毒の園

灰崎千尋

 この薬屋の店主が店先にいないのはいつものことだ。彼は専ら、裏の薬草園にいる。しかしいつものことだからといって先に薬草園へ回ってみると、そういう時に限って店内にいるのだから、俺と彼とはそういう星の巡り合わせなのだと思うようにしている。


 この日もやはり、彼──ネリトは、薬草園で水やりをしていた。水挿しから流れる水に虹ができそうなほど、穏やかな日差しが降り注いでいる。金色に輝く和毛にこげや草花を見つめる慈愛に満ちた眼差しは天使のようだが、彼がいま水をやっているのは、毒草の花壇だ。


「おい」


 声をかけると、ネリトがこちらを向いた。丸眼鏡の奥の目が、大きく見開かれる。


「やぁカスペル、こんな時間に来るなんて珍しいね」


 彼がもし犬だったならば引きちぎれんばかりに振れる尻尾が見えただろう、と思うほどの満面の笑みだ。こんな笑顔を俺なんかに見せるのは、ネリトぐらいのものだ。


「仕事が無事片付いたからな。今回もお前のおかげだ」


「良かった! 動物実験をしているとはいえ、新しい毒を使うときはいつも緊張するよ」


 ネリトは太陽のような笑顔のまま、そう言った。




 俺の仕事は、暗殺だ。今のところ一番の得意先はとある貴族の男だが、別の誰かから相応の報酬がもらえるならそのお得意様だって手に掛ける。つまりどの家にも属していない暗殺者なのだった。

 仕事を求めて流れ着いたこの国では今、様々な権力争いが起きていて、俺のような仕事は稼ぎ時だ。とはいえ不審死が続出してしまうと目立つので命を取るのは最終手段らしく、たいていは脅しとして怪我をさせたり毒を盛ったりで終わる。お陰で俺は「死なない程度」の仕事ばかり上手くなって、殺しの腕が落ちてやしないかと不安ですらある。

 暗殺者として、毒の扱いにも多少の心得はあった。しかし野生を採集できる素材ばかりではなく、手に入りにくい薬品のためにあるとき立ち寄ったのが、ネリトの薬屋だった。

 ネリトは優秀な薬師くすしだった。最初は薬品を仕入れにいく店の一つでしかなかったが、何度か通ううちに、俺の目的を見抜いた上で「秘密を守る」と言った。そうして俺の要望通りの毒薬を調合し、使い方の助言までしたのだ。大した胆力だと思う。

 ネリトとはそれ以来深く付き合うようになり、俺はしばしば毒薬の調合を依頼し、ネリトの薬草園では毒草の花壇が広くなった。




 昨夜の仕事は、久しぶりの殺しだった。眠る老人の耳に流し込み、苦しむが血も吐かず心臓が止まる。見事な毒だった。

 俺は良い、最初からこの手は汚れていたのだから。けれどネリトは。ネリトをに引っ張り込んだのは、俺だ。


「カスペル、どうかした? 寝不足ならうちでちょっと寝ていくかい?」


 考え込んでいた俺の顔を下から覗き込み、ネリトはそんなことを言う。俺が昨夜したことを知っていてなお。


「すまない」


「わかった、寝室を片付けてくるよ」


「そうじゃない」


 店舗兼自宅へ戻ろうとするネリトの腕を咄嗟に掴んだ。


「俺のせいで、お前の手も汚してしまった。すまない」


 振り向いたネリトは不思議そうに目を瞬かせた。しかしすぐにまた、へにゃりとした笑顔に戻る。


「いまさら何を言うかと思えば」


「確かにいまさらだが……」


「何か勘違いしているようだから言っておくけど」


 ネリトの腕は俺の手をするりと抜けて、正面から俺の両手をぎゅっと包んだ。


「僕はちゃんと自分で選んで、カスペルの手伝いをしているよ。それに薬師が毒をつくるのは自然なことさ。治療に使う薬も、使い方を誤れば毒になってしまうんだからね」


「……そういうものだろうか」


「そういうものだよ。それに僕、カスペルのおかげで新しい研究ができて、とても楽しいんだ」


 ネリトは相変わらずにこにこと笑う。嘘の上手い奴ではないから、笑っている間は大丈夫だということにしよう。……他にどうすればいいのだか、俺には分からない。


「そんなことよりカスペル、見てくれよ。マンドラゴラに花が咲きそうなんだ」


 ネリトが花壇の前にしゃがみこんだので、俺もその隣に屈む。幾重にも重なった青々とした葉の中心に、薄紫の蕾が三つ見える。


「マンドラゴラってあの……抜いたら死ぬやつか」


「省略し過ぎだよ。抜くとおぞましい悲鳴をあげるから、それを聞くと死ぬか発狂してしまうのさ。だけど色々と薬効があってね、媚薬にもなるし、神経毒にもなる。君にあげた毒にも使ったことがあるよ」


「お前、無事だったのか」


「抜き方にも色々あるんだ。僕は最も一般的な、犬に抜かせる方法を使っている」


「それって犬は」


「死ぬね」


 薬師というのは皆こういうものなのだろうか。


「猥談を聞かせるって方法もあるらしいんだけど、僕じゃ駄目だったよ」


「……ちなみにどんな話をしたんだ」


「オスの性器がメスの膣内に挿入され、精子が卵子にたどり着くことで受精する」


「お前、猥談の意味知ってるか?」


 ときどきネリトという人間がわからない。

 この何の変哲もない草花の下に物騒なものが眠っているというのも、なんだか不思議だ。


「マンドラゴラを育てるのは、種さえあればそんなに難しくないんだ。抜くのもちょっと手間はかかるけど。一番難しいのは、花を咲かせること。これは三年かかってようやく蕾になった」


 ネリトはマンドラゴラの小さな蕾をちょんと突いた。それからふと顔を上げて、毒草の花壇を見渡す。


「ねぇ見てごらん。トリカブト、ジギタリス、ナルキッソス、ミュゲ……みんな毒があるけれど、こんなに綺麗な花を咲かせる。マンドラゴラの花もきっと素敵だよ」


 その横顔は期待に満ちて、頬は薔薇色に染まっている。毒を前にした彼は美しいと、俺は思ってしまっていた。


「ねぇ、明日も明るいうちにおいでよ。そろそろ咲くと思うんだ」


「気が向いたらな」




 マンドラゴラはどんな花を咲かせるだろう。あの小さな紫の蕾が開いたら、ネリトはどんな顔をするのだろう。どちらもきっと美しい。それは俺の確信にも似た願いだった。

 

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