第六話
翌週の月曜日の放課後。
ハンターの練習が始まる前に、コートの中では流星、秀、剣城の三人組と、春菜、それに千雪が集まっていた。
千雪が初期能力を身につけたということで、それを知りたがる人たちが千雪に寄ってきたのである。
「へぇ、幻影の能力か。面白いな」
流星が興味津々で見つめてくるので、千雪は緊張した面持ちでいた。
この三人と千雪がまともに会話をすることは初めてで、まだ千雪は三人の性格を掴みきれていないのである。
特に、日に日に機嫌が悪くなっていく剣城に対しては、どんな会話をすれば良いかわからずにいる。
今も剣城は「いいんじゃねぇか」と言葉では褒めてくるのだが、どう見ても人を褒めるような表情ではなく、深く深く眉間のシワを刻み込んでいる。
剣城の不機嫌をよそに、流星は会話を続ける。
「例えば、ボールをいーっぱい増やしたりはできるのか?」
「はい、見たことがあるものならある程度は。実態は作れないんですけど」
そう言って、千雪はあたり一面にボールを投影した。
どこもかしこも白いボールだらけで、ある意味雪景色のようである。
テンションが上がった春菜は雪景色のようなボールの海にダイブしていったが、ボールの実態がないので、ただ鼻の頭を床に激突させるだけであった。
その様子に笑いながらも、千雪は不安を口にした。
「でも、どれもよく見るとちょっと透けてるんですよね。ボールも重なるように見える物もあるし、不完全な感じがします」
「その程度、気にすることねぇよ」
と、剣城が無愛想に呟く。
「初期能力だからって、最初から完璧にできるもんじゃねぇよ。むしろ大概は、成長する余地を残しているもんだ。真面目に練習すればいい。リュウの奴も最初は、二つ目のボールは二秒くらいしか保てなかったよな」
「そうだったなー。こんなのなんの役に立つんだよって思ったけど、毎日ずーっと練習しているうちに、今みたいな『完全に二つのボール』を作れるようになったんだ。誰だって最初は不完全なんだよ。……弥一先輩は知らねーけど」
「話がややこしくなるからその名前は出すな」
流星と剣城のかけあいを聞いて笑っていた秀も、千雪に向き直って「ツルのいう通りだよ」と優しく微笑んだ。
「綾瀬さんはいつも真面目に練習しているから、上達が早いんじゃないかな。幻影も他のものと区別がつかないくらいになるだろうし、もしかしたらV属性に干渉するような武器になるかもしれない」
「V属性?」
「バーチャルシステムのシステム用語だね。せっかくだし、これを機に覚えておくといいんじゃないか」
そう言って、秀は千雪と春菜にバーチャルシステムの説明を始めた。
春菜は「難しい話だ」と言って逃げようとしたが、流星が首根っこを捕まえて秀の元へと持ってきた。
「この空間は、大きく分けて三つの属性で構成されている。E属性、V属性、F属性の三つだね。一番わかりやすいのは、E属性。僕たちの身体は、今ここに実在しているよね。こういう風に、実在している物体はバーチャル空間ではE属性として扱われるんだ。」
E属性のEは、Exist、つまり「存在する、現存する」という意味を持つ。
その名の通り、現にそこにあって触れることができるものはE属性としてシステムで管理されている。
「実在している物体……というと、この試合で使うボールもですか?」
「いい質問だね、綾瀬さん。確かに、ボールもここに存在しているし、触れることもできる。でもこのボールは現実世界にないもので、エレメントというバーチャル空間特有の要素で作られているよね。だからE属性ではなく、バーチャル属性という意味のV属性に当たるわけだ」
「なるほど……そのV属性に当てはまるのはボールだけですか? それとも、エレメントが作り出せる物体ってボール以外にもあるんですか?」
「それもいい質問だけど、話が難しくなってくるので一旦後回しにしようか。とりあえず今は、E属性が本物の物体で、V属性がエレメントで作った仮の物体だということと、あとE属性はV属性に干渉できるということを覚えておいてくれればいいよ」
本物であるE属性がV属性に干渉できるので、E属性である身体はV属性のボールを投げることができる。
そう説明して、秀は生成したボールを遠くへ投げ飛ばした。
V属性のVは、まさしくVirtualのことである。バーチャル空間で生み出される物体であるからこそ、V属性を持っている。ボール以外にも、ボールと同じような性質と属性を持ってエレメントで生み出されるものがあるが、その説明は保留された。
「そして最後に、F属性。これは綾瀬さんが初期能力でやった通り、存在しないしない物のことだね。偽物のボールの映像とかは、すべてF属性として反映されている。エレメントで作るボールって、よく見ると少し光っているよね。あの光も、目に見えているだけで物体のないF属性だよ」
F属性のFは、FictionのFである。完全なる偽物で、物体がない。触れられない。
秀はF属性の話をしながら、ふと、千雪のエレメントのことを思い出した。
初めて新入部員が手袋やエレメントに触れたあの日、千雪の出す光だけは他の人と違って虹色をしていた。
「そういえば綾瀬さんて、手をこうやって前に出して光を集めると、虹色に光るよね」
「ああ、そういえば……」
そう言って、あの人同じように右手を前に出す。
ほのかに光って、綺麗な虹色。初めてこの光を見たときは得体の知れない神秘的な何かが目の前にあるような感覚を持っていたが、今となっては幻影のボールや雪と何の変わりもないことを千雪は知っていた。
千雪は試しにその虹色の光を燃え盛る炎のような色にしてみようと試みてみた。
すると、あまりにも素直に光は真っ赤な炎となり変わって、春菜が「パイロキネシスだ!」と興奮の声をあげた。春菜が炎で暖をとるように手をかざしてみせたが何も暖かくないので、不満そうな表情をしている。
「この虹色は、綾瀬さんが幻影使いであることの兆候だったんだね。幻影系の能力は他の能力に比べて初期能力として気づきにくい傾向にあるって聞いたことがあるから、覚えておこうかな」
それを聞いた流星が「じゃあそれができれば俺にも幻影ができるのか?」と興味を示したが、千雪の真似をしても光と滝汗が溢れるばかりで何も起きない。
こうして流星たちが話し合っている間に続々と人が集まってきていたのだが、ふと、秀は入り口にやってきた人を見つけて剣城に声をかけた。
「ツル。今日は扇寿さん、来ているみたいだね」
秀の言葉に剣城は舌打ちして目をそらしたが、むしろ千雪が強く反応して入り口の方へと視線をやった。
そこには、綺麗に手入れされたロングの茶髪をなびかせ、スタイルの良く美しく鍛えられた身体で……そして、とてつもなく目つきの悪い少女が緑のジャージを担いで館内に入ってきていた。
女神のような女性を想像していた千雪であったが、どう見ても同じ遺伝子を引き継いでいる目つきの悪さを見て、彼女こそが剣城の姉であるということを理解せずにいられなかった。
他の部員はみんな扇寿に「お疲れ様です!」と真面目に頭を下げているが、扇寿本人は「お疲れ」と愛想悪く受け答えをしている。やはりどう見ても、彼女こそが剣城の姉である。
流星が剣城の脇腹を突いて、愉快そうにニヤニヤとしている。
「やっぱ、扇寿さん、模試終わったら来たじゃんかよ。俺は来るって思ってたぜ。むしろ、休んでいる間も走り込みとかがっつりやってたんじゃね?」
「さぁな」
「冷たい奴だなぁ。やっぱ最後の夏だし、ツルと一緒にコートに立ちたいって思ってるだろうぜ」
「俺は興味ない」
流星が剣城をからかい続ける中も、千雪は扇寿から目を離せずにじっと見つめていた。
凛とした表情、落ち着きのある態度。
周りの部員の態度からも、少々恐れられつつも頼れる先輩として支持されていることがわかる。
扇寿がしばらく部活動を休んでいたと言っても、扇寿に対して不満や不平を言うものは剣城以外にいなかった。
扇寿の次に体育館に入ってきた純も、扇寿に「T塾の模試、どうでした?」と気さくに話していて、良い間柄であることがわかる。
再来週にはレギュラー決定戦のメンバーが発表され、その週末にはレギュラー決定戦が実施される。
そのライバルになるかもしれない人物を見つめつつ、自分に新たに身についた武器の可能性を信じて、千雪は拳を握る。
一方、扇寿の方も千雪の視線に気づかないフリをしながら、警戒心を抱くのであった。
---
基礎練の後、レギュラー決定戦を意識した1on1の練習が始まった。
今日からは毎日、実践を意識した基礎練習が行われる。真剣な練習でもあり、レギュラー決定戦に選出されるメンバーを決める大事な時間でもある。
今日まではあまり練習に参加していなかった二重橋も今日からは毎日に練習に参加するという。
二重橋は練習前にメンバーを集めると、「真面目に練習するのは当たり前、その上で今のレギュラーとも対等以上に渡り合えそうなメンバーを選出する」と釘を刺した。
「そうしたら、実際に軽く練習試合をしてみようか。乃木、根津、二人だけコートに入れ」
1on1のルールの説明の後、二重橋に呼ばれた春菜と匠がコートに入っていった。
春菜は右腕、左腕と伸ばしながらコートに入っていく。
匠はいつもの青ハチマキを強く締め直し、春菜に「お手柔らかにな」と声をかけた。その言葉に、春菜は「ご冗談を」とはにかんで返す。
公式の1on1では、お互いに持ち時間は十分となっている。
しかし、レギュラー決定戦では五分ずつを持ち時間とするため、この練習試合も持ち時間を五分で行うという。「ルール説明のための練習試合だから、軽めにな!」と正義が二人に声をかけたが、二人は会釈するだけで、全然聞いていなさそうであった。
ハンターの先攻・後攻はバーチャルシステムに備え付けのランダム機能で決める。今回は、匠が先攻として試合が始まることになった。
先攻は元々の持ち時間に加え、開始時に三十秒のインターバルタイムを持つ。
ボール権を持つ間に持ち時間が減り、持ち時間がゼロになればゲームセットであるが、それだと先攻が不利になるのでインターバルタイムが設けられているのである。
ゲームの開始寸前に、流星は殺気立つ匠を眺めながら笑って呟いた。
「まぁ、だから普通は、インターバルタイムにエレメントの調子を整えたり相手の様子を伺う奴が多いんだけどさ」
そう、インターバルタイムは単に猶予時間として準備に使われることが多い。
しかし、匠はそうではなかった。
開始のブザー音と同時にボールを生成し始めた。
約三秒。
ボールが生成されてすぐ、匠は春菜の方へ突進していき、春菜にめがけてまっすぐボールを叩き込みにいく。
まだ臨戦態勢ではなかった春菜はなんとか得意のジャンプでそれを避けてみせたが、匠もまたすかさずボールを生成し直して春菜を捕らえに向かった。
「やっぱり、匠は猪突猛進でやってくれると思ってたんだよな、俺!」
「確かに、あいつちょっとリュウっぽいところあるもんな」
剣城の茶々に流星が「なんだと」と食いかかるが、剣城は「何か変なこと言ったか」と澄ました顔でいる。
そうしている間にも、匠は春菜との間合いを1m程度にまで詰め、絶対に避けられないであろうその間合いで大きく振りかぶった。
が、しかし。
匠の振りかぶった右腕は石のように固まって、動かなくなってしまったのである。
「……あれ?」
「うん? 私、新たな能力に芽生えちゃった?」
時が止まったように、春菜と匠は見つめあったままそのまま動けずにいたが、すぐに正義が笛を吹いて二人を制した。
「ハンターのルールに、『間合い1.5mではボールを相手に蹴ったり投げつけたりすることはできない』ってのがあるんだ! 二人が近すぎるから、システムで匠の投球行為に制限がかかったんだよ!」
「なんでぃ。じゃあ私がすごいんじゃないんだ」
このルールに限らず、ハンターではファウルに等しい行為のほとんどはシステムで制御がかかっている。
そのため、匠のようにルールを把握しきれていない人がいても、比較的安全にゲームができるという利点を備えている。
匠と春菜が互いに大きく後ろに飛び移って、また先ほどの緊張感が走り始めた。
まだ十五秒しか経っていない。
見ている側も汗をかきそうな状況である。
再び、匠が地を蹴る。逃げ回る春菜に食らいつこうと、また投球体勢に入る。
春菜はそれを避けようとまた8mにもおよぶ大ジャンプを披露した……が、まだ匠の手からボールは離れていない。フェイントだ。
「!」
空中で移動できない春菜を目で捕らえて、匠の手に光が集まる。
今度はボールを投げるための助走も、構えもない。
匠は右手に鷲掴みにしたボールを春菜と延長線上に重なるようにすると、そのままそっとバスケットゴールにシュートするかのように。
それでいて——光のように。
静かにボールを、発射した。
ボールは物理法則を知らないように、全く速度を落とすこともなく、まっすぐ、春菜に突き刺さる。
投げた、というよりは、銃撃のようだ。
なんとかボールをキャッチした春菜は、脇腹を撃たれたかのような衝撃に身体を歪めながら着地した。
春菜がボールをキャッチすると同時に、ボール権は春菜側に移ってカウントダウンを始めていた。
匠のインターバルタイムはまだ残っていたが、インターバルタイム中にボール権が変わるとインターバルタイムは残り何秒あろうと消失する。匠のインターバルタイムはゼロになって、元々の持ち時間だけが残る形となった。
「あれは、匠の初期能力だったよね」
秀が興味を示す。隣にいた純も、何度も瞬きしながら秀の発言に続いた。
「前に見たときは、もっと勢いをつけて投げていたと思うんだけどね」
「そうだね。彼のあの直球は、勢いをつけなくても投げられるような能力かもしれない」
「もしかすると、そのうち指先で触れただけでもあんなボールが打てるようになるんじゃない?」
と、冗談で言って純は笑っていたが、それに「まさかな」と答えた流星の目は一つも笑っていなかった。
一方、春菜の方も口の端を引きつらせて、生成したボールをぐりぐりといじりながら唸るように呟いた。
「ちょっとやってくれたねぇ、匠。いきなり飛ばしすぎなんじゃないの?」
「何を言ってんだ。体力お化けの春菜相手に、のんびり戦う奴がいるかよ。このまま五分逃げ切って、最速で終わらせてやるよ」
「言うねぇ、言うねぇ言うねぇ!! おいおいおい!!」
春菜が、笑っているのか怒っているのかよくわからない剣幕で匠に食らいつく。
春菜は走っているのだろうか。持ち前の跳躍力を活かして滑空しているかのような動きで、人間ではなく獲物を追いかける肉食獣の走りに見える。
低い姿勢で滑空するように移動し、着地するのではなく、受け身をとって地を転がりながら何度も何度も匠へボールを投げつけた。
コートの端から端まで移動できるとはいえ、有限の空間で逃げ続けるのは難しい。
匠は必死で逃げるが、何度もコートの角に追い詰められる。ボールを間一髪で避けては広い方向へと逃げ出そうとするが、春菜もボールもそれを我武者羅に追いかけてくる。
(ちょっとこれはラチがあかないな!)
コートの端を背に、匠は春菜へ向き直った。春菜は文字通り牙をむき出しにして、ふーっ、と唸って匠と対峙している。
春菜はボールを鷲掴みにできないのでボールを抱えるようにして持っているのだが、その姿はラグビー選手のようである。ラグビー選手に比べればふた回りも小さい身体をしているが、その小ささを感じさせないほどの威厳を持っている。
左手を床につき、低い姿勢のまま匠の様子を伺っている。春菜にボール権が渡ってから、すでに時は一分経過している。
動き出さない匠にしびれを切らして、春菜は再び突進してきた。
至近距離ではボールを投げられないという制約があるので距離を詰めすぎることはできないが、2mにも詰め寄れば十分。
「もうお疲れですか?!」
匠に挑発の言葉を投げかけて、春菜は全力で匠の胸元へボールを投げた。
それでも匠は動かない。春菜は今こそが攻守交代のときと確信した。
しかし。
「近くで投げすぎると逆に危険ってのは、ドッジボールの常識だろ。知らないのか?」
匠がボールを両手で挟むように掴んだ、ほとんど同時。
匠の手から、再び発射するように高速でボールが飛び出していった。匠の手元にボールがあった時間はほとんどゼロに等しく、ボールはまた春菜の方へ急速に吸い寄せられていったのである。
「ちょ、うそ!」
ボールは春菜の右腕に直撃した。
まるで持ち主の元に戻るヨーヨーのように、投げられた右手にそのまま跳ね返った。
匠はボールをキャッチしてすぐ、ボールが飛んで来た方向そのままに、先ほどと同じ初期能力でボールを跳ね返したのである。
春菜はとっさに避けようと後ろに跳んだが間に合わず、床の上を受け身を取りながら転がることになった。
タイマーを見ると、匠の持ち時間は4:59と表示されている。
それはもう、匠が一度もボール権を得ていないのと同じようなものだ。
それを見ていた弥一は大きく拍手をして、正義は「手本のような切り返しじゃないか」と賛辞を口にした。
「このままだと、根津君のワンサイドゲームになりそうね」
純の呟きに、誰も返事をしない。返事をできない。
匠が一年生の中で一番強いのではないか、という説は入部当初からあった話ではあったが、だからと言ってここまで突出していることは誰も考えていなかった。
春菜も弱いわけではない、むしろ凄まじい体のバネとアクロバティックに動き続ける姿は、どう見てもハンター歴約一週間にも満たない初心者のものではない。
ずっと肩に力が入ったままになっていた流星は一度深呼吸をすると、「スポーツ推薦ってのも楽じゃないんだぜ」と話し始めた。
「他のスポーツ推薦……バスケとかテニスとかだと、すでに中学生のときに実績を作っているから、自分の実力が分かっている状態で高校に入ることができるだろ。でもハンターは高校で初めてやる競技だから、自分がハンターで実力を発揮できるかどうかって入学してみないとわからないんだよな。だから、ハンター部に入る前提としてスポーツ推薦で入学するのは緊張するもんだよ」
流星の言葉を聞いて、千雪は改めて二人の姿を見た。
二人とも真剣な顔で、しかし、特に春菜の方は白い歯を見せて笑っている。
花山学園のスポーツ推薦は、どの部活に入部するかを前もって決めた上で行われる。
匠と春菜はハンターで活躍することを期待された生徒として推薦で入学してきた。しかし、入部試験はスポーツ推薦だろうと一般入学だろうと平等に行われる。スポーツ推薦の人物が入部試験に落ちた際にどうなるかはわからないが、二人のプレッシャーは相当なものだっただろう。
そのプレッシャーを感じさせないほどの堂々たる姿と、いつも真剣に練習に取り組む二人の姿を思い出して、千雪は拳を握りしめた。
「まだまだ、勝った気でいないよね、匠」
「いるわけないだろ。油断なんてしない」
先ほどの切り返しで隙を突き、匠は先ほどとは反対側、広い方の空間へと逃げてきていた。
匠の青ハチマキが汗を吸っている。
匠が息を整える隙も許さず、また春菜が突進してくる。しかし先ほどの一撃で近付くことの危険性を知った春菜は、先ほどよりも理性的とも言えるような動きをしていた。
近づくのなら、匠が両手でキャッチできないようなボールを投げなければならない。近づかないことも手だが、ハンドボールの実力者である匠にドッジボールのセンスで敵うわけがないことを春菜は知っていた。
春菜は、普段はあまり使おうとしない頭をフルに働かせて考えた。
(たしか、両手でキャッチするとボールが消滅しないんだったよね。片手で掴むだけじゃダメで、両手で掴んだときだけ。片手でキャッチさせるようにする? いや、匠がそんな下手なことをするとは思えないよ。両手でも片手でもキャッチできない方法を考えなきゃ。至近距離で投げるのがいいんだけど、あまり至近距離で投げられないし……)
ふ、と。
何かがひらめいて、春菜は左手を高く上に挙げた。
「質問です監督!」
「なに? 時間は止めないよ」
「至近距離でボールを投げちゃいけないんですよね?」
「1.5m以内は投げてはいけないね」
「投げなかったらいいんですか?」
コートの外で見ている部員の多くと匠は春菜の質問の意図に気づけなかったが、監督は冷静に質問に答えた。
「投げなかったらいいよ。蹴ったりヘディングしたりするのもダメだけどね。ようするに、勢いのあるボールを当てるのは危ないからダメって話だ。あと。野球みたいに手に持ったボールを直接当てるのもダメだよ。ルール的にやってもいいけど、それをやってもボール権が変わらないから意味ないって話ね」
「ウィッス!」
春菜が何かを決意したような表情で、再び低く構える。
匠には春菜の真意がわからなかったが、匠も先ほどと同じように臨戦態勢に入った。
(……ボウリングみたいに転がすつもりじゃないだろうな?)
春菜ならやりかねない、などと考えていると、春菜は本当にボールを低く持ったまま突進してきた。
本当に転がしかねない。
今にも春菜の手から離れそうな危なっかしさで、ボールが春菜に掴まっているようにも見える。
(マジでやんのかよ! あんなのに当たったら恥ずかしいじゃんかよ!)
匠は頰を流れる汗を感じながら、両足を大きめに開き、いつでもどの方向にも飛び跳ねられる体勢で春菜を見据えた。
靴と床の擦れる音がキュっと鳴る。
春菜はまだ低い姿勢のまま突進してきて、そのまま匠を撥ねかねない勢いである。
そして、2mの距離。
春菜がまた一段と低く構えたので、匠はまたさらに警戒心を高めたが。
消えた。
一瞬の隙に春菜もボールも目の前からいなくなった。
(どこだ? 右でもない、左でもない、春菜が行ける所と言ったら、あと——)
匠が春菜の居場所に気づいた頃には、もう遅い。
春菜は、匠の頭上にいた。
匠の頭上に向かって前宙——ジャンプしながら前転する、体操のマット運動の一つ——を決めた春菜は、匠の頭のすぐ上で、手からボールを零すようにして匠の頭にボールを降ろしたのである。
当然、キャッチできない。
匠が気づいた頃にはもうボール権は移り変わっていて、匠が唖然とする中、匠の持ち時間が刻々と減り始めていた。
その様子に流星が口笛を吹いて賞賛する。
「まぁ確かに、自然落下するボールは投げたわけでも蹴ったわけでもないから、ルール違反じゃないわな。普通人間の頭上で前宙なんてできねぇけど」
「春菜ちゃんの能力、逃げる上で便利な能力に見えていたけれど、結構攻めの一手としても輝くようだね」
純も称賛する。千雪はそれに「そうですね」と答え、喉の渇きを潤すために水を口にした。ごくん、と水が喉の奥に落ちていくと、自分の中で生まれそうになっていた不安も一緒に腹の中に落ちていったような感覚に陥った。
「しかし、乃木も反撃の一手を持っているなら、体力自慢の乃木の方が有利なんじゃねぇのか」
剣城の言葉に、純も「そうかもね」と答えた。
匠が当初宣告していた、五分での試合終了は不可能になった。
匠はすでに息を切らし始めていて、青ハチマキも汗を吸いきれておらず、目に落ちてくる汗を手の甲で拭っている。
春菜の持ち時間は残り三分ほど。
匠はしばらく動かず、自分の体力の回復に時間を使った。
疲労困憊で走り続けるより、調子を戻してから確実に捕らえた方が早いという判断である。
(大丈夫だ、大丈夫)
匠は心の中で自分を奮い立たせる。
匠は知っている、勝機は圧倒的に自分にある。
春菜は確かに底なしの体力を持っており、運動神経もセンスも人並外れて良い。さらに運動神経が増強されるこの空間で、春菜の飛び回りっぷりはもはや人間の動きではない。
しかし、春菜は球技慣れしていない。
ハンターがあくまで球技である以上、中学でハンドボールをやっていた匠の方が、圧倒的に有利である。
そのことを匠は実感しているからこそ、冷静に体力を回復できる。
息が整ってきて、匠は臨戦体勢に戻った。体力回復に使った時間は三十秒。たった五分しかない持ち時間の中で、それは命取りとも言える時間であるが。
「春菜!」
「なに? 匠!」
「俺は親切だから、春菜の弱点教えてやるよ!」
そう言って、匠は再び春菜の方へと突っ込んでいく。
春菜はその場で少し跳ねながら「そんなのないよーだ!」と舌を出してみせた。
ある程度近づいて、匠が左足を思いっきり踏み込む。
右手のボールは、めり込みそうな勢いで握りしめられている。
匠が思いっきり投げようとして、春菜はまた大きく跳ねて避けようとした……が。
どこかで見た風景だ。
実に最近。
つい、数分前に見た光景。
「春菜お前、フェイントに弱すぎ!!」
匠に握りしめられたボールは思ったタイミングで手から外れず、また、上空で避けることができない春菜に確実に一撃を放たれるのであった。
春菜が極端にフェイントに弱いわけではなかったのだが、球技慣れしている匠が、あまりにも上手くフェイントを仕掛けられたのである。
「……乃木の奴、学習しねぇのな」
剣城のため息に、秀が「これから成長していくんでしょ」と言葉を返した。
---
結局、春菜が何度か匠にボール権を返すことはあっても、匠のフェイントに弱い春菜はいつも確実に捕らえられた。
練習試合は匠が二分弱を残した状態で幕を閉じたのであった。
「悔しー! 匠の意地悪!」
「意地悪じゃない。レギュラー決定戦までに、読み合いとか相手の動きを見て判断するような力身につけておくんだぞ。俺が言わなかったら、気づかなかっただろ」
「そうだね! ありがとう、匠! 意地悪!」
「どっちだよ」
二人がコートから外へやってくる。
待ち構えていた部員たちは、皆口々に匠と春菜へ「いい試合だったぞ!」と声をかけた。
非レギュラー部員の声かけは、もはや「もうこの二人がレギュラーで決まりだな!」と諦めがついたように明るい声になっている。
その中で、また水を飲む千雪と、かなり離れたところで試合を観戦していた扇寿だけは、未だ緊張した面持ちをしていた。
そんな部員たちの様子を眺めつつ、二重橋はタブレットに何かを書き込みながら、声をかけるのであった。
「よし、もう一試合やるぞー。綾瀬! 今度は綾瀬が入れ!」
突然の呼び出しに、千雪の心臓が跳ねる。
急に身体が酷く固くなったような錯覚に陥って、返事の声が思ったように出ない。
純に「いってらっしゃい!」と元気づけてもらうも、千雪の耳には届かず、ただ震えそうになる足を奮い立たせながらどうにか前に歩くのであった。
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