冬凪ぎ

棗颯介

冬凪ぎ

 ———大丈夫。わたしはここにいるから。

 ———その代わり、約束。もう泣かないこと。

 ———じゃあ、あとはよろしくな、……。


 夢を見ていたような気がする。

 どんな夢だったかは思い出せないけれど、多分、小さな頃の夢だ。そんな漠然とした感覚だけが胸に残る。夢なんてそんなものだ。

 ジリリリリと耳元でけたたましく鳴り響く目覚まし時計で目を覚ました時、自分を出迎えてくれたのは母親の声や近所の幼馴染の少女の顔などではなく、冷たさで心まで突き刺さるような自室の冷気だった。朝起きた時の部屋の体感気温で、その日の朝に雪が降っているかどうかなんとなく分かる。生まれてからずっとこの雪の降る街に暮らしていれば誰でもそうだろう。予想通り、部屋のカーテンの隙間から見える窓の外には綿のような白く小さなものが空から降り注いでいるのが見てとれた。

 目覚まし時計を止め、寝ぼけ眼で時間を確認する。朝の七時二分。目覚まし時計にセッティングした時間通り。当たり前ではあるけれど、そのことに対して煮え切らない違和感を覚えるのは、数ヵ月ほど前まで自分が目覚まし時計というものを一切使ったことがなかったからだろう。そんなものを使わなくても、あいつは毎朝毎朝、平日も休日もお構いなしに俺の部屋に押しかけては名前通りの明るい声で俺を起こしにきてくれていたから。

 「ほら、起きなさいよ!」なんて言いながら部屋のカーテンを開け放つあいつの後ろ姿が、今となってはまるで夢のようだ。

 

「あー、じゃあ今日は先週の夏休み明けテストの答案を返却するぞー」


 授業の一時間目。数学教師のその声に、クラス中がにわかにざわつく。俺は、至って無表情。別にテストの結果に自信があったとか、勉強なんてどうでもいいと思っているわけじゃない。ただ、これから教師が一人一人呼ぶ名前の中に、あいつがいないことがたまらなく寂しいだけだ。

 テストの結果は、散々だった。間違いが多すぎて一つ一つ直す気にもならないし、教師の解説を聞いてから部分点を貰おうとイチャモンをつける気にもならないから、その時間はずっと教室の窓から外で降り続ける雪を見ていた。あいつも今頃、病室の窓からこの雪を見ているんだろうか。何を思ってみているんだろう。そんなことを考えながら。


 放課後、目の前の席に座っていたクラスメイトの男子に声をかけられた。


「立花、この後みんなで明日の小テストの勉強会やろうかって話してるんだけど、お前どうする?」

「あぁ、悪い。俺はパスで」

「大丈夫か?今日のテストもそんなに良くなかったんだろ?卒業は大丈夫だろうけど進路とか……」

「気にすんなって。それに俺はどちらかというと一人で勉強した方が捗るタイプだからさ」


 嘘だ。そもそも勉強を真面目にやったことなんてテスト直前の日くらいしかない。それに一人で勉強するより、あいつに教わりながらやった方がずっと覚えが良かった気がする。

 クラスメイトに手を振って校舎を出た俺は、家にも寄らずそのまま真っすぐ病院へと向かう。病室のドアを開けると、今日のあいつはいつもよりも顔色の良い笑顔で俺を出迎えてくれた。


「あ、ゆうくん。今日もお疲れ様」

明音あかね、調子はどうだ?」

「うん、昨日沢山寝たから今日は元気かな」

「そっか、良かった」


 ベッドに寝ているアイツの傍でパイプ椅子に腰を下ろし、肩にかけていたほぼ空っぽの鞄を床に下ろす。鞄にかかっていた雪がはらはらと床に落ちると、それはあっという間に小さな水滴となった。


「雪、今日も降ってるんだね」

「あぁ。ていうかここの部屋の窓からも見えるだろ?それに、雪の降らない日の方が珍しいじゃないか。でも、夏休みが明けてもこうも雪が降り続けるっていうのは勘弁してほしいわ、本当に」

「……そうだね、本当に」


 明音はどこか気落ちしたように視線を落とす。やはり、いくら暖房設備が充実している病院と言っても雪が降れば寒かったり心細くなったりするものなのだろうか。

 明音の気分を明るくしてやるべく、俺は今日学校であったとりとめのないことを話してやることにした。


「今日この間のテストの結果が返されてさ、もう散々だったわ見てくれよこの点数」

「優くん、昔っから数学苦手だもんね。私が一晩中寝ずに教えてあげてやっと赤点ぎりぎりだったし」

「いや、お前いつも朝方には俺の机の上で寝落ちしてたろ?」

「あれ、そだっけ?」


 幼馴染の長澤明音ながさわあかねが原因不明の病気で入院したのは、今年の夏休みが始まる一ヵ月ほど前のことだった。いつもの授業中、黒板の前で英文の問題を解答していた明音が突然倒れたときは結構な騒ぎになったっけ。何しろこの明音が体調不良で学校を休んだり、ましてや誰かの前でぶっ倒れるなんてことは幼馴染の俺だって一度も———


 ———……うっ、うぅぅ………。


 ———一度もなかった。すぐに救急車で病院に運ばれて検査を受けたけれど、結局何が原因で明音の容態が日に日に悪くなっているのかは分かっていない。何の前触れもなく突然発熱したかと思えば、ろくに食事も摂っていない日に大量の嘔吐、脳には何の痕跡もないのに三日三晩目を覚まさなかったこともある。もう滅茶苦茶だ。

 当然、そのまま今日までずっと入院。学校の方には休学願を出しているらしいが、明音が学校にも家にもいないという現実を俺は未だに受け入れることができていない。昔から、明音とはずっと一緒だったから。幼稚園の入園式で一緒に手を繋いで入場したことは今でも覚えているし(自分でも気持ち悪いと思うけれど)、まだ体が弱くて気弱だった俺をいつも守ってくれていたし、家族や友達と喧嘩したときは一緒に悩んでくれて。小学生とか中学生になると俺もそれなりに成長して力も度胸も身についてきたから、今までほど明音に頼ったりすることも減ったけど、それでもこいつとはなんだかんだずっと一緒だった。

 腐れ縁だと思っていた。きっとこのまま高校を卒業すればお互い別々の道に進んで、少しずつ疎遠になっていくんだろうと思っていた。でも、あの日明音が俺の日常から姿を消して、俺が今までどれだけ明音の存在に救われていたのか分かった。鬱陶しいほど世話焼きなこいつに朝起こしてもらえることがどれだけ嬉しかったか、二人でテスト前に夜通し勉強したのがどれだけ楽しかったか、いつも明るく「優くん」と呼んでくれる声がどれだけ俺を安心させてくれたか。

 そんな幸せな時間を失ってしまうことが、俺はどうしようもなく辛かった。

 このまま、明音をこの狭い病室に残して自分だけ高校を卒業してしまうことが、寂しくて寂しくて仕方なかった。

 いっそ、俺もこいつと一緒に留年したいと思うほどに。俺は馬鹿だからもしそうなっても親も先生も納得するだろう。でも、明音はきっとそんなことに納得してくれないだろうな。幼馴染だ、それくらいわかる。

 俺にできることは、こうして毎日病室に通い詰めてその日あったことを明音に聞かせてやるだけ。本当にそれだけ。たったそれだけのことしかできない自分が無力で情けない。


 いつか、同じようなことを思った日があった気がする。

 確か———


「——くん、優くんってば」

「えっ?」

「来月の文化祭の話。うちのクラスの出し物って何になるのかな?」

「あ、それはお化け屋敷か射的のどっちをやるかで揉めてるとこだよ、主にうちの男子が」

「ふーん、私はお化け屋敷がいいかなぁ。人をおどかすようなことってあんまりしたことないし」


 それは明音があの日教室で倒れた日にみんながびっくりしたよ、なんて不謹慎なことを咄嗟に思い浮かべる自分の意地の悪さが憎たらしい。


「高校最後の文化祭、私もみんなといっしょに作れたらいいのにな」

「作れるさ。だから今は早く病気を治そう」

「……うん、そうだね」


 その日も俺は、面会時間が終了するまで明音と一緒に過ごした。

 一ヵ月後の文化祭に、明音の姿はなかった。

 十二月の終業式も、クリスマスも、大晦日も、元旦も、一月の始業式も、模試も、センター試験も、大学入試も、明音はずっと病室で過ごしていた。

 雪は、ほとんど毎日降り続けた。この世界が雪で埋まってしまうんじゃないかと思うくらい、ずっとずっと降り続けた。まるで時間が止まっているかのように。


 二月が終わりを迎えた頃。

 志望大学の二次試験を終えた俺は、その足で明音の病室を訪れた。


「明音、入るぞ」

「優くん、どうぞ」


 ゆっくりとドアを開けると、ほんのりと顔を赤くしてベッドで寝込んでいる明音が俺を出迎えた。


「優くん、受験お疲れ様」

「あぁ、やっと終わったよ」

「どう?自信は」

「まぁ、今の俺の学力に合うレベルのところだからな、多分大丈夫なんじゃないかな」

「そう、良かった」


 明音は力なくそう言って笑ってくれたが、俺はといえば複雑な心境だった。別に試験に不安があるわけじゃない(絶対の自信があるわけでもないが)。ただ、受験が終わったということは、高校生活で後に残るのは卒業式だけだ。それが終わると、俺は本当にこの町を離れることになるんだろう。

 そうなれば、明音とも。

 明音だけを置いて、俺はどこに行くんだろう。

 俺だけが、先へ行こうとしている。

 俺にいろんなものをくれた明音を残して、この先の人生を進もうとしている。

 そんなの、いやだ。

 俺は———。


「ねぇ優くん」

「ん?どうした、明音」

「今日の雪、どうだった?」

「雪?」


 雪がどうとはどういうことだろう。


「至って……普通?」

「そっか。優くんってさ、雪好き?」

「嫌いだな。こんな雪降ってばっかりの町に住んでいたら嫌いになるだろ普通。」

「そうだよね」

「でもさ、逆にここまで長い間付き合うともうなんかそれがこの町の個性に見えるというか、使いすぎて傷とか汚れがついた道具みたいな、そんな愛着も感じるかな」

「……愛着かぁ。優くんは一年中雪が降るこの町を好きでいてくれるんだね」

「そりゃあ、生まれ育った町だし」

「嬉しいよ、すごく」


 明音はそう言って笑顔を見せる。だが、普段見せる屈託のないそれとは違い、どこか悲しみのようなものを感じさせる切ない笑顔だった。


「変なこと聞くんだな明音は」

「ごめんね変なこと聞いて」

「そういえば明音、お前もうすぐ誕生日だよな」

「そうだね、三月一日だからあと三日ほどで私も十八歳だよ。優くんの代わりにエッチな本買ったりもできるね」

「いやそんな本買ってないし!」

「えーほんとにー?」


 ニヤニヤしながらこちらの顔を覗き込む明音。ちなみに買ってないというのは嘘です、すみません。


「何かプレゼントしてほしいものとかあるか?」

「じゃあ、優くんのおすすめのエッチな本で」

「病院の売店で聖書でも買ってきてやろうか」

「冗談だよ……うーん、そうだなぁ………」


 明音はしばらく視線を泳がせると、やや小声で答えた。


「優くんと一緒に外、行きたいかも。二人で駅前歩いたり、一緒に美味しいもの食べたりしたい」

「お前、それは」


 病人、ましてや原因が分からない病気の患者が外出許可を得るのがどれだけ難しいかは明音自身が一番よく分かっていることだろう。主治医にお願いしたところで却下されるのは目に見えていた。

 でも、もしそれが明音の本心から望むことなら、俺は叶えてやりたかった。


「分かったよ」

「……いいの?」

「その代わり、途中で具合が悪くなったらすぐに言うんだぞ。病院に駆け込むから」

「嬉しい……ありがとう、優くん」


 三月一日。明音が十八歳の誕生日を迎えた日。俺は明音を連れてこっそりと病院を抜け出した。明音はほとんど病院のベッドで寝て過ごしていたから、自分の足で歩くこともできなくて、自然と俺が背中におぶっていく形になる。最初は自分で歩くと言っていた明音だったが、俺の背中に乗るなり、「優くんの背中、暖かいね」なんて言ってしがみついてきた。

 もうすっかり日も落ち、道沿いの街灯の明かりに照らされて今もまだ雪が降り続けていることがかろうじて認識できる。俺は小さな折り畳み傘を差そうとしたが、明音に止められた。


「……優くん、傘、いらない」

「なんで?風邪ひいちゃうよ?」

「今日だけでいいから、雪の冷たさ、感じておきたいんだ」

「分かったよ、お姫様がそう言うなら」

「ありがと……王子様」


 俺と明音は、雪の降り続ける街を一歩ずつ踏みしめるように歩いていく。降り積もる雪道には、俺一人の足跡しか残らない。そこに明音の足跡が並んで残らないことが、ひどく寂しかった。


「さーて、それじゃまずは駅前に行こうか。この間できたばっかりの美味いクレープ屋があるってクラスの女子に聞いたから、夕飯前に行ってみる?明音、甘いもの好きだったよな?」

「うん……そうだね…」

「それ食い終わったら、駅の近くにあるレストランで飯食べようぜ。なんとなんとコース料理だ。食後には誕生日のケーキも出るぞ、予約したときにケーキのネームプレートに『明音』って書いてくれって店員さんにお願いしといたから」

「そっか…楽しみだよ……」

「そういや予約の電話したときに、明音って漢字を夕焼けの方の『茜』と勘違いしてたんだよ店員さん。もしかしてそうなんじゃないかと思ってその場で確認しといてよかったわ、出てきたときに違う茜さんのお祝いになっちゃったら白けちゃうもんな」

「…そう、だね……」

「それからさ、後で一緒に映画館行こう。明音が好きだった映画の続編、まだやってるかなぁ」

「………どうだろ……」

「あと、前から明音と行きたいと思ってた街の展望台も行っときたいなぁ。まぁ展望台から見ても雪景色か、あはは」

「…………」

「それが終わったらカラオケで朝まで二人で歌いまくって、ゲーセンでUFOキャッチャーやったり、明音に似合う服買ったりとか、ケーキ食べた後なのに二人でスイーツパラダイス行ったりとか」

「…………」

「そのまま病院に戻らないで、久しぶりに俺の家に遊びに来るのもいいかもな。父さんも母さんも驚くだろうけど、俺がうまいこと話しとくから。うちの母さんが作る料理、久しぶりに明音と一緒に食べたいな。そんなこともう何年もしてなかったろ?」

「…………」

「なんだよ明音、もう寝ちゃったのか?起きろよ、お前にとって最高に楽しい

一日になるんだから」

「…………」

「明日も、明後日も、明々後日も、その次の日も、ずっと、ずっとさ。ずっと、明音と、一緒に………」

「…………」

「明音、起きろって。なぁ明音」

「……優くん」


 ほとんど消え入りそうな明音の声が聞こえた。もし今歩いているのが人も車もいない道でなかったなら、背中に背負っていたとしても聞こえなかったかもしれない。


「……ありがとう………大好き………」

「おいおい何言ってるんだよ、告白するならもっと雰囲気のあるデートスポットが相場だろ?まるで——」


 雪とは違う、暖かい何かが自分の頬を伝っているのが分かった。


「まるで、もう、言えないみたい……じゃねぇか………うっ、うぅ………」


 泣きながら、明音の体温を背中に感じながら、俺は一度も明音の顔を見ようともせずに歩き続ける。もう、どこを目指していたのかも分からなくなっていた。ただ、今振り返ってしまったら、明音の顔を見てしまったら、本当に何もかもが終わってしまう気がした。

 なぁ、明音。俺はお前とこれからも一緒にいたいんだ。お前がこれからも傍にいてくれるなら、大学なんて行かないでずっとこの町でお前の傍にいたい。今までお前にしてもらった分、それ以上だって、俺がお前に楽しい時間をあげるから。朝起こしてくれなんて言わない。勉強教えろなんて言わない。お前に泣きついたりなんてしない。これからは俺がお前を守るから。

 だから———。


「明音、俺も、お前が好きだ。だから……好きだからさ…。これからも、俺と……一緒に、いてくれよ……うぅ…」


 ただそれだけでいいから。

 お前が傍にいて笑ってくれて、俺の名前を呼んでくれるだけで、それだけで幸せなんだよ、俺は。

 

「なぁ、明音……せっかく王子様がお姫様に告白したのに、なんで、無視するんだよ?俺達両想いなんだぜ?恋人だぜ?もう今日で明音も十八歳になって、結婚だってできる。もっと喜んでくれてもいいじゃん……なぁ、明音」


 ほとんど感情に任せて俺は背中に背負った明音の顔を見た。

 

「明音……?」


 明音は、俺の肩に頭を乗せて穏やかな笑顔を浮かべていた。その身体からは、およそ力と呼べるものが感じられなかった。今自分が手を離せば彼女の身体は簡単に雪に埋もれてしまうと確信できるほどに。


「もう……。泣かないでって、あの時……約束したのに」

「あの時……何言ってるんだよ明音…?」

「……ごめんね、優くん……私のせいで、優くんを、悲し、ませて……」

「何言ってんだよ、俺は……」

「あの日……私が…いなくなったりしなければ、優くんが“ここ”に来ることもなかったのに……」

「だから何言ってるんだよ明音!」


 そこで初めて立ち止まり、背中に背負った明音を下ろして正面から力強く抱きしめた。もう高校生になって俺の方が随分と背が伸びたことを改めて実感する。その身体は抱きしめてみれば背負っているとき以上に華奢で、力加減を間違えればそのまま身体が折れてしまいそうだ。


「俺も明音が好きだから、だから、俺達はこれからも一緒だろ……?」

「ありがとう……優くん……でも、もう……無理なんだ……」


 どうして、と聞く前に明音が告げた。


「もう、冬が終わっちゃう」

「そうだな、もう終わりだぜ、相棒」


 その時、俺は道沿いの家屋の窓ガラスからこちらを覗き込む俺を見た。


▼▼▼


 ずっと昔。

 小さな頃。

 雪の降る日。

 小さな子供が泣いていた。

 大切な人が、自分の世界から失われたことを嘆いて。

 楽しい日々が永遠ではないことを知って。

 

 ———泣かないで。


 誰かがそう言った。

 子供が声のした方を向くと、窓ガラスの向こうからこちらを覗き込む自分と、“彼女”がいた。

 窓ガラスの向こうはずっと雪が降り続けていて。

 でもその二人はガラスの向こうにはいない。

 

 ———大丈夫、私はここにいるから。

 

 でも僕のいるここにはいないよ、と子供が言う。


 ———なら、俺が代わりにそっちに行くよ。


 ガラスの中の自分がそう言った。

 いいの、と子供が言う。


 ———その代わり、約束。もう泣かないこと。


 分かった、もう泣かない。

 “彼女”の言葉に子供がそう返すと、ガラスの中の自分がこちらに手を伸ばす。


 ———じゃあ、あとはよろしくな、もう一人の俺。


▲▲▲


 ジリリリリ。

 枕元で鳴る目覚まし時計で意識が覚醒する。

 夢を見ていたような気がする。

 すごく冷たいんだけどどこか暖かくて、幸せなんだけど切なくて、だけど永遠ではない。どこへも行かず、どこにもたどり着かない、心安らぎはするけれど永遠ではない。

 とても幸せな夢だった。

 目覚まし時計を止めると、ベッドから上半身を起こして軽く伸びをする。六時三十二分。どういうわけかいつもより三十分近く早く起きてしまっていた。

 その答えに自力で思い至るよりも前に、自室のドアが勢いよく開け放たれた。 


「あれ、優くんなんでこんな早い時間に起きてるの?せっかく私が久しぶりに起こしてあげようと思ってたのに」

 

 無遠慮に部屋に入ってきたそいつが、部屋のカーテンを勢いよく開ける。それまで遮られていた外の日の光が一気にこちらに差し込んできた。眩しい。一瞬目を細める。


「今日も良い天気だね。うん、最高の門出日和だよ、優くん」


 優くん、と呼ぶそいつの顔を見たとき、俺はどんな顔をしていたのだろう。もうずっと会っていなかったはずなのに、つい昨日も会っていたように感じる。

 ———“約束、泣かないこと”。

 昔、誰かにそんなことを言われた気がする。ずっと、涙を堪えてきたような気がする。ずっと、弱い自分を誰かに守ってもらっていたような気がする。

 でも、もういいよな。

 嬉しい時くらい泣いてもいいよな、明音。

 

 目の前に立つ少女は懐かしい満面の笑顔で言った。


「優くん、卒業おめでとう!」


 もうすぐ、春が来る。

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冬凪ぎ 棗颯介 @rainaon

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