そしていずみは旅に出る。
月嶂秋成
第1話「青梅石神温泉 清流の宿 おくたま路」
ゴォッ! と特急列車がホームに風を巻いて走り去っていく。すれ違いざまの一瞬で、わたしの目は列車の行先表示が『特急あずさ』松本行きであることを見てとった。
いずみ「ふぁ……」
振ふり仰あおいだ電光掲示板から松本行きあずさが消えて、むなしく高尾行きが繰りあがる。西国分寺で降りるわたしにはおあつらえ向きの列車だ。
(ちょっと待って。それでいいの? いずみちゃん?)
誰かがわたしの心にそう囁く。
いずみ「よかぁねぇよ」
思わず、あまり人様には聞かせられない言葉遣いで呟き返した。
(だよね、だよねっ、そうだよね。だったほら、今! 旅に出ようよ、いずみちゃん!)
また、囁き。まぁわたしなんだけど。 ていうか松本行きってナニ? わたしが仕事終えて家路につこうっていう時に敢あえて松本って!
諏訪、蓼科、鹿教湯、別所、福地……松本は、そこを拠点に足をのばせば四方八方に温泉がある魅惑の大地なんだぞ!
行きたい。むしろ住みたい。だというのに現実はまるで優しくない。通過の一瞬、ドヤァて列車が行き先を見せつけて、ハッと見あげた掲示板は「物欲しそうに見てんじゃないよ」って松本という文字列をシュッと消す。シュッと! なんなんでしょうこの仕打ち。わたしだって松本の大地に降りたって『ここをキャンプ地とする!』って言いたいよ!
いずみ「マァツモトォォォォァ――ッ!」
ホームにいた何人かがギョッとしてわたしを見たが、恥じたら負けだ。毅き然ぜんとする。毅然と、プルプルする。
(もう無理だよ……我慢することないよ、いずみちゃん)
そう……そうだよね。なにも今からさっきのあずさに乗せてくれっていうんじゃない。ほんの小さな旅でいい。いま、わたしの立っているこの場所から一時間。明日そのまま出勤できるところで、どこか。
この時間の当日飛びこみじゃ泊めてくれるだけで御の字。観光とかも今回はパスで。
ほんの少し、日常から外れるだけでいい。たったひとつ――。
いずみ「イイ感じの、温泉がそこにあれば」
わたしの願いはそれだけ。あ、でもお風呂あがりにキュッと気持ちのいい一杯があれば、ちょっとアガるかもしれない。まぁでもそれは自分で用意すればいい。大事なのはお湯の具合。わたしにとって旅はイコール温泉なのだから。
一時間圏内……温泉……できればこの疲れ切った肌によさげな効能。スマホをペシペシする指が加速する。温泉情報が次々表示され、硫黄温泉を擁するお宿の情報で指がとまった。都内で硫黄ってめずらしい?
いずみ「フフヒ……ありますやーん」
青梅市ええと、二俣尾……って、どう行くの? 青梅行きや青梅特快というのはよく見るけど、最寄りは石神前駅……立川で乗り換えて青梅駅のもうちょっと先か。行ったことないけど ……それは素敵ってことだ。
移動経路の確認を終えた時には、電話していた。こんな時間になってからの受付で泊めてくれなんて非常識だけど、幸い部屋に空きがあって受け容れてもらえた。もちろん、時間的に遅いので夕食は終わっている。食事は朝食のみお願いすることになった。
立川で極めて適当に明日の着替えを仕入れたわたしは、急ぎ青梅行き列車に乗りこんだ。
青梅線というのは、どうやら青梅駅を境に運行本数の断絶があるみたいで。一刻も早く湯に浸つかりたかったわたしは、青梅駅で奥地への列車を待たず、タクシーに乗り換えて予約したお宿を行き先に指定した。
その車窓から、まだ見ぬ湯へ想いを馳せる。
運転手さんの話では、どうやらお宿は蛇だ行こうする多摩川にグルッと三方を囲まれた場所にあるらしい。せせらぎの音を聴きながら過ごせるとか。お湯のことしか頭になかったのがちょっと申し訳ないくらいに雰囲気もよさそうだ。
いずみ「……? へそまん? ……なに、へそまんって」
唐突に視界に飛びこんできた文字列に思わず反応する。うっかり声に出したらお饅頭屋さんだと教えてくれた。おいしいらしい。そんな雑談も挟みながら、タクシーは線路沿いの道を逸それ、坂をくだっていった。
とっぷり日が暮れていて外観はちゃんと見えなかったけど、入口のやわらかな明かりがあたかかく迎えてくれているようだった。
いずみ「青梅石神温泉清流の宿おくたま路、到着。 ……お世話になります」
チェックインをすませ、化粧を落とし、ほかのすべてをかなぐり捨てて一階の温泉浴場へ向かう。エレベーターもあるけど、お湯への一歩一歩を大事にしたくて階段を選んだ。一秒でも早く入りたいくせに我ながら面倒な性分だ。でも、この『お風呂へ向かう時間』というのは気分があがっていく感じがして大好きだ。
そうして階段への曲がり角に一歩踏みこんだ時――。
「猫チャン!?」
視界に猫が現れて、思わずグリンッ! と顔を向けた。廊下のあちこちで写真が飾られているのは見ていたけど、ここは……この階段エリアは……猫、猫、ねっこー!
いったいなんの罠なのか。お客様が温泉への逸る気持ちで階段を落っこちないように足をとめさせようとしている?
いや、違うな、これは『この猫チャン見て! かわいいでしょ!』というアレだ。
かわいい。
いずみ「……堪能した。ていうかぜんぶ見ちゃったじゃん……」
階段には三階から一階まで、ずっと猫写真が飾られていて、思わずぜんぶ見てしまった……。一分で降りられるところを、たっぷり五分はかけたんじゃなかろうか。感想ノートまで踊り場にあったから、あれを開いていたら危なかった。まぁ、あとで見よう。
そんな調子で一階まで降りて廊下に出たら、温泉浴場の暖簾が見えた。
いずみ「湯♪ 湯♪ あと少し♪ 湯♪ 湯♪ 温・泉・合・体♪」
なんて、変な歌も出てこようというもの。傍から見ればヤバイお姉さんだろうけど、誰かに聞かれようがここまで来たら取り繕う必要もない。だってみんな、温泉に浸かりに来ているのだから!
大浴場の中に先客はいなかった。事実上の貸切? いやいや。だからといってハメは外さない。きっちり身体を清めるのは温泉への礼儀。隅から隅まで丁寧に洗う。わたしにとって、それは斎戒沐浴だった。
ふぅ……。よし!
髪をまとめ直して、いざ……。 浴槽は中くらいのサイズ感。成分のせいもあるのか、相応に年季が入っているけど、清潔感があるからまったく問題なし。むしろ湯を受けとめ続けてくたびれた浴槽というのがわたしは大好き ――だい、だいす ――。
いずみ「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぉ゛あ゛~……」
潰れたカエルのような声が出ていた。人間らしいとか、らしくないとか。そんなことは些細な問題で。現実社会という束縛だらけの日々からどれだけ自分を解放できたのかを、この声はわたし自身にわからせてくれている。これは湯の神から御利益をいただいた証なのだ。たとえ誰かに聞かれようとも気にすることはない。
いずみ「これ ……イイ。熱めのお湯だけど、座り仕事で凝り固まった筋肉にはちょうどいい。疲れにダイレクトアタック……」
泉質はアルカリ性単純硫黄温泉。入る時にチラッと見た分析表では源泉が奥多摩の『鶴の湯温泉』になっていた。
そのキーワードでテレビで見たことがあるのを思いだした。鶴の湯は奥多摩湖畔にある温泉で、元々は小河内村に源泉群があった。小河内村がダム化で沈んでできたのが小河内ダム、つまりは奥多摩湖だ。今の鶴の湯温泉は、ダム完成から三十年以上経って、湖底から源泉を汲みあげる形で復活した。
いずみ「果てしない物語だよねぇ ……三十年もひっそり水底に湧き続けるってどんな気持ちなんだろう」
それが今こうしてわたしの身体を包んで癒やしてくれている。これってすごいことじゃないの? 人知れず湧き続けてくれたことも奇跡だし、鶴の湯をもう一度と考えてくれた人たちにも感謝だし。
それに加えてもうひとつ、人類は配湯という叡智を生みだしてしまった。奥多摩湖までとなると会社帰りにというわけにはいかなくなる。電車で来られるここにお宿を作ってくれたからこそ、今わたしはここにいられるのだ。わたしにとっての『一時間圏内』にお湯を運んでくれて、どうもありがとうございます。
いずみ「クン、クン ……かすかにタマゴの香りってサイトに書いてあったけど……」
うん、わからん。まぁ、そこまで鼻がきくわけじゃないし、浸かって気持ちよければいいや。この時点でわたしはアレコレ考えるのをやめた。
今はただ、受けとめるだけでいい。それが温泉の正しい楽しみ方なのだから……。
いずみ「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぉ゛あ゛~……」
都合三度、わたしはおくたま路の湯に身を委ねた。
二度目、三度目の時にはほかの宿泊客と一緒になった。会社帰り、急に思い立ってやってきたこととか、明日の朝にはそのまま会社に行くことなんかを話して呆れられり、ミニサウナにも入ってみたり。
入浴後は結構長い時間、身体がポカポカしていたように思う。三度目の、これで最後とゆったり浸かったあとに、自販機でビールを買った。ちょっとだけ縦に長いヤツを。その場で一気に飲み干した。おいしいに決まっているのである。間違いない。
いずみ「わたし、生きてる……あしたも生きるぅ~~」
そして明くる朝――。
目覚めて窓を開けると、流れこむように川のせせらぎが部屋を満たした。そうだ、運転手さんが言っていたのはこれだ。ついた時にはもうお部屋が就寝モードに設らえられていたから、窓を開けることもなかった。たぶん真っ暗でなにも見えなかっただろうし。だけど、ちょっと窓を開けて網戸にしておいてもよかったかもしれない。そうすれば川のせせらぎを聴きながら過ごせただろう。
もっと間近で聴いてみたい。そういえばチェックインの時に渡された案内図に、散歩道というのがあった。身支度を調えても朝食までは少し余裕がある。
いずみ「ちょっと降りてみる……?」
石庭を抜けて、川縁の広場まで出てみた。さっき部屋で聴いたよりも、もっとはっきりと耳に届く。この音は湯口の音にも通ずるところがある。耳を傾けていると、音にくすぐられているみたいで心地いい。
清流の宿の面目躍如たる、とてもいい……癒やしの音だ。
いずみ「……ん?」
来た道を戻って石庭をまた抜けた時に、目に入ったものがあった。
いずみ「石臼……じゃないよね。なんか文字が……」
どこかで見たような ……アレだ。寛永通宝みたいな感じで、真ん中に四角い穴が空いていて四つの文字が配置されてる。だけど、その四文字はそれだけでは読めなくて……。
いずみ「あー、はいはいはい。わかりました。部首クイズ的なアレね。答えは……時計まわりで.吾、唯だ、足るを知る、か」
声に出して読んで、スッと腑に落ちた。今まさにそんな気分だったから。温泉というものは「入るだけ」で終わるものではない。それを、この身で改めて実感した。裸になって、湯に浸かり、現実で抱えこんでしまったものをいったんこの身から放す。現実に戻ればまたいろんなものがわたしにまとわりついてくるんだろうけど、今この時、わたしは「わたしに必要なものだけでできている」。再構成といったら大げさかもしれないけど、「あ、この状態がわたしの必要充分なんだ」と思える。
昨日、ホームの上で感じた『もう無理』というあの感覚はもうない。これこそ温泉の効能と言ってもいいのではないか。
いずみ「ん~っ、来てよかった……」
オマケにというか、これめっちゃ重要だけど、仕事で溜めこんだストレスによって荒れ野と化していたわたしの肌も、見違えた。目覚めたわたしの肌は、『なにこれ!? 誰これ!?』っていうくらい、肌理が整っていたのである。
さわり心地、異次元。
『マジすか ……神』と湯の神に感謝し、わたし、湊本いずみは朝の中央線で自分の肌を撫でまわす危ないお姉さんになった。
おしまい
そしていずみは旅に出る。 月嶂秋成 @GSakinari
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