聖女は世界を救わない。

桜香えるる

聖女は世界を救わない。

 異世界転生したならば、それが勇者や聖女のような立場としてであれ、あるいは乙女ゲームのヒロインや悪役令嬢のような立場としてであれ、なにがしかのハッピーエンドへ向かっているんだろう――そう無邪気に信じていた時代が、私にもあった。

 しかし現実は、私をことごとく絶望へと突き落とした。


 私、リサ・ベルニードは異世界の公爵令嬢として転生し、今は王妃の座にある。

 上辺だけ見れば、これほど恵まれた人生もないだろう。でもそれは、本当に上辺だけの話なのだ。


 私の母親が産後すぐにこの世を去ったあと、父公爵は母の喪があけきらぬうちに後妻とその娘を家に迎えた。その後妻というのは、母が存命の頃から囲っていた愛人であるらしい。そして私よりほんの一月遅く生まれただけの娘サルビアは、紛うことなき父の実子であるそうだ。

 案の定というべきか、継母と義妹の私に対する当たりはきつかった。豪遊三昧する二人の陰で、私は毎日召使いのごとくこき使われた。

 体罰も日常茶飯事の過酷な日々だったが、誰も私を助ける者はいない。父もそんな私などいないものかのように放置するばかりだった。


 そんなある日、なぜか私の婚約者が我がヴァンダル王国の王太子であらせられるジェイムス殿下になったと知らされた。妃教育も毎日長時間みっちりと行われるようになった。

 王太子の妃だなんて、こんなの誰よりもサルビアがねだりそうなものなのに。そして、彼女が望めば彼女のものになるはずなのに。どうして……?

 与えられる毎日の教育をこなすために公爵家の屋敷にこもりっぱなしで世間知らずだった私は、この疑問を解消する間もなく婚礼の日を迎え――そして、愚かにもその時ようやく全てを理解したのだ。

 私は、妃という名の奴隷なのだと。


 王太子、いや、婚礼とともに国王に即位したジェイムス陛下には、すでに数多の愛妾がいた。その中には、サルビアもいた。彼女は陛下のお気に入りとして、特に可愛がられているらしい。

 彼らは愛欲と享楽に耽溺するための隠れ蓑として、私を使うつもりなのだ。陛下にはすでに男女合わせて五人もの子どもがいるらしいから、私には世継ぎを生むことすら期待されていない。

 王妃の名のもとに面倒な公務を押し付けられる、体の良い秘書。それが「王妃リサ」の実像だったのだ。


 それに気付いたときには、もう逃げ出すことは出来ないところに追い込まれていた。

 こんな余計なところで異世界要素を持ち込まないで欲しいと思うのだが、陛下は初夜の床で「お前を抱く気はない」と宣言するとともに私の右足首に「奴隷の足輪」なるアイテムを強引に装着してきた。

 今はもう魔法使いなど国に一人いるかどうかだが、魔法が隆盛を極めていた古代には様々な魔道具が開発されており、これはその時代の遺物であるらしい。

 装着された私は、「ご主人様」、つまり陛下の命令に逆らえなくなる。逆らったら、死ぬほどの苦しみが全身を苛む。

 そんな状況におかれた私は、心を殺して毎日ただひたすら公務をこなすだけの機械人形になった。

 私が言いつけ通りちゃんと働いている限りは、陛下も誰もこちらに干渉してくることはない。

 体罰が繰り返された公爵家での日々に比べれば幾分ましだろうかと思った私は明らかに精神を狂わせていたけれど、それを指摘する者もなかった。


 そんな日々の中で、ふと前世を考えることもあった。思えば、前世の私の人生も似たように酷いものだったな、と。

 両親から虐待され続けた果てに殺された享年八歳の女の子、理沙。

 唯一の心の救いは、ほんの数日だけ一緒に遊んだ同い年の近所の女の子、愛美と過ごした短くも楽しい思い出くらいだろうか。

 「また遊ぼうね」というありふれた、されどどこまでもきらきら輝く約束は、ついぞ果たされることはなかった。


 私の人生は、いつだって救われない。

 かつても、今も、この先も。

 ……そう、思っていた。


「リサ、今日の午後に異世界から聖女を召喚する。聖女が来たら、お前がその世話役をしろ。これは命令だ」

「承知いたしました」


 陛下の高圧的な態度はいつものことだ。そして、奴隷である私には承諾する以外の選択肢はない。

 私の顔など見ていたくないとばかりにすぐさま愛妾のいる宮殿へと踵を返した陛下の後ろ姿を見送りながら、条件反射で返答していた私はようやく指示された内容に思いを巡らせる。


 聖女――それは我がヴァンダル王国に常に一人存在してきた「魔法使い」のことであり、攻撃・防御・治癒などありとあらゆる魔法を使える唯一絶対の存在である。なぜか総じて女性であるため、「聖女」の尊称を贈られている。

 聖女が死ぬと次の聖女が現れる、ということが繰り返されてきたのだが、ここ五年ほど空位が続く異常事態となっていた。

 聖女がいなくても今のところ差し迫った危機はないので、国政は問題なく回る。しかし、どうやら陛下はこの状態を解消することにしたらしい。

 それは国を思う国主の判断というよりは、愛妾の中に毛色の違う美しき聖女を混ぜて愛でてやろうという邪心のような気がするけれど。


 聖女召喚は、二百年ほど前に実施されたのが最後と記録されている儀式で、異世界の乙女を特殊な魔道具を使って喚び出すのだという。

 召喚などと言えば聞こえは良いが、された方にとっては拉致に等しい非人道的な行いだろうと思う。

 止められるものなら止めてやりたい。しかし、奴隷である私は陛下に逆らえない。

 私に出来ることはもはや、聖女を出来る限り丁重にもてなすことくらいしかないのだ。


「私のせい……私のせいで、余計な人の運命まで狂わせてしまった……」


 震える声で呟きながら、私はこっそりと左足の付け根に触れる。

 実は、私には誰にも言っていない秘密がある。それは――私こそが次代の聖女だということだ。

 聖女には体のどこかに特別な紋章が現れるというが、私の左足の付け根にはまさにそれがあるのだ。紋章に他の聖女の体の一部――たいていは前聖女の遺髪――を触れさせると、聖女の能力が覚醒するらしい。

 だが、私の紋章は場所が場所なので誰も見ることはなかった。普通の令嬢ならば入浴は侍女などの手を借りるだろうが、私はあの家庭環境なのでずっと一人でやってきた。夜伽をすればさすがに露見しただろうが、陛下は私に触れなかった。

 聖女と知れたなら、聖女の仕事も加算され今まで以上に馬車馬のように働かせられるかもしれない。私を虐げる人たちのためにこれ以上何かしたくはない。

 そう考えた私は聖女であることを放棄することにして、事実誰にも気付かれることなく過ごしてきた。そのせいで見ず知らずのどこかの少女が犠牲になってしまうなんて、夢にも思わなかったのだ。

 私の不手際だ。私のせいで、不幸な少女を生み出してしまう……。


 自責の念に苛まれ鬱々とした気分ながらも与えられた公務をこなし、迎えた聖女召喚。

 陛下をはじめとしたお偉方や、面白い見世物気分で儀式を見守っているらしき愛妾たちが前面に出ている中で、私は後方からつつがなく進行される儀式の様子を見守っていた。

 罪滅ぼしにもならないけれど、せめて聖女様には心穏やかにお過ごしいただけるように真心を込めて尽くそう――私にはもうその一心しかなかった。


「それでは、これより聖女様をお招きする!」


 陛下がよく通る声で宣言したことで思考の海から引き戻された私は、陛下が持つ魔道具へと意識を集中させた。陛下の手の中には、黒地に黄金の装飾が施された少し大きめの箱がある。

 陛下はその箱を、これまた装飾がたっぷり施された金色の鍵を使って開けた。刹那、周囲に眩い光が溢れ出し、誰一人として目を開けていられなくなる。

 そして、光が収まって人々がゆっくりとまぶたを開くと――そこには、一人の女性が倒れ伏していたのだ。


「儀式が成功したぞ!!」

「聖女様だ!! 聖女様がお越しになったんだ!!」


 狂乱状態の場の中で、私はただ呆然と女性を見つめることしか出来なかった。だって、彼女はまるで……。

 混乱している間にも、私を置き去りにして状況は進行していく。女性が目を覚まし、起き上がったからだ。


「聖女よ、よく来てくれた。召喚に応じてくれたことに感謝しよう。私はヴァンダル王国の国王でジェイムスだ」


 外向きの、嫌味なほど紳士然とした爽やかな笑顔を浮かべて女性に手を差し伸べた陛下だったが……女性は陛下をきっと睨めつけ、差し出された手を払い除けた。


「黙りなさい!」


 国王を怒鳴りつけた女性に場は一気に緊張状態に陥るが、女性は止まることなく怒りをあらわにして叫んだ。


「召喚? 聖女? ああ、これが流行りの異世界召喚ってやつなの? ……ふざけないで! 私はそんなこと望んでない! いきなり見知らぬ土地に有無を言わさず連れてくるなんて誘拐よ! 犯罪行為よ! さっさと日本に返して!」


 長い黒髪を振り乱した女性に慌てて誰かが駆け寄ってなだめようとしたようだが、女性は誰をも拒絶して「早く戻して!」という言葉を繰り返す。

 陛下はやや引きつった笑みながら、友好的な姿勢を辛うじて維持して静かに声をかけた。


「残念だが、君を国に戻す方法はない。代わりに、我が国は君を聖女として相応に遇することを約束する」

「この誘拐犯が! あなたの言うことなんか信じられないわよ!」


 女性はすべてのものに敵対心を隠そうともしない。それはそうだろうと思う。何の罪もない女性が、こんな理不尽な目に遭わされているのだから。

 そんな女性を一瞥し、陛下はおもむろに私に視線を投げてきた。つかつかと歩み寄ってきたかと思うと私の腕を強い力で引っ張り、引きずるようにして私を女性のいる方向へと連れて行く。

 最終的に、私は陛下に突き飛ばされるようにして彼女の面前へと立たされた。


「これは我が国の王妃リサだ。君の世話役としてつけるから、存分に使うと良い」


 陛下は私に彼女をなだめ落ち着かせるという困難で損な役回りを担わせたかったのだろう。

 しかし、私たちはただひたすらに互いの姿を見つめた。何かを確認するかのように、じっと。


「……ねえ、理沙? まさか理沙なの?」

「そう、そうだよ。愛美……!」


 ああ、何ということだろう。前世の私にとってたった一人の救いだったその人に、再び巡り会うことが出来るなんて。

 私たちは言葉も出ず、ひしと抱きしめ合うことで溢れ出る感情を伝えた。

 それは永遠のように思われたけれど、実際にはほんの短い時間だった。無粋な声に邪魔されたからだ。


「何をしている、リサ。離れろ」


 陛下の声が聞こえた瞬間、足首から全身に鋭い痛みが走り抜け、私はその場に崩折れた。奴隷である私は、陛下の命令には逆らえない。

 何も知る由もない愛美は「どうしたの?」と驚いているが、私は必死に体勢を戻して愛美から一歩引いた位置に立った。


「余計なことをするな」

「申し訳ございません、陛下」


 私は表情を消し、従順なばかりの機械人形に戻ろうとする。私を助けるものはなにもない、それがいつものことだったから。

 しかし、そこに飛び込んできたのは愛美の声だった。


「まさか、ここでも酷い目に遭わされているの?」

「……」


 私は淡く笑んで沈黙を貫いたが、それが何よりも雄弁に私の現状を愛美に悟らせたようだった。


「……許せない。どうしていつも、理沙がこんな目に遭わなきゃいけないのよ」

「……愛美」

「また、私は何も出来ずに大切な友達をみすみす失うの? ……そんな苦しみ、もう嫌よ……!」


 愛美は拳をわなわなと震わせていたが、顔を上げると決然とした面持ちで私に強い視線を投げかけてきた。


「理沙、聖女って何が出来るの?」

「聖女はありとあらゆる魔法を操ることが出来るはずよ」

「そう。……聖女召喚なんていうふざけた運命から逃れることが出来ないのなら。だったら、上手く使ってやるわよ。私は私に与えられた全てでもって、あなたを救ってみせる!」


 愛美は私に近づいてきて、それはそれは綺麗に笑った。


「理沙、あなたを今苦しめているのは何?」

「……私の足首に嵌った枷が、私の行動を縛り付けているの」


 少しドレスをまくって足輪を見せると、愛美はそれに手をかざして「こんなもの、壊れてしまえ!」と忌々しげに呟いた。

 すると、足輪はあっという間に粉々に砕け散った。どうやら異世界の聖女は最初から能力を覚醒させているらしく、魔法は愛美の思うままに発動された。


「理沙、他にあなたを苦しめているものは何?」

「……結婚前は公爵家の、そして結婚後は王家の奴隷。搾取されるばかりの、つまらない人生だったわ」

「理沙の周りにいるのがことごとくクズだなんて……爆ぜろよ」


 ぼそりと言うが早いか、二箇所からどかーんという凄まじい爆発音が響いた。一箇所はここ王城で、もう一箇所は方角からして公爵家の屋敷で。

 あちらこちらから悲鳴が上がり、混乱が広がる。愛妾たちの耳障りな悲鳴や陛下の怒鳴り声も聞こえる。

 しかし私は、私たち二人以外の人間のことなどまるで気にならなかった。私の存在する空間は私と愛美の二人で完結されていて、まるで膜の内側から外の喧騒を眺めているような、そんな他人事の気分だったから。


「理沙、あなたはこれからどうしたい?」

「私は……他の誰でもない私自身のために生きてみたい。許されるならば、それが愛美のそばであったなら尚更嬉しい」


 真剣な瞳で問いかける愛美に、私もまた真摯に自分の心情を吐露する。

 公爵令嬢とか、王妃とか、そんな大層な立場は別に要らないのだ。そんなことよりも、毎日を笑って生きることが出来るなら、その方が何倍も良い。

 そして、私のために怒ってくれる優しい愛美を、このまま私に縛り付けたいわけではない。愛美は愛美の思うままに、彼女自身の幸せを追って欲しい。しかし、愛美のそばに在って、愛美がくれた以上の真心を私も彼女に返せたらと思う。


 愛美は大きく頷き、手を差し伸べてきた。


「分かった。一緒に行こう、理沙」

「うん。……うん!」


 私は迷わず愛美の手を取った。しかしそれを妨害しようとする男が、一人。


「許さぬ……許さぬぞ、リサ!! 衛兵、あの女どもをひっ捕らえよ!!」


 怨嗟のこもった陛下の鋭い声に従い、武器を構えた大勢の兵が私たちに向かってくる。しかし、そんなものは聖女の敵ではなかった。


「私たちを邪魔しないでよ!!」


 愛美が叫ぶと同時に、地面から何百本もの蔓がにょきにょきと生えてきて兵の体を絡め取っていく。それで取りこぼした兵には、愛美の「来るな!」という一喝とともに爆風が迸った。

 あっという間に出来上がった無力化された兵たちの山を興味なさげに一瞥した愛美は、次いで視線をその奥に飛ばした。


「誰よりも理沙を苦しめたのは、あんたね。そんな男が国王ですって? 笑わせないでよ……!」


 愛美が怒りを爆発させるとともに、とりわけ太くて棘まで生えた蔓が出現し、一直線に陛下へと向かっていく。

 陛下は剣で叩き切ろうとしたようだが、それよりも蔦の動きのほうが素早かった。足を、手を、胴体を、次々と縛り上げられてしまえば、もはや身動き一つ叶わなくなる。

 さらに、拘束された陛下には、まだまだ許さないとばかりに特大の爆風も叩きつけられた。当然のことながら、風がやんだときには美しく飾られていたその姿はすっかりぼろぼろだ。

 とどめとばかりに指の一振りで蔦を動かし陛下を地面に這いつくばらせる格好にした愛美は、真上から陛下を睥睨して凄んだ。


「理沙には理沙自身の幸せを掴む権利がある。それは誰であっても侵害してはならないものよ。それが分からない輩に大切な理沙を預けるなんて出来ない!」


 そして、愛美はふっと空を見上げ、ぽつりと呟いた。


「飛びたい。どこまでも高く、どこまでも遠く。私と理沙を煩わせるもののない場所に行かせてよ……!」


 その瞬間、空が割れた。

 裂け目から閃光が四方八方に迸り、巨大な「何か」が空中に出現する。こちらに向かって豪速で飛んでくるそれは――。


「ドラゴンだ……」


 そう呟いたのは、果たして誰であったのだろう。真っ白な巨体に立派な双翼をはためかせるのは伝説的生物、ドラゴンに他ならなかった。

 存在一つで畏怖を抱かせる、神聖にして強大な生物を前にして、誰もが言葉を失う。

 その中を、愛美だけが平然とした顔をして、地面に降り立ったドラゴンの前へすたすたと歩んでいった。


「あなたは私たちを手助けしてくれるの?」


 ドラゴンは返事の代わりとばかりに、ぐっと身をかがめた。言葉を介さずとも、背に乗れと雄弁に語っている。

 それを見て、愛美は満足そうに微笑んだ。


「ありがとう。……理沙、行こう!」


 声をかけられて、私は慌てて愛美のもとへ駆け寄った。すっと騎乗した愛美が私の手を引っ張って、背の上に乗るのを補助してくれる。

 愛美はドラゴンの首元につかまり、私は愛美の後ろで彼女の腰に抱きつくような格好で収まった。

 私の姿勢が安定したのを確認した愛美は、自分が転がした数多の人間に視線を巡らす。最終的に陛下を蔑むような目でちらりと見て、口元だけで嗤った。


「永遠に、さようなら」


 愛美がそう呟いた瞬間ドラゴンは鋭い咆哮とともにばさりと翼を広げ、空高く舞い上がった。

 私を苦しめた人も、場所も、みるみる小さくなっていく。


「……まるで、ジオラマの世界に置かれた人形みたい」


 眼下に広がる景色がなんだか可笑しくて、私はくすりと笑みを零す。

 恐ろしく、強く、大きく、どこまでも私を雁字搦めにして離さないと思っていた全てはそう思わされていただけの虚像で、実像は案外小さくて脆いものだったのだなと実感する。

 私を飼い殺す檻だったものは爆破され、私を隷属させ搾取し続けた人間たちは這いつくばらされ、逃れられないと思っていた苦しみは終焉を迎えた。


「ふふふ、あはははは!」


 これほど愉快なことがあるだろうか。これほど爽快なことがあるだろうか。

 心から笑ったことなんて、人生で一度もなかった。しかしこれからはきっと、何度だってあるだろう。これはそのほんの序章にすぎない。


「ありがとう……本当にありがとう、愛美。私を救ってくれてありがとう」

「私も理沙に救われたよ? いきなり訳のわからない世界に放り込まれて、自分の寄って立つ基盤を何もかも失って。絶望に狂うかと思ったけれど……。それでも理沙がいてくれたから。理沙とともに在るという羅針盤を手に入れられたから。だから私は今、前を向いていられるんだ」


 からりと笑う愛美は、どこまでも眩しく美しい。彼女の曇りのない瞳に映り込んだ私もまた、とても晴れやかな顔をしている。

 ああ、今ならば何だって出来てしまいそう。空高く、まるでこの世界に二人きりになったような空間で、私たちはそんな全能感に浸る。

 それはあながち間違いではない。だって、聖女はありとあらゆる魔法を行使する特別な存在。目の前に立ちはだかる壁があったとしても、そんなものは叩き潰してしまえば良い。それが出来るだけの力があるのが、聖女だ。


「ふふっ、互いが互いの救いになれるなら、こんな素敵なことはないわね!」


 聖女は世界なんか救わない。

 聖女が救いたいのは、かけがえのない大切な友人だから。

 広い広い世界の中で、そんな聖女の物語が一つくらいあっても……良いよね?

 誰にともなく呟いた声に呼応するようにドラゴンの鋭い咆哮が天を震わせ、眼下に広がる未知の大地へと降り立つことを告げた。


【完】

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