黒龍ヶ岳の化け物

星野 ラベンダー

黒龍ヶ岳の化け物

 県境に位置する黒竜ヶ岳こくりゅうがだけには、化け物の類いが棲むと言われている。


 その山は、高い標高に迷路のようにうねった山道、切り立った崖が幾つも点在していることから、登山やハイキングには向いていない。


 峠道として道路は通ってあるものの急カーブや落石の危険性などで、夜半はおろか日中ですら通る車や人は滅多にいない。


 人間を寄せ付けないこの山には、多数の伝承や噂話が存在していた。

 木々の間を飛ぶ鬼火や人魂。崖に佇む足の無い人影。山道を行進する多くの妖怪……。


 その中でも特に有名な言い伝えに、「真夜中に現れる少女」というのがある。

 丑三つ時、山道を一人で歩いていると、どこからともなく少女が現れる。黒色の髪に紺の着物の彼女に見つかったら最後、その人間はどこかに連れ去られてしまうのだという。

 攫われる先は黄泉の国か、異界か。とにかく、もう二度とこの世に戻ってこられないらしい。


 こういう噂話ってどこにでも転がっているなと、正木 亮平はハンドルを切りながら思った。


 こんな話を思い出したのは、今まさに自分が、その黒竜ヶ岳の山道を車で走っているからだった。


 深夜の山中は、闇そのものだった。カーナビの画面に表示されている時計は、午前二時半を示している。


 仕事で遅くなった亮平は、早く家に帰りたいと思うあまり、近道であるこの黒竜ヶ岳を越えることを決めた。山を迂回する形になる国道を通るよりも、ずっと時間が短縮されるからだ。


 そうして先程から山道を進んでいるわけだが、さすがに暗く、不気味だった。

 山に入ってから一台も車とはすれ違っておらず、追い越していった車も無い。車のライト以外に光源は存在せず、文字通り一寸先は真っ暗だった。


 右手側のフロントグラスの向こうには鬱蒼とした草木の影が生い茂っており、左手側には途切れがちなガードレールと、その向こうに闇そのものが横たわっている。


 無意識下で軽く肌が粟立つ。妖怪など信じる気は毛頭無いが、さすがに不気味な気持ちを抱かざるを得ない。


 突然目の前に現れる急なカーブを消化していきながら、亮平の車は道なりに進んでいっていた。


 いつまで経っても抜け出られる気配を見せない暗闇に、どこか落ち着かない気持ちが募っていく。


 そわそわと軽く身じろぎしていると、ダッシュボードの上に置いていた携帯がメールの着信を告げた。確認すると、今付き合っている彼女からのメールだった。

 仕事中にも彼女からメールが届いていたのだが、手が離せなかったため返信が遅れた。その事を詫びたメールを出していたのだが、その返事だった。亮平の体を労る内容が記されていた。


 思わず口元が緩む。良い彼女だと思った。先日別れたばかりの以前付き合っていた彼女は、少しでも返事が遅れると、何があったのかと何度もしつこく聞いてきた。亮平のスケジュールを事細かに聞いて把握しようとしてきたりなど、とにかく重たかった。


 最初はそこが良いと思っていたのだが、段々とうんざりしてきた亮平は、別に彼女を作った。それで先日浮気がばれて、別れたのだった。


 そういえば前の彼女は、黒龍ヶ岳の言い伝えを信じていた。少なくとも、疑っている様子はなかった。


 別れようと言ったあの日も、ちょうど丑三つ時に、この山を車で走っていた。

 助手席に座っていた彼女は、窓の向こうを眺めながら、「真夜中に現れる少女」の話をしていた。


 今山を歩いていたら本当に言い伝えの少女に出会うかもしれない、車から下りないように気を付けなきゃ。


 そう言って笑う彼女は、オカルトやスピリチュアルなものを信じている、やや夢見がちでロマンチストな性格をしていた。だからだろうか。一途と言えば聞こえは良いが、周りが見えなくなるきらいがあった。


 別れを切り出した瞬間の、前の彼女の顔が浮かぶ。何が起こっているのかまるでわからないといった風に愕然と目を見開いていたあの顔。あいつは自分を恨んでいるのか。けれど、束縛が激しかった向こうが悪い。


 脳内から姿を消し去り、代わりに今の彼女を思い浮かべたときだった。


 突然、車のライトが消えた。目の前が完全な闇に覆われた。自分の手元すら視認することも叶わない程の暗さだった。突然起きた出来事に、心臓が大きく跳ねた。だが次の瞬間には、元の明るさが戻ってきた。


 故障だろうか。確かに長年連れ添った車であるものの。しかしこの前の点検ではどこにも異常が無いと言われていたのに。


 そんなことを考えていたときだ。車のライトが照らす先に、ふらりと動く影が入り込んだ。


「うおっ!」


 人影だと認識した瞬間、亮平は反射的にブレーキを踏み込んだ。甲高い音を鳴らしながら、タイヤが急停止する。


 一体誰がこんな夜中に山道を歩いているんだと顔を上げた。


 そこには、一人の少女が立っていた。腰まである長い黒髪に、紺色の着物に、下駄を履き、片手には提灯を持っていた。


 会ったことがないはずなのに既視感を抱いた直後、脳内で山の噂が再生された。


 ──真夜中に現れる少女。黒色の髪に紺の着物の彼女に見つかったら最後、その人間はどこかに連れ去られてしまう──


 少女がこちらに歩み寄ってきた。からんころんと下駄の音が鳴り響く。


 同時に、車のライトが消えた。今度はすぐに明かりがつかなかった。少女の持っている提灯の炎が、ゆっくりと近づいてきた。


 やがて、不安定な炎の明かりが自身のすぐ横まで移動した。見ると、フロントグラスのすぐ向こうに少女が佇んでいた。


 炎特有のゆらゆらとした覚束ない明かりが、少女の色白い肌に陰影を浮かばせていた。


「ねえ。開けてくれる?」


 少女は鈴の鳴るような声で言った。亮平の手は両方ともハンドルを握りしめたまま震えていた。少女が望んだように、ドアを開けることは出来なかった。


「わたし、道に迷っちゃって、帰れないの。だから、乗せてってくれない?」


 提灯が、少女の瞳を照らし出す。その両目は、底なし沼のように黒く、重く、どこまでも暗かった。


 そんな目で自分が見つめられているのだとわかったとき、一気に背筋が凍り付いた。


「来るなっ!」


 思い切りアクセルを踏むと、軋んだタイヤの音色と共に、車は凄まじい勢いで発進した。


 車のライトは依然として復活していなかったが、それでも走らせ続けた。


 体中小刻みに震えているのに、肌からは冷や汗が吹き出している。


 速度制限など無視している。とにかくあの少女から距離を取りたいと、そればかり考えていた。


 そのとき、急に車のライトが灯り、ある程度視界が開けた。


「はやいはやーい!」


 ぱちぱちと手を叩く音が隣から鳴った。少女が助手席に座って、興味深そうに辺りを見回していた。


 亮平がブレーキを踏むと、「なんで止めるの?」と提灯を手に取り、こちらにかざしてきた。少女の黒い瞳は、深く掘られた穴のように、一切生気が宿っていなかった。


 亮平は一旦車の外に出た。助手席側のドアを開けると、そこから少女を引きずり下ろした。掴んだ腕は氷のように冷たかった。一気に吐き気がこみ上げた勢いで、少女を突き飛ばした。


 道路の上に転がった少女が呻いている間に、亮平は車に飛び乗り、車を発進させた。

 ハンドルを握る手に、少女の肌の感触が鮮明に残っている。ズボンで乱暴に擦りながら、自分の息が乱れていることに気づいた。どうりでさっきから目眩が治まらないはずだ。


 あの恨みがましい目。一体自分が何をしたというのか。ただ夜中に、山を車で通っていただけなのに。


 自分は何も悪くない、自分は何もしていない。恨まれることなど、何もしていない。


「お兄さん、冷たいんだね」


 走行音の他に人の声がしたのは、そんなときだった。抑揚の無い声は、なぜか耳のすぐ傍で聞こえてきた。姿は見えない。しかし、「いる」のは伝わる。


 突如、息が出来なくなった。鼻からも口からも、酸素の吸い込みや二酸化炭素の吐き出しが、全く出来なくなった。


 肺に、体内に、水が入り込んでくる感覚がする。そのはずはない。ここには水など一滴も無いのに。


「わたし、傷ついたよ。ひどいよ」


 少女の声が、水の中で聞いているように籠もって聞こえた。


 口を開けると、ごぽ、という泡の鳴る音が生じた。たすけて、と言ったはずだったのに、それが声になることはなかった。


「ふふっ。面白い顔!」


 気がついたら、ずっと握っていたはずのハンドルの感触が、どこにも無くなっていた。


 苦しい、と思った。苦しい。体がどんどん重くなっていく。意識がどんどん遠ざかっていく。


 死という概念を、今なら目視できる気がする。


 あははっ、と無邪気な笑い声が、頭の中に響いた。

 




 生い茂る木々の隙間から木漏れ日がさしこみ、森の中の景色が独特に彩られる。


 黒竜ヶ岳の中腹辺りに位置する、ある森の中。生い茂る草木や藪をかき分けながらひたすら真っ直ぐ進んでいくと、そのうち洞窟が見えてくる。その洞窟を抜けてしばらく行った先にある坂を上ると、綺麗な水の流れる川と、木で出来た古びた祠がひっそりと佇んでいた。


 朝日奈 菫は、その小さな祠の前に立つと、両手を合わせた。


 目を閉じ視界を遮断すれば、祠の裏手を流れる清流のせせらぎが、尚更澄んで聞こえた。


「ありがとうございます。あなたが亮平を、懲らしめてくれたんですね」


 亮平が事故に遭ったという事実を知ったとき、菫は直感した。がやってくれたんだろう、と。

 菫の瞼の裏に蘇るのは、あの日。あの夜の出来事だった。

 



 その日菫は、真夜中の黒竜ヶ岳の道路を、たった一人で歩いていた。


 時刻は丑三つ時。肌寒い風が、余計に恐怖心を煽ってくる。山に伝わる数々の噂を知っている菫は、二の腕を摩りつつ、山を下りようとしていた。


 手にしている携帯電話の明かり以外に光は存在せず、その夜は曇っていたため星や月の明かりすら存在していなかった。


 何かが潜んでいないほうがおかしい程の闇が菫を包み込んでいた。だがそのとき菫は、もし暗闇から何かが現れて呑み込まれてしまっても別に良いと、どこかで思っていた。


 こんな世界に、未練など無い。そう思うようになったきっかけの出来事を思い出していると、自然と足が止まる。


 風で木々がざわめく音を聞きながら、アスファルト道路を見つめていたときだった。


 耳が別の音を察知した。それは、からんころんという聞き慣れない独特の木の音だった。確かに足音であるそれは、徐々に近づいてきていた。


 菫は口を閉じることができなかった。開けられたままの口は、がくがくと震えていた。体が石膏で固められたように全く動けなくなった。


 足音が止まった。


「こんなところで、何をしているの?」


 どこか舌足らずな少女の声が、すぐ後ろから聞こえた。

 何か言おうとしたが、口からは乾いた息しか漏れてこなかった。


「お姉さん、話せないの?」


 痙攣のように、首を横に振る。

 答えなければ、連れ去られるのではないかと感じた。

 おかしなもので、すっかり自暴自棄になっていたのに、今は自分の身の安全のことを考えている。


「私……私は……その……」


 説明しようとした声は、途中でつっかえた。口を閉ざすと、「言わなきゃわからないんだけど」と不機嫌そうな声音をかけられた。


 怒らせても、やっぱりどこかに連れて行かれるのでは。菫は「ごめんなさい」と謝った勢いで、口を開いた。


「車に乗ってたんだけど……下りてしまって」

「なぜ?」


 即座に少女は突っ込んできた。

 どうしよう、と思った。一瞬、こんなことを人に言えば自分が惨めになるだけではとも思った。


 けれど、後ろから漂ってくる、風とはまた違う冷え冷えとした人ならざる空気を感じていると、そんな風にまだなけなしのプライドを持っている意味がわからなくなってきた。


 夜の山に漂う冷たい空気を吸い込み、言葉と共に一斉に吐き出した。


「違う。下りたんじゃない、下ろされたの。……彼に」


 一度口に出してしまうと、自分の身に起きたことは紛れもない現実であると、改めて実感が湧いてきた。


「彼は、浮気をしていた。それを、それを聞いたら、突然車が止まって、そして突き飛ばされて、それで……」


 気づいたのは、一体いつ頃からだっただろうか。一ヶ月ほど前からだったろうか。


 どこかに、ずれを感じていた。今まで全く感じなかった、あまりにも小さなずれ。

 とはいえ、証拠など何も無い。強いて言うなら勘だ。あてにならないのに、強い説得力を帯びた勘。


 その違和感は、ほんの数日前、ついに確信的なものに変わった。


 彼の置きっ放しにされていた携帯に、一通のメールが届いたのだ。


 何の気なしだった。他意など何もなかった。けれども見たということは、やはり多少の疑惑や疑念があったということか。


 しかしその行動を取ったことを、後悔してもしきれないことになってしまった。


「私は……謝ってくれれば、それで良かった。悲しいけど、許せないけど、でももう二度としないって誓って、心の底から謝ってくれれば、それで…」


 今日、彼の車に乗って、二人で外出をした。とてもとても、楽しかった。だが心には、拭いても拭いても決してとれないものがこびりついていた。


 すっかり遅くなったため、近道をしようとこの山の道を通ることになった。


 和やかな雰囲気で交わし合っていた世間話がふと途切れたとき、そのタイミングでメールのことを聞いた。


 自分としては、軽く聞いただけだ。しかし彼に言わせれば、非常に厳しく問い詰めてきたらしい。


 菫の話を聞いた途端、走っていた車が突如止まった。


「もううんざりだ。いい加減にしてくれ。俺はお前から逃げたい。……そう言われた」


 彼は次々と言葉をぶつけてきた。まさしく弾丸のごとく投げつけられた言葉の数々は、とても痛かった。


「俺の幸せを奪いたいのか。お前はストーカーだ。調子に乗るな。犯罪者だ。……色々言われた」


 どんな言葉をどれほど言われたかはわからない。けれど、自分という存在を否定され続けたことは覚えている。どうしてそんなに沢山言えるのだろうと、その語彙の豊富さに逆に感心したのは覚えている。


 辛かったことは、悲しかったことは、明瞭に覚えている。


 言うだけ言うと、彼は菫のシートベルトを強引に外し、ドアを開けると同時に外へ突き飛ばした。


 堅い道路に体が叩きつけられ、ずきずきと体が痛んだ。身をよじり呻く菫に、彼は捨て台詞を叩きつけた。

 急発進して去っていった車が見えなくなったとき、ようやく自分の身に何が起こったのか飲み込めたのだった。


「情けで付き合っていただけ。これでせいせいする。彼は最後にそう言って、そのままどこかに……」


 声が震えている。目頭が熱い。胸が苦しい。けれども、涙が一滴たりとも流れてこない。


「私が全部悪かった。気づかないふりをしてれば、そうしていれば、平和だった。幸せに過ごせた。私が、余計なことさえしなければ、亮くんとずっと一緒にいられたのに……!」


 堰を切ったように、言葉が溢れて止まらなくなった。けれども涙は出てこない。

 悲しいのに、泣けないのは。あのような扱いを受けてなお、怒りがわいてこないのは。自分自身に対する嫌悪があるからだ。


 彼の言うとおり、自分は何の取り柄も無い、地味で、平凡な人間ということを自覚している。


 そんなつまらない自分を初めて見てくれて、愛してくれた彼を、菫もまた心の底から愛していた。自分の全てを彼のために捧げたいと思うほどには、愛していた。


 菫は片手で両目を覆った。嗚咽は漏れてくるのに、涙は出てこなかった。


「人間って不思議だね。なんで怒らないの?」


 無邪気な問いかけが投げられた。反射的に菫は振り返った。


 そこにいたのは、長い黒髪の少女だった。紺色の着物に青色の下駄を履いており、手には提灯を持っていた。そこに宿る炎はゆらゆらと揺れていて、不思議とどこか温かみがある。


 化け物と噂される割には、穏やかで落ち着いた空気を纏っていた。大きな黒い瞳が、菫をじっと見上げていた。


「悲しくないの?」

「か、悲しいわよ! 悲しいに決まっているじゃない! でもそれは私に魅力が無かったからで」

「お姉さんは何も悪くないでしょ? どうして自分のせいだって思うの?」


 少女はきょとんと首を傾げた。真っ黒な瞳の中から出てくる無邪気な眼差しに、気がついたら菫は、少女の頭に手を置いていた。


「お姉さん?」

「……ありがとう。少し心が軽くなったわ」


 こんな小さな子どもに慰められて自分が情けないという思いと、それでも嬉しい気持ちが半々あった。それで無意識の内に、頭を撫でていたのだ。

 少女は上目遣いにこちらを見ていたが、ふいにその視線が下がった。


「それ、何?」


 指さしたのは、菫がずっと持っていた紙袋だった。ああ、と菫は袋を掲げ、中の箱を取り出した。


「水羊羹よ」

「水羊羹……」


 今日、外出先のお土産に、有名店で買ったものだった。彼と食べようと思っていたのだが、もうそれは叶わない。


 水羊羹の箱を見ていると、また気持ちが重く、深い沼に沈んでいくような気持ちになっていった。


 ふいに少女の体がわずかに動いた。見てみると、提灯を両手で握りしめた少女が、食い入るようにして水羊羹の入った箱を見つめていた。


「……もしかして、欲しいの?」


 瞬間、少女の肩がぎくりと跳ねた。わかりやすい反応に、菫は思わず笑みを零していた。

 箱を戻し、袋ごと少女に持たせると、開いては戸惑ったように袋と菫を交互に見た。


「……いいの?」

「うん。あげる」


 一人で片付けるなど絶対に出来ないし、かといって捨てるわけにもいかない。

 少女は紙袋を抱きしめると、「ありがとうございます」と言ってぺこりとお辞儀した。


「お礼、しなくっちゃ」


 少女の呟きを聞き返したときだった。突然、携帯電話の明かりがぱっと消えた。


 辺りが一切の闇に包まれ、上も下も、右も左も、前も後ろもわからなくなった。

 何があったのかわからずその場をぐるぐると見回す菫の耳に、少女の優しげな声が届いた。


「わたしに任せてね。水羊羹の、お礼だよ」


 それは、直接頭の中に響いてきた。次いで耳が、川のせせらぎらしき音を捉えた。


 水の流れる穏やかな音に、菫の心は次第に凪いでいった。眠気すらも覚えたとき、急に携帯の明かりがついた。


 すぐに少女がいた方向をかざしてみたが、姿は消えていた。木と木の間を吹き抜ける風の音も聞こえなかった。


 そこは山ではなかった。山を下りてすぐの国道だった。

 菫の目の前にはただ、夜の闇に紛れる黒竜ヶ岳がそびえていた。




 後日菫は、黒竜ヶ岳について詳しく調べてみた。川の神様の存在を知ったのは、図書館で古い文献を漁っていたときだ。


 その神様は幼い子どもの見た目をしており、紺色の着物を着ている、と記されていた。丑三つ時に現れる少女の噂の正体は、これに違いなかった。


 本来は神様だったのに噂が誇張していき、化け物の類いだと言われるようになってしまったと解釈できた。


 菫は納得した。あの少女は、とても化け物には思えなかったから。


 その文献には、神様が祀られているという祠の存在についても書かれていた。古びたその地図を頼りに祠を探し、それで今日、ここまで来たわけだ。


 少女と出会ったあの夜、物欲しそうな目をした彼女に渡した水羊羹と同じものを祠に供えて、再び手を合わせる。


 目を閉じていると、きい、と木の鳴る微かな音が聞こえた。瞼を開けると、わずかに祠の扉が開いていた。


「お姉さん」


 知った声が背中からかけられた。振り返ると、あの夜出会った少女がそこに立っていた。提灯は手にしているものの、日が昇っている時間のためか、炎は灯っていなかった。


 ふふ、と少女は優しく微笑んだ。


「こんにちは」

「ええ! 良かった、会えて! どうしても直接お礼を言いたかったの」

「お礼なんていいよ。だってわたしも、あのお兄さん嫌だったもん」

「うん。おかげで亮くんも、少しは懲りてくれたと思う。もう浮気なんてしないはずよ」


 恋人である亮平は、菫が不思議な体験をしてから数日後、自宅近くの川辺に倒れているのを菫自身が発見した。亮平の愛車は川の底に沈んでいた。


 気を失っている亮平を助けたとき、菫は闇の中で聞いたせせらぎを思い出していた。あの少女がやったのだと直感した。


 本当にありがとう、と頭を下げると、少女は「どういたしまして」と照れ臭そうにはにかんだ。


「今のお姉さん、とても幸せそうだね」


 少し恥ずかしかったが、菫は大きく頷いた。ここ最近心がとても満たされているのを感じていたのだが、やはり表に出てしまっているらしい。


「わかる? そうかもしれないわね。亮平が、私のもとに戻ってきてくれたから」

「お兄さんが?」


 少女が怪訝そうに眉根を寄せた。


「今の亮くん、動くことが出来ないから。だから私が、お世話してあげてるのよ」

「動けない?」

「ええ。だって、手足が無いから。といっても、私が切り落としたのだけどね」


 菫は胸の前で、ぎゅっと手を組んだ。少女の目が、徐々に見開かれていった。


「亮くん、別荘にいるのよ。別荘といっても実家の持ち物で、古いからって言う理由でずっと使われていないけど。でも私が使ってることは知られてないわ。だってあの家の人達、私に全然興味が無いから。私が今何歳かも知らないくらいだもの。まあそんなことはどうでもいいわ。私もあの人達のことなんか興味無いし。私が大切なのは亮くんだけだもの。とにかく亮くんと、その別荘で二人っきりで過ごしているの。お金も時間も、亮くんの為に全てを捧げるっていう夢にまで見た暮らしが出来ていて、私今、とっても幸せよ!」


 実家が病院で、菫自身も医学を学んでいたので、手足を切断する手術の知識はあった。


 気を失った亮平を人里離れたその別荘に運んだ菫は、手術を施した亮平と共に、今はそこで暮らしている。


 逃げられたら困るので、厳重に鍵をかけ、外に通信する手段も全て奪っているのは当然のことだ。


 もとより、逃がすつもりはない。亮平は、誰にも興味を持たれなかった自分を見てくれて、愛してくれて、大切にしてくれた、初めての存在。一生をかけて大切にし、愛し続ける。


「これで亮くんは正真正銘私のものになった。もう絶対に無くしたりしない。離したりなんかしないわ。神様、本当にありがとう。亮くんが戻ってきてくれたのはあなたのおかげよ。何回感謝してもしたり無いわ。本当にありがとう、ありがとう、ありがとう──」


 顔を歪ませふるふると体を震わせていた少女が、突然背を翻し、一目散に走り出した。


 遠ざかっていく下駄の音を聞きながら、菫は、まだお礼を言っている最中なのに、と思っていた。



 

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