第4話 愛の慟哭
彼が引っ越していって、既に一年以上が経った。
あれから変わった事といえば、休日に彼の家で過ごす時間が無くなったくらいで、私は自宅と職場を行ったり来たりする毎日を続けている。
彼からのプレゼントの中に彼の演奏を録音したものがあって、それを聞くことが、こんな生活の中で私にとって唯一の癒しとなっている。
幸せな思い出がなかなか頭から離れてくれなくて、私は結局、未だに毎日こうして彼の事を想い続けていた。
珈琲を淹れるために、私はキッチンへと向かった。
部屋の中に懐かしい香りが充満して、彼と過ごした特別な時間を思い出させてくれる。
今となっては独特の苦い香りにもまた、意味があるのだと思える様になった。
それに彼がいなくなってからは、角砂糖を入れることもなくなった。
私の人生は、きっと苦いくらいで丁度良いのだ。
淹れたての珈琲を飲みながら、私は郵便物の整理をしていた。
「ん?」
差出人の無い封筒が一通ある。
封を開けて中の手紙を確認すると、動悸が一気に高まった。
私は震える手でカップを机に置くと、手紙を持ちながら続きを読んだ。
『君がこれを読んでいる時、僕はもうこの世にいないと思います。
これを伝えるべきかどうか、ずっと一人で悩みましたが、この気持ちはどうしても抑え切れませんでした。
君と初めて出会った日に、僕は医者から余命一年と宣告されていました。
いつ終えるとも知れない生に怯えるくらいならば、いっそ自ら絶とうと思い立ち、自分への手向けの曲として、月光を選んだのです。
あの日、僕は確かに一線を超えた感覚がありました。
それでもそんな僕の事を、君が救ってくれました。
再び君の所へ戻りたい一心で、何とか今日まで頑張って来ましたが、どうやらそろそろ限界の様です。
最後の別れを交わした日、君が涙を流す姿を見ながら、僕は自分の選択が本当に正しかったのかどうか、ずっと自問自答していました。
本当は君を連れて行きたかった。最期の一瞬まで君と共に生きたかった。でも、生と死の境界線を踏み越えて、今を生きる君を、死に行く僕の道連れにするわけにはいかないと思ったのです。
真実を伝えるのが遅くなってしまい、本当にごめんなさい。
今はとても清々しい気持ちです。君に出会えて本当に良かった。
僕はいつだって、こちら側から君の事を想い続けています。
どうか僕の分も、素晴らしい人生を送ってください。』
「こんなのってないよ――」
私はその場に崩れ落ちて、大声で泣いた。
震えるような字で書かれた手紙からは、彼の切実な想いが伝わって来る。
彼が亡くなった事が悲しくて、こんな運命を与える神様が憎くて、それでも愛されている事が嬉しくて――。
私の心の中は、感情の坩堝となった。
ああ、いつだったか、彼との問答を思い出す。
この感情は、全て愛情の裏返しなんだね。
私もようやく、愛の真実を知った。
いつかの様に床へ滴る涙が、儚い音を奏で始めると、愛の慟哭は終わる事もなく、やがて美しい調べとなって部屋の中に響き渡り、月明かりの様に私を包み込んだ。
ひとしきり泣いた私は、机の上のカップに手を伸ばした。
すっかり冷めてしまった珈琲は、やっぱり少し、ほろ苦かった。
私と彼と月光ソナタ 秋山太郎 @tarou_akiyama
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