第2話 真実の愛
「ねぇ、真実の愛って何だと思う?」
私はうつ伏せになって、頬杖をつきながら足をプラプラさせている。
今日は一日、彼の部屋でゴロゴロしながら過ごしていた。
「愛の真実じゃない?」
即答する彼に、私はかみつく。
「もう、本気で聞いてるのに!」
「怒らないでよ。僕だって本気で答えてるんだから」
彼は少し眉尻を下げて、どこか困った様な表情をしている。
「この曲はね、真実の愛がテーマなんだって」
この部屋に来るといつも流れている音楽は、彼が私のために選んでくれたものだ。
私はその曲について、自分なりに込められた意味を紐解こうとしている。
「よし、まずは愛が何なのかを考えないと駄目だよね」
「今日はまた随分と哲学的だね」
彼は読んでいた本を机に置くと、キッチンへと向かった。どうやら珈琲を淹れ始めた様だ。部屋中に良い香りが漂い始めている。
するとキッチンから、彼が私に質問を投げかけて来た。
「好きの反対は何だと思う?」
「えっ、急に何?」
「いいから、答えてみて」
そう言われて私は、何となく思い浮かんだ単語を口にする。
「嫌い?」
彼は質問を続ける。
「嬉しいの反対は?」
一体この問答に何の意味があるのだろう、と私は少し不満に思った。だから語尾にその気持ちを乗せてみる。
「悲しいで良いんじゃない?」
彼がキッチンから顔をのぞかせて、微笑んでいる。
駄目だ、彼はいつだって自分の生きたい様に生きている。こういう人に嫌味を言っても、私がむなしくなるだけだ。
「それじゃあ、愛の反対って何だろうね」
「うーん……」
愛。
love――。
「憎しみ、とか?」
「憎しみの反対は慈しみだってさ」
「慈しみと愛って、少し似てるじゃん」
「でも、何か違和感を感じない?」
「それは……まぁちょっと感じるかも」
私は起き上がってから、胸の中に膝を抱えるようにして小さく座った。
膝の上にあごを乗せると、そのまま思考の海にズブズブと沈んでいく。
「他には、無関心って答える人もいるね。マザーテレサの言葉を引用しているらしいよ」
気付けば彼が隣に座っていた。そして、あれも色々と背景があるんだけどねぇ、と言いながら、カップに珈琲を注いでいる。
優しく机に置かれたカップから、ほろ苦い香りが立ち上り、鼻腔をくすぐった。
「砂糖はそのビンに入ってるから」
「うん、ありがとう」
机に置かれたビンから角砂糖を六つ取り出した私は、それらを次々とカップの中に落としていく。
「またそんなに入れて」
「だって甘い方が好きなんだもん」
私はそう言ってカップを傾けた。微かな苦味とたっぷりの甘味は、本当に病みつきになる。
一息ついた私が眺める光景は、幸せの味がした。
「そういえばさ、冷蔵庫にプリンが一つだけ残っていたんだ」
「あっ食べたい!」
「それじゃあこれで決めようか」
こちらが表だよ、と言って彼はどこからか一枚のコインを取り出した。
指の上へ乗せると、器用に両手を使って動かしている。
「あなたの得意なやつじゃない」
コインの勢いはグングンと増して行く。
私の瞳は、懸命にコインを追いかけるように動いているはずだ。
表と裏を交互に見せながら、コインは軽快に指の上を歩いている。
そして彼の手の中へと収まった。
「はいっ!」
コツン、と小さい音がして、机の上に優しく彼の手が置かれる。
「こんなの全然分からないよ」
私がそう言うと、彼はいたずらっぽく笑いながら、そっと手をよける。
「えっ、どういうこと?」
机の上に置かれたコインは、縦に立っていた。揺らすと倒れそうで、いかにも儚い。
「これがさっきの答えってこと。愛の反対はね、愛だと思うよ」
そう言って彼は、プリンのふたを開けた。
私は彼の言葉の意味を必死に頭で考えているが、あまりピンと来ない。
「愛にはね、裏表が無いんだよ。それが真実だと思うな」
プリンを口へと運びながら、彼は話を続ける。
「ポジティブな意味も、ネガティブな意味も、どちらも内包している不思議な言葉なんじゃないかって僕は思ってるよ。きっと愛は表裏一体なんだ。それに、とても儚い」
うーん、と言って私は唸る。
そろそろ溺れそうだ。
彼の手が、視界の中でせわしなく動いている。
「そうだなあ」
私が未だに思考の海の底にいる状況を見て、彼はあごひげを右手で触りながら、もう少し説明を加えてくれた。
「愛情の裏にある愛情には、きっとネガティブな意味が込められていると思うんだ。その中身をのぞいた時に、たぶん君がさっき答えた様な単語が並んでいるんじゃないかな」
「じゃあ、憎しみも愛情なの?」
「君がそう思うなら、そうかもしれないね」
その答えはずるい、と私は思った。
「――何か、うやむやにされた気分がする」
「そうかな、僕はプリンが美味しかったから満足してるよ」
私は、はっとして彼の手を見た。
「ひどい! そのプリン、駅前のお店でしか買えないのに! 半分は残してくれるのが愛でしょ!」
「全てを飲み込むのも、また愛ってことだよ」
「あなたが飲み込んだのは、プリンじゃない!」
そう言って彼の大きな背中を叩く。
「分かった、分かったよ。それじゃあ、今から駅まで買いに行こうか」
「もう……まぁ良いけど」
そうして私達は、駅前のお店までプリンを買いに行く事にした。
師走に入って、最近は随分と寒くなった。
「もうすっかり暗いね。それにすごく冷えるよ」
口から零れる白い吐息は、珈琲に溶かした砂糖の様に、暗闇へと甘く溶けていく。
「でも、何とか買えて良かったね」
彼が右手に掲げた箱には、プリンが二つ入っている。
「はぁ、また明日から仕事かぁ」
「僕の部屋から出勤するの?」
「ううん、一度うちに帰る」
私は空に浮かんだ月へと両手を伸ばした。
かじかんだ手に、はぁーっと息を吐き出すと、ほんのりと湿って、暖かい。
「ほら、ちょっと貸して」
歩みを止めた彼が左手を伸ばすと、私の右手をポケットの中へと引きずり込んでいく。
「あっ……はは」
少しゴツゴツとした彼の手は、指先の皮が厚くて硬い。何故かそれが彼そのものみたいな気がして、私は何だかちょっとおかしくなって、思わず笑ってしまった。彼もそんな私の顔を見ながら、微笑んでいる。
絡み合う私達の指が固く結ばれると、私は体の芯からじんわりと熱がこみ上げてくる様な気がした。
「あったかいね」
そう言ってから、少し俯く。高いヒールは、もう履く必要がなくなった。
鼓動が刻むリズムに合わせて、歩き始める。
――Adagio、ゆっくりと。
語源は心地良い、だったか。
月光ソナタもこれくらいの速度だったな、と私はそんな事を考えながら、彼に寄り添って歩いていた。
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