桜桃
《百頭国 桜桃紀 一〇〇〇年 十二の月 二十四の日》
空とは
そのような神話がある国で生まれ、司祭を目指していた僕は、齢二九にしてその夢を叶えた。見習いではあるけれど。
そして未だにあの言葉の意味はわからずにいる。
「……わからない」
相も変わらず、聖書と睨み合いながら、僕はつぶやく。
「あー、やっぱりここにいた。相変わらずね」
失礼な台詞を吐く妻の次の言葉を聞かず、僕は立ち上がる。
「お父さんが呼んでたわよ」
「先生が呼んでるんだね?」
言葉が重なり、正解、と言って妻が笑う。
ありがとう、と言って、木陰を出た僕は教会に向かった。
■■
「失礼します。先生、急に呼び出してどうしたんですか?」
「ああ、来たね。実は、近々引退しようかと思っていてね……」
眉を上げ、おや、思ったより驚かないね、と続ける先生に、まあ、察してはいましたから、と僕は返す。
「なるほど。君は敏いからね……それでだ、私が引退してしまう前に、先生として、先達として、義父として……君に見せておきたいものがあるんだよ」
表情こそ笑顔だが、少なくともここ最近、この人からは感じてこなかった種類の真剣さを覚え、僕は思わず、一〇代の頃のように少し身構える。
「……見せたいもの? なんです?」
「この国の神話の、その原典だよ。実はね……君と初めて会ったときから、いずれこうなると思っていたんだ」
笑顔のまま、先生が言う。
「君は日本語を読めるからね。私と同じで」
■■
ここに通い続けて一五年以上が経つが、教会の地下へ降りるのははじめてだった。
螺旋階段が地下へ地下へと続いている。エレベータなどではなく、階段を採用している理由がわからない。すでに十階以上分の高さを、いや深さを? 下っていると思われたが、それも実際のところどのくらいのものか。
「これで半分くらいだ。はは、老体には堪えるな……今日にしておいてよかったよ」
「半分ですか。……先生、帰りは肩を貸すことになりそうですね」
そうなるかもしれんな、と笑う声が、上下の感覚が麻痺するような響きで反響した。ぐわんぐわんと。
■■
螺旋階段の終わりには、拍子抜けするほど小さな普通の鉄扉が待ち構えていた。
鍵すらもかかっていないそれを、先生は多少息を切らしながらも、気安い感じでがちゃりと開けた。そして、迎え入れられるままに、僕もその扉の中へと入る。
「……ここですか?」
「いや、まだだよ。ほら、そこの扉の奥が、そうだ。しかし、その前に……やっておかなくてはいけないことがある」
なんですか? と問い返した声は、全く違う意味で響いてしまった。僕がそれを口にするより早く、先生が懐から、何やら得体のしれないものを取り出したからだ。
「……それ、何ですか?」
二度目の問いを、より正確な形で僕は投げる。
「これは、
先生は、答えた。
実在しないはずの植物の名前を。
「君にはこれを食べてもらう。いや、私も食べるんだがね。そういう決まりなのだよ……聖書の原典を読むということは、ある種、危険が伴う。すなわち、知りたくもないことや気づきたくもないことに、人によっては出会ってしまうだろう、という意味でね。だから、その前に、これを食べてもらう」
「どういうことですか? これは……こんな、口封じのような真似が、決まり? それに、マンドラゴラなんて、そんな……」
困惑する僕に、先生は微笑む。
「口封じ、というのはいささか強い言葉だね。これはね、『言い訳』だよ。掃除人くん」
「……懐かしいことを言うじゃないですか、突然」
「ふふ……よく覚えているな。君はやはり優秀だ。そんな優秀な記憶力の君だからこそ、やはり、食べておいたほうがいいよ。これを。そうすれば、君がなにかを口走ってしまったとしても、幻覚の一つでも見たのだろう、で済ませることができるのだから」
「……なるほど。先生、これもあなたの優しさなんですね」
ありがとうございます、と。
僕は差し出された木の根を齧り、飲み込んだ。
これは本当にしきたりなんですか? の言葉も、一緒に。
■■
そして僕は聖書を読んで、知った。
旧い星で起きた悲劇と、そこから再起を図った人々のこと。
『空』という名のロケットと、のちに神になった男のこと。
何千年も前に死んだ作家とその作家の好きだった花のこと。
引き抜かれた空が叫びを上げたあの日の炎と光と音のこと。
ずっとわからなかったあの文が、ただの誤訳であったこと。
■■
「読み終えたかい」
部屋を出た僕を見て、聖書の写しから先生が顔を上げる。
「……ずっと待っててくれたんですね、先生」
「ああ。それで、どうかな?」
「ええ、やっぱり、なかったんですね、マンドラゴラ」
先生はニッコリと笑う。
これはね、この言葉が読めるものだけが楽しめる、秘密なのだよ、と。
いたずらっぽい笑顔は、見慣れた妻のそれに似ていた。
引き抜かれた空が叫びを上げる 君足巳足@kimiterary @kimiterary
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます