私と彼と月光ソナタ

秋山太郎

第1話 月光ソナタ

「黄色い線の内側まで、下がってお待ちください」

 

 駅のホームでは毎日同じアナウンスが繰り返されており、大勢の人間がそうする様に、私も淡々と列に並んだ。

 あの黄色い線は明確に生を死を分けているようだが、果たしてそれはどこまでが真実なのだろうか。

 死の淵にあって、どうしても生き長らえたい人間は、正に生きていると言えるだろう。一方で、私の周りには死んだ魚の様な目をした人間がたくさんいる。果たしてこれで、本当に生きていると言えるのだろうか。


 例えば歩道と車道を分ける白線の様に、私の人生に伸びる白線は、私の意思とは関係なくどこまでも続いていて、この社会では、その白線からはみ出す事は許されないのだ。踏み越えた瞬間から、その人間には社会的な死が待っている。

 

 他人の顔色を伺いつつ求められている言葉や行動を考えて、決められたルールに従いながら、退屈な毎日を生きていく。

 そうやって日々社会的に生きている私の心は、まるで音符が次々と零れ落ちていった楽譜の様に、不協和音を鳴らし続けている気がした。

 





 来る日も来る日も職場と自宅を行き来している。

 履き続けるヒールの高さは、きっと私の虚栄心そのもので、両足は無理やり窮屈な型に押し込められている様だ。

 そんな痛みに耐えていた休日出勤の帰り道、私は珍しい光景を目にした。

 一人の男性が、路上でギターの演奏をしている。


「あっ、この曲――」


 幼い頃に通っていたピアノ教室で、先生が弾いていたのを聞いた事がある。

 何ていう曲だったっけ、と記憶を探りつつ、まばらな聴衆の輪へと吸い込まれるようにして向かって行った。


 ――わぁ、素敵。


 まるでその旋律が、私の方に寄り添って来る様な感覚があった。いや、逆か。きっと私の方から寄り添っているのだろう。

 周囲の人間は、瞳を閉じながら思いに耽っている様だった。


 もう日が落ちて、月が上る頃合だ。私は夢中になって演奏を聴いていた。ピアノの名曲をギターで奏でるのも味があって良いと思える。

 月明かりの下で紡がれる調べは、情緒溢れる風景を想起させ、私は演奏が終わった後も余韻に浸り続けていた。






「楽しんでもらえたかな」


 急に声をかけられて、私は現実に引き戻される。


「あ、ああ、はい。とても素晴らしい演奏でした」


 演奏をしていた男性が私と目線を合わせるために、少し屈みながら静かにこちらを見ている。

 優しそうな表情を浮かべているけれど、その瞳は吸い込まれる様な深い黒色だった。

 

「月明かりが綺麗だったからね」

「月明かり、ですか?」


 私が夜空を見上げると、確かに今日は雲が出ていないみたいで、ウサギが餅をつく様子まで見ることが出来そうなくらい月が良く見える。


「ああ、そうだ! 月光ソナタ! ベートーヴェンの幻想曲風ソナ、タ……」


 ようやく思い出せた記憶の断片をすくい上げると、少しすっきりとした気分になった私の声は、自分が思っているよりずっと大きくて、言い終わる前に恥ずかしさがこみ上げて来た。

 それを聞いた彼は、にっこりと微笑んでいる。


「とても良い曲だよね。今日みたいな夜にぴったりなんだ」

「えっと、揺れる湖面に映る月明かり、浮かぶ小舟、それから――」


 私はちょっと気の利いた事を言わないと、と思って、どこかで見た文章を必死に思い出しながら口にした。


「レルシュタープの言葉かな」

「た、確かそうだったと思います。何だか少しロマンチックな感じがしますよね」

 

 彼は私の言葉を否定も肯定もせずに、静かに椅子へ腰を下ろした。

 何か、ちょっと凄みを感じさせる。


「曲の裏側を知ると、もっと違った面白さがあるかもしれないよ」

「裏側ですか?」

「作曲された背景なんかがね、ちょっと意外だったりするんだ」


 彼はじっとこちらを見つめながら、話を続ける。


「嘆き悲しむ場面、死や葬送の場面なんかをイメージして作られたものだ、っていう話なんかが有名だね」

「えっ、そんな話が……」

「一方で、愛が込められている、なんていう話もあるよ」


 自分の知らない世界を照らしてくれる彼の話は、私の興味を引き付けてやまない。


「ベートーヴェンと言えば不滅の恋人っていう話があってね。これも色々な解釈がされていて、実は200年経った今でも、謎は完全には解けていない、なんて言われているんだ」


 どんどんと熱を帯びていく彼の言葉はどこか蠱惑的こわくてきであり、私は気付けば時間も忘れて、彼の話に耳を傾け続けていた。






 それから私は、週末になる度に彼の音楽を聴きに行った。クラシックやポップ、他にもあまり馴染みのないジャンルまで、多様な曲を演奏してくれた。

 演奏の合間には簡単なマジックを披露しながら聴衆を集めており、私は彼の多才さに驚かされもした。


 やがてお互い連絡を取り合う様になり、一緒に出かける様になり、気が付けば、休日はずっと彼と一緒に行動するようになっていた。

 次に会える日を心待ちにしながら、指折り数えている自分がいる。

 彼に惹かれて行くにつれて、自分の知らない世界へ少しずつ足を踏み入れている気がして、その度に私の胸は弾むように軽やかになっていった。


 五線譜に音符が書き込まれていく様に、彼の音楽は優しく私の中へと染み込んでいく。それがとても心地良かった。



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