉強に専念したけりゃ部活を辞めろって言われてさ。やる気のある部員もいっぱいいるんだし、とっとと辞めて枠を譲れって」


「そんなことは」


「あるさ。剣城の言っていることは正しい。正しいんだけど……やっぱ、大会に出なきゃ。剣城には話したくないから話してねぇけど、コートに立たなきゃ意味がないんだ。私にとっては」



 体育館の入り口近くに立つ。入り口近くには扇寿と霞以外に誰もおらず、体育館からは休憩中の部員たちが試合のことを騒がしく話し合っている。


 だから、二人の会話は二人以外に聞こえない。


 そのことを確認して、扇寿は口を開いた。



「私、辞めるよ。もし、レギュラーになれなかったら四月いっぱいでハンターを辞める。勉強に専念する。だから——」



 ——そのときは、剣城をよろしく。



 扇寿が先に体育館に入っていく。霞に一言を言い残して。


 霞としては納得がいかなかった。言いたいことがたくさんあったが、自分の想いを正しく扇寿に届けられる気がしなくて口をつぐんだ。


 菜園部が育てた花の香りが、春風に乗って体育館の入り口を過ぎていく。


 それが扇寿の残り香のように感じられて、霞はやりきれない気持ちを抱いたまま扇寿のあとを追うのであった。


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