第3話 月明かりの夜の裏側

 鐘を叩いて新年を迎え、豆をまいて鬼を払った後は、甘い足音が聞こえてくる。

 そうして季節が過ぎていったある日、彼は私に電話をかけて来た。


 ――とても大切な話があるんだ。


 私ははっきりとした理由も伝えられずに、彼の部屋に呼ばれた。

 いつも綺麗に片付けられた部屋の中は、微かにほろ苦い香りがする。


「急に呼び出してごめんね。珈琲で良い?」

「うん、良いよ。ありがとう」


 私の返事を聞くと、彼はキッチンへと向かった。


「でも急に改まって言うから、ちょっと驚いちゃって」


 私は何気ない風に、そう呟いた。

 もしかしたら、結婚の話かもしれない。ご両親に挨拶を、何て言い出すのかもしれない。

 もしそうだったら、どうしよう――。

 私は自然に顔がほころぶのを、どうしても抑えられなかった。

 





「はい、お待たせ」


 そう言って彼は、珈琲を運んで来てくれた。

 私はビンの蓋を開けると、角砂糖を二つ取り出して、ポンポンッとカップの中へ入れる。


「あれ、今日はいつもより少ないね」

「良いの、ダイエットするから」


 私は幸せが絡み付くお腹を、少し恨めしそうにさすった。


「そう、でも無理はしないでね」

「え、ちょっと! そんな深刻そうな顔をして言わないでよ」


 彼があんまり真面目にそう言うので、思わず笑ってしまった。


「だってほら、君は甘いものが大好きだったから。少し心配で……」


 彼は苦笑いを浮かべていた。






「それで、大事な話なんだけど――」


 彼は姿勢を正して、真剣な表情をしている。


「ちょっと待ってね」


 私はついに来たと思い、深呼吸をして心を落ち着かせる。


「ふぅ……良いよ、続けて」


 しっかりと彼の瞳を見据えて、そう言った。


「実はね……仕事の関係で、引っ越さないといけなくなったんだ」

「えっ、本当に?」

「うん。色々あってね」


 そういえば、引っ越す可能性が……なんていう話はしていたかもしれない。

 私はあまり本気にして聞いていなかった。


「ご、ごめん。ちょっと驚いちゃって。それで、どこへ行く事になったの?」


 そう聞きつつも、私の頭の中では既に、彼へ付いていく方法を何通りも考えていた。


「それは……とても遠い所なんだ」


 彼は沈痛そうな面持ちでそう言った。


「そ、そうなの……」


 地方、ではなさそうだ。離島とかだろうか? 言い方からすると、国外も十分にありえる。


 私の脳内では、目まぐるしく様々な光景が走り回っていた。


「だから、本当にごめん。君とはもう、一緒にいられない」


「うん――えっ?」


 ――君とはもう、一緒にいられない。


 彼の声が、私の心の中で何度も反響していた。

 その音の意味を飲み込むのが恐ろしくて、頭が理解する事を拒否している。


 きっと何かの間違いだ。


 ついこの間までは、とても楽しく過ごせていたはずだ。

 私が何か――。


「私が何かしちゃった? もし傷つけるような事を言っていたら、謝るから! 本当にごめんなさい!」


 口をついて出てきたのは、そんな言葉だった。こういう時は、いつも自虐的な思考になってしまう。

 私が悪かったから、責任は私にあるの、あなたは悪くないから……。

 結局いつまで経っても、私は自分に自信が持てなかった。


「いや、違う。誤解しないで欲しい。君は悪くないんだ。全部僕が――」


「嫌! そんな事を言わないで! 私が悪いから! 全部私のせいなの!」

「違う、違うんだよ。ああ……本当に、何て顔をしているんだ」


 彼はひどく悲しそうな顔を浮かべて、私の事を見つめている。

 私は今、どんな表情をしているんだろう。

 何が正しくて、何が悪かったのか分からない。

 頭が沸騰しそうで、何も考えられない。

 心の中は、荒れ狂う大嵐だった。


「落ち着いて、冷静に――」

「――?」

「…………」


 気が付くと私は、天井を見上げていた。

 周囲の音が何も耳に入らない。

 心臓の脈打つ音だけが、脳内にずっと響いている。

 何だろう、とても懐かしい感覚だった。


 ――そうだ、プールの中に潜って、上を見上げたときはこんな感じだったな。


 ゴポゴポ……という音だけが耳の中に入って来て、地上の雑音が聞こえなくなる感覚。

 照りつける日差し、反射する光。

 キラキラしていて、とても眩しかった。

 私を縛り付ける、全てのモノから解放された気分で――。

 その間だけ、私は私でいられたのだ。


 塩素の匂いが少し懐かしく感じて、鼻の奥が、ツーンとする。

 私の心から、想いが形になって溢れ出した。






「少し、落ち着いたかな」


 私は弱々しく頷いた。彼の姿が、幾重にも重なって見える。

 机の上で小さく跳ねた涙は、微かに儚い音を立てて私の周りを包んでいった。

 それを見た彼が、そっとハンカチを手渡してくれる。


「あり……がとう」


 彼の優しさが心に刺さって、再び目頭が熱くなる。


「その……今日はもう、やめようか」


 彼がそっと呟いた。


「ううん、平気。もう落ち着いたから」

「そんな顔で言われても、説得力がないよ」


 彼がこちらを見ながら、いつもの苦笑いを浮かべる。

 私は鼻をすすって、目元を拭いた。もう塩素の匂いはしないのに、鼻の奥はずっとヒリヒリする。


「大丈夫だよ。ちゃんとあなたの言葉で聞かせて」


 私は精一杯の笑顔を彼に向けながら、心の準備を整えた。


「うん、分かった」


 彼はしっかりと姿勢を正すと、大きく深呼吸をしてから話を続けた。


「君の事は、心から愛しているよ。僕の人生で、これほど好きになった女性はいない」


 普段は照れて、絶対に口にしない言葉だ。


「だから駄目なんだ。君を連れて行く事は出来ない。とても、とても愛しているから――」


 彼の顔が、くしゃり、と歪んだ。

 そう言えば、こんな顔は初めてみるな、と私は思った。






「君と出会った日の事を覚えているかな」


 月明かりの夜の事だ。

 私にとって、忘れる事が出来ない記憶でもある。首を縦に振って、彼の言葉を待った。


「――実はあの夜、僕は人生を終わりにしてしまおう、と思っていたんだ」


 彼の言葉を聞いた私は、頭を鈍器で殴られた様な衝撃を受けた。


「とても……そう、とてもショックな事があってね」


 彼が月光ソナタを演奏していたその意味を、表の部分しか理解出来ていなかったみたいだ。

 瞳をゆっくりと閉じて、出会った日の事を思い出す。


 そう言えば確か、死や葬送のイメージだと解釈される事もあると言っていたし、こんな夜にぴったりだ、という事も言っていたはずだ。

 私は月明かりが綺麗だから、そう言ったのだと思っていた。


「だけどね、余韻に浸る君の姿を見て、僕はちょっと興味をひかれてしまってね。そのまま言葉を重ねる度に、君のことが、その、――」


 きっと照れ笑いを浮かべているに違いない。


「街でデートをして、一緒にケーキを食べて。君の笑顔はいつも僕を救ってくれた」


 違う、救われていたのは私の方だ。


「僕の話を聞きながら、珈琲を飲んで。君はいつも角砂糖を六つ入れるんだ」


 微かな苦味とたっぷりの甘味が混じった珈琲は、あなたの様な味がするから。


「一緒に並んで歩くだけで、何だかとても心地良くて。僕は愛の意味を知ったよ」


 私は彼の言葉に耳を傾けながら、思い出を一つ一つ、宝物の様に心の中へとしまっていった。


「君と過ごした時間は、僕の人生で一番輝いていた。だから……」


 ――ありがとう、愛しているよ。そして、さようなら。


 部屋の中は冷めた珈琲の様に、冷たくて、ほろ苦かった。

 どうしても止まらない涙が、スタッカートを刻みながら、ずっと儚い音を奏で続けていた。



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