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すごろく

第1話

 ああ、なんだ、夢か。

 そこはきたねえ私の六畳半で、頭の下敷きになった携帯電話が断末魔をあげていた。手にとってみると、映画を見ていた途中で眠ってしまったらしく、自動再生で流れたのであろう見知らぬ映画が勝手に再生されていた。ヒロインのはらわたが飛び出るシーンが流れ、ひどく寝覚めが悪い。

 目が覚めてから、何をするでもなく、しばらくぼーっとしていると、徐々に頭の中が明瞭になっていく。それでもなお、昨日何をしていたのかを思い出すことは全く叶わない。

 しかしそれは、私の横で寝ているチューハイ缶がその空虚さを以て説明してくれた。

 昨日も酒を飲んで、映画を見て、一日を終えた、……のだろう。一昨日も、一昨々日も、きっとそうだ。

 もうずっとそんな生活を続けている。生産性のない日々だ。映画の内容も酒がみんな忘れさせて、これっぽっちも覚えてないんだから、なおさら愚を極めている。

 映画を止めて時間を確認する。午後一時。寝すぎたせいか、二日酔いか、頭が痛い。いや違う、こいつが頭の下に潜り込んできたせいだ。甲高いがなり声でわめいていたせいだ。私は恨みを込めて、携帯電話をベッドに放り投げた。

 そこで、何かが脳裏によぎった。なんだろう、何か忘れているような、そんな感覚に取り憑かれる。しかし思い出そうとすると、頭痛が邪魔をした。

 ふと気づく。

 そうだ洗濯物が洗濯機の中だ。丸一日放置されたそれを助けてあげねばならない。

 私は渋々、きたねえ六畳半を進んだ。

 一日ぶりに対面した下着たちは臭かった。こいつらは洗い直さなければならないのだろうか。干せば匂いはとれるのか。

 ベッドに戻り、携帯で調べてみる。答えは明白だった。夏は二時間、冬は三時間が放置のタイムリミットだと教えてくれる。今は秋なので、間をとって二時間半。

 タイムオーバーだ。春夏秋冬いつにせよ。

「馬鹿なふりをして知らなかったことにしよう」

 いつもの私であればそんな風に、面倒くさがってそのままベランダに干していた。そうしなければ、洗っては放置するというループが続くだけだ。

 ただ、今回は雑菌や細菌とは別の理由があって、私は愚行を中止せざるを得なかった。

「そういえば、これから嵐なんだっけ」

 ズボラは自覚しているが、いくら私とて、秋風に下着を攫われるのはごめんだ。そういうわけで嵐が去るまでは、洗濯機の中でこれらをまだ寝かせてあげることにした。

 私は、生乾き臭を放つ洗濯機のふたをさっさと閉めて、冷蔵庫で道草食って、ベッドに戻った。

 携帯電話を手に取って映画を再生する。

 そして、缶に口をつける。

「つまんねえ、映画」


 *


 ああ、なんだ、夢か。

 そこは見知らぬ畳の部屋。

 目覚めたばかりで、頭が寝ぼけているのだろうか。昨日何をしていたのかを思い出すことができない。しかしそれは、私を下敷きにして眠っているこいつがその寝顔を以て説明してくれた。

 そうだ。私は昨日から大学の後輩と旅行に来ていて、今は旅館だ。

 私は力を込めて、そいつをひっくり返した。

 彼女は、二回転して、「ギャッ」と断末魔をあげ、それからむくりと起き上がる。

「ひどいです先輩。酔いつぶれた先輩をここまで運んだのは私なのに」

「ありがとう、でもおまえが私をマットレスにしたせいで、随分ひどい悪夢を見たよ」

「へえ、どんな夢です」

「私が非常にだらしのない奴になってるんだ」

 彼女はそれを聞いてけらけらと笑う。

「何笑ってんだ」

「先輩こそ何言ってるんですか。今すでにもう、だらしないじゃあないですか。昨日のこと、覚えてないんですか?」

「えーと、駄目だ、思い出せない。でも今の私とも違う。夢での私は、部屋も汚いし、一日中ベッドの上にいるし、洗濯物も放置する」

「それこそ、私が世話する前の先輩じゃあないですか」

「そんなことない」

「はいはい」

 反論する私を横目に、彼女は携帯電話を確認する。

「チェックアウトまでまだ、一時間強ありますね。どうします」

「別に今日は花畑を見に行くだけだろ。ゆっくりしてもいいんじゃないか」

 この旅行の目的は花畑にある。その花畑というのは、或るアニメの、それはもう感動的だというラストシーンに出てくるものらしい。見に行って写真を撮りたいとこの後輩が言い出した。

「そうですね。じゃあゆっくりしましょうか」

 彼女が同意する。それを聞いて、私は再び布団にもぐった。

「ストーップ。なに寝ようとしてるんですか」

「ちょっとだけだよ」

「そういいながら寝すぎて、慌てて支度するのがオチなんです。だから起きてください」

 彼女はそう言って私に跨がる。

「おきろぉ」

 そしてぽかぽかと叩いてくる。

「わかった、わかった。起きるから。でも暇じゃないか」

「今は旅行中ですよ。暇なんてさせません。それじゃあトランプしましょう。昨日の夜は、先輩が酔いつぶれて、とてもできたもんじゃあなかった」

「トランプって、修学旅行生じゃあるまいし。というか、酔いつぶれた私にトランプさせたのか?」

「スピードしたんですけど、大変でした。困った奴でしたよ、先輩は」

「酔い潰れた人間にそんなことさせる方が悪いだろ」

 彼女はくつくつと笑って、トランプを切り始める。

「ほんとにするのか?」

「せっかく旅行に来たんだから遊びましょうよ」

「トランプは家でもできるだろ」

「先輩は、家ではトランプしてくれません」

「……わかったよ。じゃあスピードをしよう。本当の実力を見せてくれるわ」

「カード切ったの無駄になったじゃないですか」

 彼女はため息をつくようにして笑った。


 *


 気が付くと私はベッドの上で横たわっていて、そこは私の六畳半。外がひどくやかましい。雨風が窓を激しく打ちつけているのだ。

 徐々に意識がクリアになっていく。それにつれて自分の感情が熱を失い、冷めていくのが分かった。

 カードを持っていた私の手は、いつの間にか虚空を掴んでいるだけになっていた。

 ああ、そうだ。夢だ。

 しばし私は静止する。

「起こすなよ」

 私は窓を叩き返す。そんな滑稽な自分に冷笑を漏らした。


 腹が鳴る。最後に何かを口にしたのはいつだっただろうか。答えは出ない。きっと、いつからか私は記憶喪失なんだ。

 自分がいつ起きて、いつ寝ているのかも判然としない。

 自分は起きている間、チューハイ缶を片手に映画を見ている。

 ただそれだけ、日常の外形だけが記憶の片隅に残存している。見た映画も、それを見て何を思ったのかも、いつ食事をとったのかすらも、みんな酒が忘れさせる。なんて無意味な生活なのだろう。

 そんな自分に呆れ笑って、ため息をこぼし、その後、酒を取りに冷蔵庫へ向かった。

 冷蔵庫の中には、お酒のお友達しかいなかった。肝心のお酒君がいない。窓が雨風に打ち付けられ、大きな音を鳴らす。さっき私が叩いたのを怒っているようだ。これではコンビニに行くことさえできそうにない。

 仕方がなく、冷蔵庫にある限りの食べ物を皿に盛ってベッドの上に置いた。これらは友達の友達なので案の定相性は悪かった。まあ、腹を満たせられたらどうでもいい。

 食事中、これらは味わって食べるものではないので、手持無沙汰になる。やはりこういう時、私は映画を見るのだ。

 映画を選ぶ時だっておかしな話があって、それは、どれが見たことがある映画で、どれが見たことがない映画なのかが、さっぱりわからないことだ。

 もう悩むのも無意味なことだから、適当に映画を選んで再生する。

 酒を入れずに映画を見るなんて久しぶりで、逆に違和感があるほどだった。昔は映画観賞中の禁酒を私に強制する奴がいて、酒に手をつけようものなら、手足を椅子に縛りつけられた。

 そう、そんな奴がいたのだ。そいつは映画が大好きな奴だった。

 私が映画を見るのも、そいつの影響だ。逆にそれ以外の理由はない。

 だけど私はあいつとは違って、映画に熱中できる性分じゃあないらしい。今見ている映画でも、主人公一行より、警備員のおじさんに同情心を寄せてしまっている。そのおじさんは特に落ち度もないのに、限りなく直接的に近い間接的に、主人公一行が原因で酷い死にざまをさらしている。

 こんな風に私は、物語の筋とは関係ないことが気になって映画に集中できないときが多々ある。例えば、主人公が何食わぬ顔で起こした大事故が気になったり、ヴィランに論破されてるじゃん、と思ったり。

 これを話すと、あいつはいつも笑った。

 そして「そんなのはどうでもいいんです」っていう。

 映画の世界では、主人公とヒロインの恋が成就するなら、法律なんてどうでもいい。世界が滅んだっていい。なんて言い出すのだ。「馬鹿なら人生何でも楽しめます」って。

 私は馬鹿なのに。人生何にも楽しくないよ。

 酒がないと、全く映画に集中できないじゃないか。


 そのうち、眠気が私を誘い、瞼が重くなる。

 ああ、映画がつけっぱなしだ。

「まぁ、いいや」

 私は瞼を閉じながら、自嘲するように呟いた。


 *


 ああ、なんだ、夢か。

 そこは揺れる列車の中。

 そして、隣には後輩が座っている。

「もう、どれだけ寝れば気が済むんですか、先輩」

 彼女は私の顔を不機嫌そうに覗き込む。どうしてか分からないけれど、そんな彼女の表情を見て、体がじんと熱くなり、涙が出そうになる。よく思い出せないけれど、きっと嫌な夢を見てしまったらしい。

 私は肩を寄せて彼女にもたれかかる。

「うーん? どうしたんですか」

「どうやら私、すっげえ疲れているらしい」

 彼女は、私の様子を不思議がっていたが、じっとそのままでいてくれた。それは、とても心地のいい時間で、ずっとこうしていたいと思うのだ。

「何笑ってんですか」

 いつの間にか笑みが溢れていたらしく、彼女はそれを可笑しそうに笑った。


 列車は終点に到着する。私たちは駅員に切符を渡し、列車を降りる。

 その駅は無人駅で、一緒に列車を降りた乗客はもうすでに駅を後にしたらしく、ホームには私たちだけが残っていた。

「ねえ、見て」

 私は線路を指さす。

「終点なのに、まだずっと線路が続いてる」

 自動販売機で飲み物を買っていた彼女は、それを聞いてこちらへ駆け寄ってきた。

「ああ、昔はまだ先に駅があったらしいですよ。今はもう廃駅になってしまったので、この線路も廃線ってわけです」


「ねえ、先に進んでみない?」

 私は自分の口から出た言葉に時間差で驚いた。普段の自分ではありえないような言動。ほとんど無意識だったのだ。あわてて訂正しようとしたが、彼女がそれより先に口を開いた。

「うん、行きましょう」


 私たちは線路の上を歩いている。

 それは、喧噪一つ聞こえない静かな場所。深緑の透き目から見える空は、青く透き通っていて、どこまでもそんな世界が続いている。

「これからどうするんですか」

「旅行中にこれからの話をするなんて、無粋な奴め。これからもなにも、うん。何も考えてない」

「そっかあ。先輩、サークル入りましょう。私と同じサークル」

「サークル?」

「そ、何か趣味を作りましょう」

「サークルねえ。お前は何に入ってるんだっけ」

「映研とジャズ研とお絵かきクラブです」

「多いな……。それに、今からサークルに入るって言ってもなあ。ちゃんと参加できるのは一年くらいだし……」

「じゃあ、サークルはともかく、何か新しく始めてみましょうよ。私がレクチャーしてあげます」

「そうだなあ。じゃあ、ギターでも始めてみようか。前に教えてくれたあの映画。あれがかっこよかった。それに、おまえも弾けるんだろ? 一緒に弾いてみたい」

「え! まじですか。きっと先輩にギターは結構似合いますよ。その気怠そうな感じとか。怠惰系半目ギタリスト」

「どんなギタリストだよ……。ところでさ。どれくらい練習すれば弾けるようになるんだ?」

「それは先輩次第です。でも、まあ私がつきっきりで教えてあげるんで、ゆっくり上達しましょうよ。うわー、帰るのも楽しみになってきました」

「旅行中に帰ることを楽しみにするな」

 私がつっこむと彼女は楽し気におどけて見せた。


 線路はどこまでも続いているように見える。この線路をずっと歩いていけば、世界の果てにたどり着くような、そんな感じ。そこに、本当の終点があって……。考えていると恥ずかしくてむず痒くなってしまうが、そんな妄想は私を愉快にさせた。認めたくないが、それほどまでに彼女との体験が私を高揚させているんだなと、そう思った。

 錆びた踏切が姿を現す。それは、半ば緑に侵略され、透き目に黄色をのぞかせる。役目を終えて自然に飲み込まれた人工物はもう、違和なくその世界の一部に溶け込んでいた。その世界で自分が命じられた役割を背負って、そこに立っているかのようだ。

 ここで道路に出ることもできたが、彼女はまだ、線路の先へと進むようだった。私もそうしたかった。

 先を歩くと、ここにはもう何年も人が立ち寄ってないのだろうか、線路は草花に隠されていた。私たちを除いて、人影はどこにも見えない。人類がいなくなってしまったかのような退廃的な光景。

 そんな景色に、私はみとれていたのだろう。その時、隣でシャッター音が鳴った。

「私を撮ったろ」

「うーん、何のことですか」

「まあ、いいけど」

「じゃあ次は、髪を耳にかけるしぐさでお願いします」

「こんにゃろ」

 私がカメラを取り上げようとすると、彼女は走って逃げていった。そして、振り向いてまたシャッターを切った。

「人に見せるなよ」

「ふふふ、了解です。あとで先輩にも送りますよ」

「いらないよ」

 私が走って、もう一度隣に並ぶと、彼女はまたシャッターを切るのだった。


 *


 ここはどこだ。意識がぼやけたままで、思考が定まらない、まどろみの中。

 なんだ。ああ、そうか……。ここは私の六畳半。

 徐々に意識がクリアになる。しかし、それを待たずに、外的要因が私の意識を強制的に覚醒させた。

 酷くうるさい

 警報が鳴っている。

 非日常的なその音が、私の恐怖心をひどく煽る。

 しばらくして、窓が大きく音を立てた。それこそ、誰かが思い切り外から叩いているかのような音が。

 部屋の中が、光に包まれる。そして、暗闇に突き飛ばされる。次は地を割るような轟音が鳴り響いた。

 暗闇の中、明かりを灯そうと電気のスイッチを入れるが反応しない。カチカチと、何度鳴らしても駄目だった。

 私にはまったく何が起きているのかわからなくて、心臓が脈打ち、手足が震えだす。

 少しでも、何か情報が欲しくて、カーテンを開く。

 そこには、悪夢としか思えない世界が広がっていた。

「竜巻?」

 嘘だ。こんな光景はありえない。こんなことあるはずがない。

 そうだ、これは……。

 きっと夢だ。

 この世界はおかしい。

 早く目を覚まそう。

 警報が鳴り響く恐怖の中で、私の心はどういうわけか、一筋の希望が見えたかのように温かくなっていた。


 *


 私たちは線路の上を歩いている。

 もうずっとそうしていて、長い旅路であるかのようだ。二人で、二人だけの世界を探索しているような、そんな気分。

「静かだな」

「人っ子一人いませんねー。怖いですか?」

「馬鹿なこと言うなよ。幽霊でも出るっていうのか」

「そういうことじゃないですよ……。変なこと言わないでください」

「なんだよそれ」


「先輩、もう私はくたくたです。おぶってくれませんか」

「実をいうと私も疲れてる」

「目的地はまだですかねー。もうそろそろで着くはずですが」

「ん? ああ、そうか」


「先輩、旅行の帰り、ギターショップに寄ってみませんか」

「ああ、いいよ」

「オッケーです。かっこいいの選んであげます」

「買うとまでは言ってないが……」


「ああ、きっとこのあたりですよ。目的地は」

 彼女は突然立ち止まった。そして、先に進もうとした私を手で制止した。

「そんなさきさき行かないでください。見落とすかもしれませんよ。注意してください」

「何を見落とすんだ?」

「死体ですよ」

「ああ、そっか」

 私たちは、再び線路の先を歩み始めた。


「ありました」

 彼女は声を上げ、湖のほとりを指さす。

 彼女が指さした方を確認する。

 そこには人の手が見える。それは全く動かない。体は木陰に隠れていて、手だけが見える。

「先輩はここにいてください」

 彼女はそれがある湖の方へと降りていく。

「いや、私も行くよ」

 私は彼女のあとについていった。

 木陰に隠れていた死体は近づくことで、全身が視認できるようになる。それは女性だった。その死体には目立った損傷はなく、ただ安らかに眠っているだけかのようだ。

「瑞希」

 私は、この子の名前をそっと零した。

 そう、私は彼女を知っている。

 彼女は私の後輩だ。

 彼女はここで、列車にひかれてしまった。私たち二人は行方知れずになった彼女の死体を探しに、ここまで歩いてきたのだ。ずっと、この長い線路の道を。


 ……は?


 いや、そんなのはおかしいだろ。

 ひとつ疑問が浮かべば、そのあとはもう、それが雪崩のように押し寄せてきた。

 私たちは死体を探しに来たんじゃない。そうだ。花畑を見に来たんだ。それはこいつが見に行きたいと言い出して、写真を撮りたいと言ったんだ。

 線路をたどったのは、私の思いつき。なのにその先に目的地があるなんておかしいじゃないか。

 そもそも列車なんて、この線路には通っていない。なぜならこの線路はもうすでに廃線になっているから。彼女を撥ねる列車なんて存在しようがない。

 それにおかしい。矛盾している。

 列車に轢かれてしまったのなら、どうして。

 どうして死体はこんなにもきれいなんだ。どうして外傷が一つとしてないんだ。

 私はこの瑞希の姿を知っている。見たことがある。

 化粧をしていて、美しくて、眠っているだけだとしか、到底思えなくて。でも私は、そんな彼女に花を手向けなければならなくて。

 それからずっと、目に焼き付いて離れない。

 この記憶は一体なんだ。

 こんなのおかしい。矛盾している。

 私は彼女に説明を求めようとする。ずっと隣にいた彼女に。

「どうしたんですか、先輩。ひどい顔をしていますよ」

 彼女は不思議そうに私の顔を覗き込んだ。


 ああ、なんで。なんでだよ、もう。

 私は彼女の名前を呼ぶ。そして尋ねる。


「なあ、瑞希。こんなのおかしいじゃないか。どう考えても」

「おかしいって、何がです?」

 彼女はきょとんと首をかしげた。


「だって、お前が、瑞希が……、二人いる」

 もうそれは、答え合わせのようなものだった。

 この矛盾に満ちた状況。どんな名探偵がいようとも、解決できまいこの矛盾。しかし、そんな謎を唯一解決できる方法があって、それはとても簡単なことで、或ることを自覚すればいいだけだった。

 口が震えて、思うように動かない。喉が乾いて声が出せない。

 大粒の涙がぼろぼろと地に零れるだけ。

 体が自分のものではないかのようだ。

 振り絞ろうとしても、出るのは嗚咽だけだった。

「先輩、大丈夫ですか?」

 彼女が慌てた様子で駆け寄ってくる。その声はとてもやさしくて。その顔はひどく愛おしくて。

 ああ、どうしてだよ。……瑞希。

 ようやく体が解放されたかのように声が零れた。


「ああ、なんだ、夢か」

 その瞬間、世界は色を失った。

 木草も湖も線路もなくなり、ただ、地平線だけが続いている。

 そこは、正真正銘の、私と瑞希だけの世界。


「ボーナスステージかよ」

 私は笑い交じりにつぶやいた。

「何笑ってんですか。先輩は情緒不安定だなあ」

 彼女はこんなでたらめな、私にとって出来すぎた世界を何も疑ってはいない。

「お前はばかかよ」

「次は毒吐くんですか! って、また涙がこぼれてますよ。どうしちゃったんですか。どうしたらもとに戻ってくれるんです?」

「全部、おまえのせいだよ。お前が隣にいてくれないないから」

「私はここにいるじゃないですか。ほら、ここにいます」

 彼女は私の手を握る。その手を私は涙で濡らしてしまう。

「ほら、泣かないでくださいよー」

 彼女も私につられて、泣きそうな顔をしている。おかしな奴だ。現実の瑞希もこんなやつだった。それがなおさら、私にとってはむなしいのだ。

「お前が教えてくれた映画、お前の解説がないと難しくてわからないよ。お前が教えてくれたギター、まだまともに弾けないままだよ」

「一体、なんの話ですか」

「お前がいてくれれば、そしたら、何でもできるのに」

 それからは涙で声が出なくなった。それからは、ただずっと、彼女の声を聴いていた。

「映画もギターも、これからも一緒に見ましょうよ! しましょうよ!」

「ずっと隣にいますよ、私は」

「いなくなったりしません」

「ずっと手を握っていますからね」

「ほら」

「ほら」


「ほら」

 彼女は最後まで、私の手を握り締めていてくれた。


 *


 そこは私の六畳半

 窓から差し込む眩い日差しが、意識の覚醒を促した。

 カーテンは開いたままになっている。ベランダにはぼろぼろの新聞紙が散っていた。

 ぐちゃぐちゃになった毛布を掛け直すと、内から携帯電話が落っこちてくる。時間を確認するためにそれを手に取ってロックを解除すると、一時停止されていた映画が再生され始めた。寝ている間、映画が勝手に再生され続けていたが、何かの拍子に停止されたらしい。

「一緒に見たっけ、これ。懐かしいな」

 私は伸びをしてから、ベッドを降り、六畳半を進む。

 そして、洗濯機に洗剤を入れて、スイッチを押した

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