第五話

「今日どこにいたんだよ」



 棘のある言葉が刺しにいく。


 言葉の主は剣城である。自宅に着いてすぐ、剣城は冷蔵庫に入れられていた晩御飯を電子レンジで温めながら、リビングに向かって声を投げた。


 声の先にいるのは一人の少女。剣城と同じ茶色の髪を腰まで伸ばし、また剣城と同じマラカイトの瞳を持つ少女である。


 外はもう日が沈みきっていて、静かな時間が少女の返答を待つ。


 剣城の問いかけに最初は舌打ちだけで答えた少女であったが、すると剣城がもう一度同じことを聞くので、「うるせぇな」と凄みを聞かせて答えた。



「お前に関係あるかよ、剣城。どこにいようが、私の勝手だろ」


「勝手なわけあるか。同じ部活の奴が何日も休んでいたら、聞く権利くらいあるだろうがよ、扇寿せんじゅ!」



 剣城は冷蔵庫から取り出した烏龍茶を取り出したまま、鳴り響く電子レンジに目もくれず、ただ、自身の姉である扇寿の方を見つめていた。


 同じ部活の奴、という言葉が全く似つかわしくないような、敵を見る目で扇寿を捉えている。


 扇寿の方は、開いていた英語の参考書と英単語の本を苛立たしげに閉めて、場所を変えようと筆箱に筆記具を片付け始めた。



「どこって、学校とか家にいたよ。今週末、志望校を決める上で大事な全国模試がある。東京の大学を目指すには、この模試でいい成績を残す必要があるんだよ。だから今週末まで休む。このことは監督に話しているし、了承してもらってる」


「だからって何週間も休むことかよ」


「一生に関わる大事な模試だっつってんだろ。部活ごときに棒に振ってたまるか。運動だけで高校に入ったお前のような奴とは違うんだよ」


「テメェ喧嘩売ってんのか?!」



 扇寿はずっと剣城の方を向かずに話していたが、最後の台詞には熱くなって剣城の方を睨み返した。


 いつ殴り合いを始めてもおかしくないほどの険悪な状態で、剣城も扇寿も、手にしている物に必要以上の力が入ってしまっている。


 朝の早い両親はすでに寝静まっていて、誰も二人を止める者はいない。


 先に冷静になったのは扇寿で自室に戻ろうとしたが、その態度がまた腹立たしく、剣城は言葉を続けた。



「じゃあ辞めろよ、部活」


「は?」


「扇寿は勉強したくて花山に入ったんだもんな。立派な志じゃねぇか。だったらハンターなんてとっとと退部して勉強に専念すればいいんだよ」



 扇寿が反論しようとしたが、剣城が鬼の形相と剣幕で続けた。



「扇寿は知らないだろうがな、今年は入部希望者が多かったんだよ。定員オーバーになるくらいにな。クソみたいな入部動機の奴もいるだろうけど、扇寿みたいに所属しているだけで来もしねぇ奴よりは数倍マシだよな。扇寿が貴重な入部枠を埋めてんだよ。監督が、俺たちは全国優勝を目指してるって話してたぜ。ビビってる奴はいただろうけど、それで逃げる奴はいなかった。そうしたら、お前は何のためにハンター部にいるんだよ、扇寿!!」



 剣城の怒号に、扇寿は「母さんと父さんが寝てんだからでかい声出すな」と制した。


 態度も言葉遣いも気に障るものではあったが、剣城の言っていることの正しさは理解できて、扇寿は口をつぐんだ。


 辞めるのも一種の選択肢であることも扇寿は深く理解していたが、剣城に返すまともな言葉は見つからず、「人が部活動に入る理由なんて勝手だろ」とだけ小さく呟いた。剣城の怒りは全くもって収まらなかったが、この言い合いが何も生まないことだけを悟って、剣城は晩御飯の準備を再開した。



「今日、監督が言ってた。レギュラー決定戦やるって」


「そう」


「昨年全国にいったメンバー七人はレギュラー据え置きで、残りの三枠を監督が決めた五人くらいで総当たり戦をやるらしい」


「……」


「まず監督に選ばれないと始まらない。それに、今年の一年にはスポーツ推薦で入っていた奴が二人いる。……真面目に練習しねぇと試合に出れねぇぞ」


 剣城が「これが最後の夏だ」と呟こうとしたが、その言葉は乾いた口の中で飲み込まれていった。


 しかし扇寿には剣城の飲み込んだ言葉が聞こえたような気がして、「そうだな」とだけ呟いてリビングを後にした。


 電子レンジの中ではラップに包まれた市販の唐揚げが、湯気を外に放り出すことができずに、じゅう、と不満げな声をあげている。


 一人分しかない白米を炊飯器から器に盛って、剣城は炊飯器の保温スイッチを切った。ぴーっ、と無駄に大きく鳴り響く炊飯器の音を聞きながら、剣城はやるせなさを覚えて、ただ一人食事を始めるのであった。



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 翌朝。


 今日は金曜日で、多くの生徒の疲労感は限界に達している。


 春がもたらすやる気のマジックもそろそろ下降気味で、もう半月もすれば「五月病」が人々を襲うだろう。


 その中でも、ハンター部が集う体育館だけはやる気と熱気を帯びていた。


 今日も靴が床を弾く音と、バスケットボールのようにボールが弾む音が外にも聞こえてくる。


 二十名以上の生徒が集まって、雑談もしながら自由に練習を行なっている。


 今日からしばらく、朝の練習は新入部員が初期能力を見つけるための時間として設けられていて、上級生の多くは外にランニングに出かけているのである。


 とはいえ、新入部員が初期能力を見つける瞬間を見届けたいと思う野次馬根性を持つ者や、新入部員の困りごとに対応してあげたいと思う奉仕の心を持つ者もいて、上級生も何名か見られていた。



「やっぱ、扇寿先輩は今年こそレギュラー入りするんじゃね?」



 千雪が練習している側で、二年生の男子生徒二人がキャッチボールをしながら雑談をしていた。


 ハンター部はなぜか三年生の部員が極めて少なく、千雪はまだ正義と弥一しか三年生を知らなかった。


 実際、ハンター部の部員はあと扇寿を含めて三人しかいない。二年生が今年入った二人を含めて十八人、残りは一年生という若者中心の部員構成となっている。


 まだ扇寿の姿を一度も見たことがない千雪は、二年生が「先輩」と呼ぶその人物のことが気になって、練習をしながら耳を傾けた。



「でも扇寿先輩、三月末から来てなくね? 図書室でずっと勉強してるっていうし、部活じゃなくて勉強の方に専念するんじゃねぇの」


「と言ってもさ、ずっと文武両道って人だったじゃん。実際、まだ退部していない数少ない三年生だし。最後の夏の大会出場は狙ってると思うんだけどなぁ」


「ま、今年のレギュラー決定戦に扇寿先輩いるなら、さすがにレギュラー入りしそうだよな」



 まだ見たことがない、しかしレギュラー入りが期待できるという人物の存在に千雪は胸がざわついた。


 すでに匠や、同じくスポーツ推薦で入部している春菜がいる上に「扇寿先輩」という強力なレギュラー候補がいるのであれば、これでレギュラー枠が埋まってしまう。


 レギュラーになりたいのなら、少なくともこの中の誰かに勝つ必要がある。


 とはいえ、その「扇寿先輩」とやらが勉強を優先するのであればライバルは減るのでは……という嫌な考えを追い払おうと、千雪は目一杯頭を横に振った。



「調子はどう? 千雪ちゃん!」



 この人は、いつも背後から話しかけてくる。


 突然の、純の声に千雪は「頑張ります!」というややずれた回答をして、すぐに「ああいえ、おはようございます!」と言葉を訂正した。


 純は今コートに入ってきたばかりのようで、指先から足先までストレッチをしている。


 純が「おはよう、今日もいい天気だね」と明るい声で返してく、千雪は心が少し穏やかになっていくのを感じた。



「純先輩」



 と、千雪が声をかけるのを聞いて、純はこれ見よがしににんまりと「なーにー??」と返した。


 千雪がずっと「上坂先輩」と呼んでくるので、昨日の放課後、純が「純って呼ばないと髪くしゃくしゃーってするからね!」と脅したのである。


 純の行動には千雪と春菜が気さくに呼び合うことに対しての嫉妬も含まれていたのだが、そのことを千雪は知らない。



「センジュ……って先輩が、ハンター部にはいるんですか? さっきそう聞こえたんですけど、記憶になくて」


「ああ、扇寿先輩ね。最近休んでるけど、いるよ。明治君のお姉さん」


「あ、お、お姉さん?」



 扇寿が苗字ではなく女性の名前であることも、剣城に姉がいたことも、そしてその人が部内にいたことも、少しずつの驚きが重なって、千雪は変な声を出した。


 千雪と剣城はまだ直接話したこともない間柄ではあったが、剣城が姉の話をしていたのは遠巻きにも聞いたことがなかったのである。



「どんな人ですか?」


「良い人だよー。かっこいいし、優しいし、明治君のことずっと気にしてるしー。文系クラスの人だけど、数学も理科もめっちゃできるから私なんども勉強教えてもらっちゃった。歌もめっちゃうまくて、女神みたい。運動神経もめっちゃ良いから、今年は最有力のレギュラー候補のなんだよねー」



 憧れのアイドルを話すように語る純の話を聞いて、千雪は聖母のような人を想像した。


 包容力のある人。


 それでいて格好良い人。


 反抗期を今も続けているような剣城のことを、優しく見守っているのだろう。


 思わず「千雪ちゃん」と自分を優しく呼ぶ声を想像して、顔を熱くする。会ってみたい、という気持ちを抱きながら、純に「良い人なんですねぇ」と返した。



「千雪ちゃんからしたら、レギュラー枠を競うライバルだよね」



「えっ、ああ、その」


「隠さなくていいよー。今レギュラーである私たちだって、緊張してるんだよ? 扇寿先輩は去年のレギュラー決定戦で十一位、つまりレギュラーになっていてもおかしくなかった人だから。試合に出られなくてもレギュラー以上の自主練をしてきてる人だし、今のレギュラーが扇寿先輩と交代になる可能性だってあるじゃん。負けてられないんだよ!」


「なるほど……」



 自分には勝てる隙がないのかもしれない。


 襲いかかる不安から逃げるように、千雪は別に解けているわけではない靴紐を結び直そうとその場にしゃがみこんだ。「練習するしかないですね」と呟くと、純も「やるっきゃないよね!」と返す。その明るさが、千雪にとって心地の良いものに感じられた。


 そこへ。



「おお、すげえなおい!!」



 少年複数人がはしゃぐような声が聞こえて、千雪は声の方へと視線をやった。


 いつもの白いボールが、なぜか空中で浮いた状態で止まっている。


 五秒くらい経ったところで、ボールは横向きに飛んでいき、普通のボールのように地面にバウンドしながら転がっていった。


 はしゃいでいる少年たちが全員赤いジャージを着ていることから、一年生であることがわかる。



「純先輩、あれって……」


「初期能力だろうね、見つかるの早いなぁ」



 少年たちの輪の中に、一人の二年生が近づいていく。


 一年生の報告を二年生が笑顔で相槌し、良かったな、と声をかけている。


 その二年生が「これは西須鷺にしすさぎ大塚おおつかさんと同じ能力なんじゃね?」と呟くのを耳にして、千雪は純に問いかけた。



「ニシスサギのオオツカさん、というのは?」


「東京都内に西須鷺っていう私立高校があってね。大塚さんは、そこのハンター部のキャプテンだよ。去年は花山が東京大会に優勝したんだけど、決勝で当たったのが西須鷺だったよ。昔っからの強豪校で、きっと今年も当たるだろうね」



 強豪校のキャプテンと同じ初期能力、というものに千雪は一種の憧れを抱いた。


 実際、その初期能力を持っている一年生も得意げな表情をしていて、千雪は自分の中で嫉妬のような燻る想いが芽生えていることに気づいた。


 ライバルがまた一人と増える。「初期能力を手に入れたからといって、活用方法がわからないうちは持っていないのと同じだ」と自分に言い聞かせて、千雪は純に頭を下げた。



「純先輩、キャッチボール付き合ってください」


「もっちろん!」



 今は基礎練習を重ねて、実践で勝てるような強さを身につけるべきだ。一挙手一投足に神経を集中させて、千雪は練習を再開した。



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 しかし、不安はさらに千雪に襲いかかる。


 授業が終わって、放課後。


 今日もまたハンター部は昨日と同じく過酷な基礎練を経て、初期能力を見つけるための練習を始めていた。


 筋肉痛を訴えるものも多く、昨日よりも早く脱落者が出そうな状況であったが、「とにかく早く初期能力を身に付けたい」という気持ちが部員たちを立ち上がらせていた。


 さらに、キャプテンから「来週月曜からはルールを覚えてもらうために、実際の試合と同じような形式の練習も取り入れていく」というので、一年生は余計に奮起しているのである。


 体力とやる気、どちらが先に尽きるのかという勝負になっていた。


 そんな中、多くの人が目を奪われる出来事が発生した。



「見て見てー! これ、超楽しいよー!!」



 コートの真ん中で、春菜が大きな跳躍を続けていた。


 床にトランポリンでも設置されているのか、と目を疑いたくなるほどの跳躍である。


 それを見ていた人が「これで天井に物が引っかかっても安心だな」と冗談を言ったが、それがあまり冗談になっていないような気がするほど、春菜はぐんぐんと高く飛び跳ねるのである。


 特に近くで見ていた千雪は不安になって「着地するとき痛くないの?」と聞いたが、春菜はまた上空で「まったくー!」と答えた。


 普通なら足の骨にヒビが入ってもおかしくないような高さだが、春菜の足に負担をかけることはなかった。


 春菜の初期能力は、跳躍だったのである。


 ほとんどの部員は春菜に目を奪われていたが、黙々と練習を続ける部員の姿を春菜が捉えた。


 匠である。


 特に興味がなさそうな匠の態度に春菜は怒って、春菜は空中で後転しながら匠に声をかけた。



「ねえ匠ー! 見てよ匠ー! すごいでしょ匠ー! 悔しかったら当ててごらんよ匠ー!」



 春菜が匠、匠と連呼するので、今度は匠に視線が集まった。


 静かに練習を続けたい匠は春菜のことを無視していたが、次第に自分の耳が赤く熱くなっていくのを感じて、匠は春菜の方を思いっきり睨みつけた。あまり睨み慣れていないような、凄みのない表情である。


 匠が春菜の方を向いたのを見て、春菜は嬉しそうに楽しそうに笑ってみせた。


 が、しかし。


 次の瞬間、春菜の鳩尾を一つのボールが直撃したのである。



「ぶげしっ!!」


「春菜!」



 春菜は妙な声を発しながら地面に落下し、そのまま地面に突っ伏した。完全に動かない。魂が抜けたようである。



「春菜! 大丈夫?!」


「私ぁもうダメだよちゆちゃん……。ああ、天使がいる……」


「しっかりして、春菜!」


「いや、バーチャル空間は身体に負担を与えるほどの強い衝撃が発生しないようになっているから、そこまで痛いはずはないよ」



 そう言うと、純は「演技だよねぇ春菜ちゃん」と春菜を踏みつける真似をしたが、すると春菜は思いっきり右へとごろごろ転がって、鮮やかな動作で立ち上がってみせた。


 春菜は「いいじゃないですか別に」と唇を尖らせた後、自分に何が起きていたのかを思い出して、今度は匠の方へと突進していった。



「ねえ今の匠がやったよね?! なに匠、あんなにボール速かったっけ? あんなにエイム力高かったっけ?」



 エイム力とはeスポーツなどで使われる「狙いをつける力」のことだが、それを知らない匠は「エイム力って何だよ」と困惑の声をあげた。


 春菜が匠の胸ぐらを掴んでいるので、はたから見たら完全にカツアゲや喧嘩の様相である。誰一人として止めようとしないが。


 春菜が何度も匠を前後に揺さぶるので、匠は自分の首が限界を迎える前に「俺がやったよ」と観念の声をあげた。



「多分、俺の初期能力。本当は昨日からできてたんだ。普通、ボールは投げると放物線を描いてスピードも変化するけど、俺が能力を使って投げたボールは、等速直線運動で飛んでいくみたいなんだ。それもめっちゃ速く。だから、空中にいる春菜のことを確実に当てられたわけだ」


「等速直線運動ってどんな能力よ」


「それは中学で習っただろ」



 匠の言う通り、匠が放ったボールはまったくスピードを落とすことなく、そして軌道が曲がることなく、春菜の元へ飛んでいたのである。


 春菜に確実に当てたのは匠自身の技術であり誰もができる芸当ではなかったが、匠にとっては簡単なことであった。


 二人のやり取りを遠くから眺めていた千雪は、また、ライバルたちがさらに先へ行ってしまうような不安を覚えていた。


 それに、初期能力を身につけている新入部員は春菜や匠だけではない。他にも何人か初期能力を身につけていて、正義と練習の相談をしている者もいる。


 レギュラーになるために超えなければならない壁が一人、また一人と増えてきて。



(もう、レギュラーどころじゃないんじゃ……)



 埋まらない溝ばかりを数えて、千雪は大きなため息をつくのであった。



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 翌日。


 土日も体育館は朝から夜まで解放されており、主に新入部員が初期能力を見つけるために体育館を使っていいと言う。


 しかし、千雪には昼まで撮影の仕事があるので、練習に参加できるのは十五時からであった。「今日も練習に来る?」との純のメッセージに「十五時くらいから」と返事をし、千雪はスマホの画面を切った。


 東京都内の撮影所。ここは都内でも大きな撮影所で、様々なシチュエーションに適応するための道具がある。プロの撮影がないときは、一般のコスプレイヤーに貸し出しが行われている。


 千雪は控え室で化粧係のスタッフが来るのを待ちつつ、落ち着きのない様子で、意味もなく身体をストレッチしたりしていた。


 同じ部屋には事務所が千雪につけさせた女性マネージャーも一緒にいて、「今日は元気そうね千雪ちゃん」と声をかけてくれる。


 千雪は付き合いの長いマネージャーのことを信頼していて、「いや、元気ってわけじゃないんですよ」と本音で受け答えをしていた。



「そういえば美鈴みすずさん、お願いがあるんですけど」


「なーにー? 千雪ちゃんがお願いだなんて、珍しいねぇ」


「膝にちょっとだけ痣ができているみたいなんです。化粧で隠してもらいたいんですけど、大丈夫でしょうか」


「大丈夫よ。そんな小指の爪みたいな小さい痣ならすぐに隠せるわ。……でもどうしたの? 痣なんて」


「ちょっと、学校の運動部に入ったので」



 千雪の何気ない言葉を聞いて、マネージャー、美鈴は手にしていたポケットティッシュを落とした。


 アイラインとカラーコンタクトでバッチリ大きくした目を何度もパチクリさせて、目の前に宇宙人が現れたかのような表情で千雪の方を凝視している。


 千雪が「やっぱり、運動部はまずかったですか?」と聞くと、美鈴は肩を掴んだ。



「まずいことなんてないわ! 光栄よ! 千雪ちゃんが学校の運動部に自主的に入るなんて……私、感激で泣きそう!」



 想像よりずっと喜ぶので、千雪は困惑した表情で「そんなにですか」と呟いた。


 千雪が中学生の頃から千雪を知る美鈴としては、千雪が成績のためになることと金になることしかしないことに不安を覚えていたのである。


 真面目に勉強や授業にだけ取り組んで、そのくせ学校の部活動の練習風景を見つけると歩速を緩めてしまう千雪が、自ら運動部に入ったという事実はあまりにも嬉しいものであった。



「運動部に入るなら、スケジュールを調整しないとね。運動部って、何部なの? バレーボール部とか?」


「いえ、ハンター部に。美鈴さんはハンターを知っていますか?」


「知っているわよ。vスポーツよね。今日撮影する画を使う映画の主演男優の子も、ハンターをやっていたはずよ」



 思わぬところでハンターをやっている人の存在を知って、千雪は興味の眼差しを向けた。「今日は来てないけどね」と美鈴が言うと千雪の眉の先がくっと下を向いて、なぜか美鈴の方が申し訳なくなってしまった。


 千雪自身は演技をしないが、今日のように、映画の中で使うポスターのモデルになるということは稀にあることであった。


 しかし、学業を両立している千雪の撮影は土日になることが多く、千雪が他の俳優に会う機会はほとんどない。


 千雪が俳優に会いたがるということはほとんどないが、今日ばかりは「会ってみたい」という気持ちがわいたのである。



「でも、大会とかで会えるんじゃない? 主演男優の子も、男子高校生のはずだし」


「あ……そうか、高校生なんですね。大人っぽい顔立ちしているから、成人かと思ってました。名前は確か……」


双優そうゆうくんよ。二宮にのみや 双優くん。出会ったらサインもらって欲しいなぁ」


「覚えていたら、ですよ」



 話しているうちに化粧担当の人が到着したので、名前くらいは覚えておこう、と心に決めた千雪であった。



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 撮影するイメージは、雪上のアイドル。


 映画の内容はありきたりなものであった。ネットで話題の都会アイドルに憧れ、男子高校生である主人公は東京の大学への入学を目指す。受験勉強に勤しむ彼と、パティシエを目指す女子高生との恋愛物語を描く。


 あまり面白くなさそうな内容ではあるが、『ネットで話題の都会アイドル』というちょい役のために千雪を抜擢し、主演男優には大人気の男子高校生俳優を抜擢し、恋愛相手の女優も人気沸騰中の中学生アイドルを抜擢している。


 しかも、公開時期は今年末のクリスマスの時期である。全力で媚びている。


 千雪としては映画の内容が面白くてもそうでなくても、とりあえず金を稼げて、ついでに宣伝にもなるならなんでも良かった。


 撮影日を土日に調整してくれる現場はそう多くないので、ありがたい話である。



「そうしたら千雪ちゃん、入ってもらえるかな?」



 白いミニスカートに、青のレースが身体の線を魅せるように靡いていく。


 透明感のある青のヒールを履いて歩くと、千雪の白い肌とそれをもったいぶって隠す上品な生地が重なって、まるで衣装と千雪が融け合って一つの生命になっているかのようであった。


 雪の精霊がいるのなら、このような容姿をしているのだろう。


 艶のあるショートの黒髪と、照明を浴びて輝く瞳が見る者の心を掴んで離さない。


 撮影ステージは、積もる雪の上。奥には本物の噴水もあって、暗い天井と青白い照明が撮影ステージを幻想的に映し出している。


 雪自体は偽物だが、ここにさらに本物の雪を降らせてステージを彩る。


 まるで大きな公園でアイドルのライブが始まるような、自然と歌声が聞こえてきそうな風景である。



「今日はね千雪ちゃん、あまり映画のこととか考えなくていいよ!」



 恰幅の良い映画監督の言葉に、千雪は「そうなのですか?」と聞き返した。



「この映画に出てくるアイドルは、まるで千雪ちゃんそのものだ。モデルのように美しく、ステージ慣れしていて、凛としている。だから、千雪ちゃんらしくいてくれたらいいよ!」


「わかりました。ありがとうございます」



 撮影現場であれば、「千雪ちゃんらしく」という言葉は聞きなれている。


 千雪はその言葉の真意を知っているため、戸惑ったり緊張することはなかった。「千雪ちゃんらしく」とは、自分のありのままを見せろと言う意味ではなく、「モデルの千雪ちゃんらしく」という意味である。


 だから千雪は要望通り、儚い笑顔、目を惹く仕草、まるでそこにいるかのような立ち回りで、要望通りの画を撮らせてみせる。慣れたものである。



(最高に可愛い私。美しい私。理想の私。誰もが憧れる私に)



 カメラの向こうに、うっとりして千雪を眺めている美鈴の姿が見える。


 言葉数が少なくなったカメラマンが、夢中でシャッターを切っている。


 天を仰いで降る雪に手を伸ばせば、映画監督が「すごい」と声を漏らす。


 今日も完璧だ。


 役者とはまた違うが、こうしてモデルとして理想の千雪を演じることは楽しかった。


 美鈴はいつも褒め上手で千雪を褒め殺しにしようとするし、初めて会うカメラマンであっても、「こんなに良く撮れるなんて」と感嘆の声をあげるほど喜んでくれる。


 誰の期待にも充分に応えられる。その快感が、千雪の心を穏やかにしていくのであった。



 映画監督がOKのサインを出して撮影は終了したように見えたが、カメラマンと美鈴が話をしていた。


 カメラマンが「あまりにも良いのでもうちょっと撮ってみないか」と言ったことに対し、美鈴は「今日は他の所に行かないといけないから」と断っている。


 美鈴の言い分は嘘なのだが、「撮影が終わったら部活動に行きたい」という千雪の気持ちを尊重したのである。



「美鈴さん、あの……ありがとうございます。気をつかってくれたみたいで」


「いいのいいの。せっかく千雪ちゃんが優秀で予定より早く終わったのに、それをカメラマンの我儘で潰されたらもったいないわ。もっと撮りたかったら、また撮影の仕事を持ってきてもらうっきゃないわ。学校に急ぐわよ」


「はい!」



 千雪がニッコリと元気よく返事をするので、美鈴も気分が乗って、いつもより手早く準備を始めた。


 化粧を落として、着替えて、関係者に挨拶をして、現場を出ていく。


 最高のモデルである千雪をマネージャーしているということに美鈴も誇り高くなって、思わずスキップしたい衝動に駆られる。


 それをどうにか踏ん張りながらも、気持ちは高揚したままで、美鈴は車に乗り込みながら助手席の千雪に話しかけた。



「あのね、千雪ちゃん」


「なんですか?」


「私……モデルとして振る舞う千雪ちゃんの顔、好きよ。仕草も振る舞いも、全部好き」


「急ですね」


「急じゃないわよ。いつもそう思ってる。元気が出る。見る人のことを思ってくれているでしょ。そういうのが好きなのよ」


「もう、照れるじゃないですか」



 美鈴の運転する車が、法定速度ギリギリのラインで花山学園へと向かっていく。


 撮影現場の雪景色とはうって変わって、まだ桜並木が残る町並み。


 桜には緑が芽吹いていて、春とも夏ともいえないような中途半端な姿をしている。


 車が通ると地面に落ちた桜の花びらが舞って、まだピンク色で綺麗な景色を思い出させてくる。


 助手席の窓から外を眺めながら、千雪はどこか心がざわつくような心地を覚えていた。



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 見たことが無い景色だ。千雪が体育館に入って最初に抱いた印象はそれだった。


 ほとんどの新入部員は朝から練習を始めていて、初期能力を身につけつつあった。


 速く走る者、ボールをめちゃくちゃにする者、発光する者、足でキャッチボールをする者と、様々な人がいる。昨日の朝まではまだキャッチボールで穏やかに過ごしている者が殆どだったはずが、今はキャッチボールだけでは満足できない者ばかりである。


 実のところ、塾や家庭の用事などで来れない部員を除けば、すべての新入部員が初期能力を身につけている状態にあった。


 そのことを何となく察知した千雪は急いで靴を履いてコートに飛び込んでいった。



「おはよー! 千雪ちゃん!」



 もう昼下がりだというのに、おはようと挨拶をしてくる純。まるで撮影現場のようだ、などと思いながら、千雪も挨拶を返した。


 近くには弥一と匠がいる。


 匠の方は滝のように汗をかいていて、弥一に練習相手になってもらっていたことが伺える。


 自分が練習できない時間にまたライバルが成長しているという事実に心がざわついて、千雪は真剣な表情で純に向き直った」



「練習しましょう、純先輩」


「やる気だねぇ」


「もちろんです」



 純はまだ何かを言いたそうであったが、口をつぐんだ。


 その様子を見て千雪も自分の焦りを再確認して、「時間もあるし、じっくりやっていきます」と言うと、純もホッとしたような様子でキャッチボールを始めた。


 昨日と同じ、キャッチボールだ。


 何も代わり映えしない。「少しの変化で何かに気づくかも」と、純はボールを左右に投げ分けたり、急接近して投げたりしてくるのだが、千雪はいつも同じようにボールをキャッチして、ボールを投げ返すばかりである。


 エレメントの使い方にもずいぶん慣れてきて安定感が出てきたが、安定感があればあるほど変わらなさを実感していくのである。


 近くでは、弥一と匠がキャッチボールのようなことをしている。


 たまに、匠も弥一も相手にキャッチさせる気がないであろうボールを投げるので、半実践的な取り組みをしているわけである。


 匠は高速な投球、弥一の強烈な投球が千雪たちの倍以上のペースで飛び交っていく。


 たまに、弥一がタイミングをずらすようにして身体全体を使った蹴りをお見舞いして、心配になるくらい強烈なボールの一撃が匠を襲ったが、匠もまためげずに立ち上がっていた。「バーチャル空間では身体に影響があるような衝撃が起きないようになっている」とはいえ、たまに手を労る匠を見ているとそうも思えないのである。



「千雪ちゃん、休憩しない?」


「いえ、私はまだ始めたばかりですので……」


「体力持つようになってきたね。私はちょっと休憩入りたいし、そうだなぁ」



 そう言って、純は匠と弥一の方へ目をやると、「弥一先輩、根津君借りていいですか?」と声をかけた。


 匠もまた「まだいけますよ」と言うのだが、もう結構な汗をかいているので、半ば強制的に休憩へ連れて行こうとしているのである。



「そうしたら私、根津君連れて休憩してくるので……千雪ちゃんは、このまだまだ平気そうな顔してる弥一先輩と練習したら?」


「え?」



 急に練習相手が交代するというので、千雪は戸惑いを隠せずに弥一の方を見た。


 匠は不服そうであるが、弥一の方は「もちろんだぜ」と親指を立ててニコニコしている。


 何度も弥一や匠の方を見る千雪の気持ちを察して純が交代を申し入れたのだが、それがどうにも申し訳なくて、千雪は元気のない声で「すみません、ありがとうございます」と言った。



「じゃあ、千雪。この弥一先輩と練習しよう。とりあえずキャッチボールするか」


「お願いします」



 先ほどの様子と変わって、弥一は優しい投球を始めた。


 お手本のようなフォームで、物理の教科書に載りそうな美しい放物線の軌道を描いて、ボールが千雪の手の中に落ちてくる。


 千雪が思いっきり投げてもその様子は変わらず、千雪は不本意に思って抗議の声をあげた。



「酒巻先輩。もっと、さっきみたいに思いっきり投げてください」


「千雪が『弥一さん』って呼んでくれたらな」


「弥一先輩」



 恥ずかしがる様子もなくしれっと答える千雪に対して、弥一は嗜虐心がくすぐられて、一歩後ろに下がった。


 生成したボールを一度バウンドさせてから、助走をつけて、それから二メートルもの跳躍をして——叩きつける。


 もはや雷である。


 相手が女子だ、という遠慮なんて露もなく、ボールは千雪の鳩尾めがけて深く突き刺さった。


 死んだんじゃないか、という錯覚の中で千雪は尻餅をついた。幸い、確かにバーチャル空間ではボールも尻餅も現実世界よりはよほど痛くなく感じられたが、それでも自分に雷が落ちたかのような錯覚がしばらく抜けなくて、千雪はじっと自分の空を見つめていた。



「謝んねーぞ。要望通り、本気でやってやったんだ」



 いつぞやの春菜のように唇を尖らせて、弥一が手を差しのばしてきた。


 ようやく自分の状況に気づいた千雪は、「ありがとうございます」と手を握って立ち上がった。


 まだ腹がじんじんするような感覚は消えず、「再開しましょう」という言葉はなかなか口から出てこなかった。


 純が戻っても、しばらく弥一との練習は続いた。


 匠と純はというと、「逃げ回る純を匠がボールで捕まえるまで終われません」というゲームを思いついたらしく、ひたすら純を追いかけ回している。


 まるでウサギを追いかける少年のようであったので、弥一が「うさぎおいしかのやま」とからかうと、文字通り光のごとく純が弥一の元へやってきて、弥一を蹴り飛ばして去っていった。


 弥一とキャッチボールをする中で、弥一はたまに、匠とそうしていたように気合の入った投球をしてくるようになった。


 千雪がそれをキャッチできたことも、避けられたことすらもなかったが、千雪としては刺激のある練習ができているようで、時間が経つのを忘れるように練習に没頭した。


 しかし、初期能力の兆候だけは、依然として見えなかったのであった。



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 時は夕暮れにさしかかってきた。


 多くの部員は帰る準備を始めていて、純も塾があるからと体育館を後にしていた。


 体育館に残っているのは数人の上級生と、千雪と、それに付き合っている弥一である。



「弥一先輩。時間大丈夫ですか」


「全然大丈夫。今日はバイトもないんだ」


「そうなんですね。……すみません、こんなに付き合わせちゃって」


「気にすんな」



 たまに弥一は色々な技を千雪に披露した。


 ボールが消える能力、ボールが鋭角に曲がる能力、身体能力をあげる能力、挙句、身体を回復する能力まで持っている。そのため、千雪が休憩を申し出るまで弥一は休憩しようとしないのである。たまに給水するだけで、弥一は永遠に動き回っている。


 あまりにも色々な技を見せるので、千雪はボールと質問を弥一に投げかけた。



「弥一先輩って、初期能力はなんだったんですか」


「さぁ」


「さぁ、って」


「いやわかんねぇんだよ。俺、割となんでもできたから。身体能力をあげるやつはもちろんとして、ボールが光るやつも、ボールが高速落下するやつも、自分の身体を光らせたりするやつも。どれが初期能力だったんだろうな。別になんでもできるから、どうでもいいんだけどさ」


「すごいですね」


「そうかもな」


「弥一先輩らしいです」



 千雪がそう言うのは意外だったようで、弥一はケタケタと笑ってまたボールを投げた。



「俺らしいかー。んなことねーだろうよ」


「そうなんですか?」


「俺はもっと薄っぺらくて能無しのろくでなしだぜ?」



 千雪がボールを投げ返すのを受け取りながら、弥一は千雪をからかうように笑ってみせた。


 とうとう人は二人以外にいなくなって、弥一と千雪がコートを占有している。弥一の笑い声が体育館に反響する。たまに聞こえる外の生徒の声が、もう帰る時間だということを知らせてくる。


 夕日は一階の扉から直接見えるくらい沈んでおり、弥一の姿は逆光になって見えなくなっている。


 普通、それくらい夕暮れになると体育館のカーテンや窓を閉めて練習するのだが、カーテンを閉めにいくのが億劫で、二人はそのままキャッチボールを続けていた。



「俺さ、『初期能力はその人らしい能力であることが多い』ってやつ、全然納得してねぇんだわ」



 弥一はボールを投げる手を休め、足でリフティングを始めた。サッカー部員であるかのように、お手本のようなリフティングで数を重ねていく。



「別に、正義の言うことに異論はねえよ。確かにその傾向はあるかもしれん。でも俺にはわからん。だって俺には俺がわからんし、初期能力が何かもわかってない。……まぁでも確かによくわかってない感じは似てるか。ハンターが好きってことしかわからん。色んなことがどんどんできて、俺自身がスゲーってなる瞬間が好き」



 弥一はリフティングしていたボールを高く蹴り上げ、千雪の方へと軽く蹴り飛ばした。



「千雪はないの?  自分に感動するとき」


「私は……そんな」



 ない、とも言えない。モデルとして一生懸命に振る舞う自分のことは、自分自身でよく頑張っていると感じている。しかし、「自分に感動することがあります」と口にできるほどの自信は、まだ千雪にない。



「そうなんだ。俺は、もっと千雪に千雪自身のことで感動して欲しいけどな。千雪はずっと、頭使って行動してるように見える」


「そう見えますか?」


「見える」


「……初めて言われました。どうしてですか?」


「俺が思った通りの返答をするところ。ありきたりな返答のくせに、ちょっと返答が遅いところ」


「返答、遅いですか?」


「めっちゃ遅いってわけじゃないよ。違和感のあるような遅さじゃないから、普通は気にならないはず。エキシビジョンマッチ見ながら話したじゃん。あのときに、この子スゲー無難な返答してくるし、本当は入部する気なんてさらさらなくて、ただ純とかに強引に誘われて付き合ってるだけなんじゃねーのって思ってた」



 完全に図星だった。


 弥一が「さっき弥一先輩って言ってくれたのは嬉しかったけどな」と言いながら笑ってまたリフティングを始めたが、その言葉が千雪に聞こえないくらい、千雪は強い衝撃を受けていた。


 自分の態度が対外的だと感じている人は弥一が初めてではないかもしれない。


 しかし、それを面と向かって指摘してきたのは、弥一が初めてである。


 黙り込む千雪のことが気になって、弥一は「別にいいんだよ」と話を続けた。



「もしもの話な。千雪が自分をよく見せるために振舞ってるだけだとしても、いいんだよ。千雪のその振る舞いの先には、多分、人の笑顔があるんだと思う。千雪が悪い奴じゃないってのはわかるし、千雪は承認欲求のために人を騙してるんじゃなくて、相手が心地よく過ごせるように言葉を選んでる。そこになんの罪があろうって言うんだ」



 そう言って、弥一はボールを消した。


 先ほどまでの夕日はあっという間になくなっていて、もう月が街を照らす時間になっている。弥一はコートから出ていくと、「体育館の鍵、職員室から取ってくるわ」とだけ言って体育館を後にした。もう帰ろうという宣告である。


 弥一もいなくなった体育館で、千雪は一人、天を仰いでいた。


 演じる自分を肯定されたのは初めてだった。


 ずっと、ずっと、人が傷つかないように、自分があの"母"のようにならないように、ずっと、いい人であり続けようとしてきた。


 だから周りの人は、ずっと千雪を「完璧にいい人だ」と褒める。千雪の振る舞いに憧れを抱いて賞賛する。そうして誰も、人のために頑張り続けている千雪の姿には気づかないで——。



(——いや、そうじゃないんだ)



 ふと、千雪は美鈴の言葉を思い出した。



 ——私……モデルとして振る舞う千雪ちゃんの顔、好きよ。仕草も振る舞いも、全部好き。



 何も、初めて言われたわけではなかった。


 美鈴はいつも、モデルとしての成果も、モデルとして努力する千雪をも褒めてくれていた。


 ずっと見てくれている人は、千雪が頑張る姿を知っていて、それを愛してくれている。


 演じている自分が嫌で、ずっと罪悪感に囚われてきて、千雪は誰より自分の努力が生み出す光に気づいていなかったのである。


 今日の撮影現場が思い出される。


 暗い天井から降り注ぐ、淡い雪。


 全てを包み込むような、白い雪。


 降り注ぐ照明の中で、自らの姿が人を笑顔にしていく。



(私は、私を偽るためではなくて、私が大切にしたいものを守りたくて、人々が幸せになるのを心から願って、演じている。それは、絶対に間違いない。自信を持って言える)



 だから、千雪は気づいた。



(こうして演じるように振る舞う私こそが、私らしさだ)



 見たことが無い景色だ。弥一が体育館に入って最初に抱いた印象はそれだった。


 外はもう暗くなっている。体育館近くの花壇から花の香りがするが、その花の姿はもう見えにくいくらいに、外は暗くて、体育館の中は眩しい。


 もう千雪も帰る支度をしているだろう。


 そう思って、弥一は体育館の入り口を開けて中に入ったはずだった。


 しかし、そこにあったのは、季節外れの雪景色。


 当然雲もない体育館内の天井近くから、とめどなく淡雪が降り注いでいる。


 雪は積もらず、体育館の床の近くで消えていく。


 真ん中には、そこにいるとわかっていたはずの、しかしいつもとは比べ物にならないくらい儚さと美しさを纏った少女が、瞳から溢れ出す涙を拭うことなく立ちすくんでいた。



「弥一先輩。すみません、帰る準備していなくて……。見えていますか、私の幻覚じゃ、ないんですよね」



 コートの真ん中の少女、千雪に話しかけられて、弥一はようやく我に返った。


 これは体育館内で雪が降っているわけではない。どんな能力も思い通りにできる弥一がまだ実現したことのない能力。



 ——幻影



 雪景色の中、嬉しそうに微笑む千雪に向かって、弥一は小さな声で答えたのであった。



「ああ。綺麗な景色だよ、千雪」





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