不似合いな天気

第1話

 空が青すぎて、僕の憂鬱は加速した。


 心象風景を透かすように天気が変わる技術が開発され、天気予報は意味をなさなくなった。傘を忘れたら笑えばいい。暑いなら涙を流せばいい。高層ビルに設置されたアンテナが思念を読み取り、僕たちの頭上の天気を変えてくれるのだから。


 持っていた蝙蝠傘は日傘にならなかった。何かに突き動かされるようにビルの非常階段を上り、コンクリート造りの屋上で悲しみに暮れようとも、雨粒の一つも流れてこない。空はどうしようもなく快晴で、僕の悲しみを嘲笑うかのように燦々と太陽が輝いている。

 階下を眺めれば、地上は下手なパッチワークのような天気が広がっていた。明るく笑う人の頭上に太陽が降り注ぎ、悲しみに暮れる人を癒すように雨が降っているのだ。ツギハギだらけの天気は、概ね彼らの心情に従っている。僕だけが、そこに入っていない。


 僕は溜め息を吐いた。「お前の悲しみなど、ただの陶酔だ」と見えない何かに言われているようだ。実際、失恋のショックで突発的に飛び降りようとするのは短絡的だと言われても仕方ないのだけど。

 伸ばし切ってしまった感情が自重に負けて折れただけだ。それだけで、僕は自らの命を無為に費やそうとしている。愚かな選択なのかもしれない。


「飛ぶんですか、その傘で!?」


 パーカーの肩口が濡れたことに気づき、僕は頭上を見上げる。雨の匂いが鼻腔を撫でるが、空は相変わらず快晴だ。雨が降っているのは、僕の隣だった。


「なんだっけ、メアリー・スーじゃなくて……」

「メリー・ポピンズ?」

「それです! 空から地上に舞い降りるつもりですか!?」

「……違いますね」


 少女が、豪雨に打たれて笑っていた。


 まるで暴風雨だ。頭上から降り注ぐバケツを返したような雨は、彼女の黄色いレインコートを激しく濡らしている。傘を使う気がないのか、アンダーリム眼鏡のレンズは曇っていた。


「傘、使いますか?」

「大丈夫です! 雷雨だから、危ないじゃないですか!」


 僕は困惑する。せっかく持ってきた傘も、今は不要なのだ。使うべきは彼女なのに、何故か雨に濡れ続けている。

 さらに不思議なのは、彼女の表情だ。曇った眼鏡で表情はわからないが、その声色は能天気なほどに明るい。内心が吹き荒れる暴風雨だとは思えないほどに、元気な声色だ。


「何か、辛いことがあったんですか?」

「あはは、違いますね。わたし、実は雨女なんですよ!」


 あっけらかんと、自称雨女の少女はそう言う。体質的な物なのか?

 科学の発展によって、人工の空にランダム性は存在しない。雨女も晴れ男も存在から否定され、全ては個人の主観的な感情次第になったのに。それでも尚、と考え、僕は一つの仮説に行き着く。彼女も、僕と同じではないのか?


「笑ってみてください」

「……笑ってますよ!?」


 やはり、アンテナの故障だろう。僕たちの思念は何故か読み取られずに、真逆の反応をしている。彼女流に言えば、僕は晴れ男なのだ。


「この傘は、飛ぶためじゃありません。雨に濡れたくて……。どれだけ悲しくても空が青いのは腹立たしいですけど」

「え〜、飛んでるところ見たかったなぁ。晴れた空に映えると思うんですよ!」

「期待を込めた眼で見られても、困ります」


 彼女はからからと笑った。雨空が似合わない、温かみと明るさを兼ね備えた声だ。黄色いレインコートは太陽を彷彿とさせ、フードから垣間見える明るい茶色の髪は快活さを連想させるボブカットである。どこか無邪気さを隠さない、そんな少女だった。


「わたし、歌いたくて来ました! ホントは晴れた空に声を届けたいんですけど、土砂降りの中でタップダンスを踊るのも悪くないじゃないですか! ほら、あの映画みたいに」

「『雨に唄えば』……?」

「そう、それです!」


 彼女は、自らの“異常”さえ楽しんでいた。

 僕にはできないことだ、と反射的に思う。周囲と違う自分に違和感を覚え、人と同じであるということに固執している僕には。

 彼女は、僕には眩しすぎた。自分の矮小さを実感し、途端に恥ずかしくなる。この程度で死にたくなるなんて!

 赤面する僕を覗き込み、彼女は不思議そうに首を傾げる。そんな目で見ないでくれ、憂鬱を気取っていた自分がどんどん小さく見えてしまう!


「……邪魔したかもしれません。一足先に、降りますね」


 そそくさとその場を立ち去ろうとする僕を、彼女は静かに呼び止める。


「待ってください。一個だけ聞いていいですか!? 太陽って、暖かいんですか?」

「季節によりますけど、だいたいは……」

「やっぱりそうなんだ! 太陽の存在は知ってるんですけど、その光は浴びたことないんですよね……」

「……勿体ない」


 勿体ない、とつい声に出てしまっていた。彼女には太陽が似合うはずなのに、その暖かさを知ることがないなんて。


「わたしが見ている空は、いつだって鈍色です。太陽が射していることなんて、滅多にないんですよ。だから、雨を楽しもうと思ってるんです!」


 僕は振り向き、少女の表情をじっくりと見つめる。降り頻る雨粒が、笑顔の彼女の頬を濡らしていた。それが涙に見えて、思わず言葉を継ぐ。


「無理に笑わなくていいんですよ。悲しい時は悲しいって言えばいいし、怒りたいなら怒ればいい。お節介かもしれませんけど、あなたの不幸はあなただけのものなんですから」


 最後の言葉は、僕にも向けた。陶酔だろうと、僕があの時感じた気持ちは本物なのだ。もっと感情を表に出しても誰も文句は言わないのに、心の中でブレーキを掛けていたのは自分だった。

 誰かに不幸を指摘するなど、傲慢なのかもしれない。彼女が現状に満足しているなら、これはただの残酷なお節介だ。

 それでも、彼女に青空を見せたかった。悲しむには爽やかすぎる透き通るような青を、彼女の視界に届けてやりたかった。だから、僕は反射的に彼女を抱き留めていた。


「今日は雨に濡れたい気分だったんです。でも、こうすればあなたも空が見える」

「……曇り空ですけど」


 僕は赤面した。あの透けるような青空は形を潜め、雨雲が侵入して曇り空が広がる。俺の方にもポツポツと小雨が降り、俺は慌てて傘を広げる。


「えっ、飛ぶんですか!?」

「今は飛びたい気分ですね!!」


 システムの異常は未だ続いていた。慣れないことに対する恥ずかしさは小雨に変わるらしく、元々どういう感情の表象だったのかわからなくなる。

 一方の彼女は、蹲るように笑いながら涙をこぼしていた。何かがツボにハマったらしく、この世の終わりかと見紛うほどに腹を抱えている。雨は……徐々に止みつつある。つくづく法則性のわからない、意味不明な基準だった。


「ぷっ、あはははは……お腹痛い……」

「そんなにウケるとは……。ほら、雨止みましたよ!」

「……えっ?」


 頭上の小雨はなおも降り続けているのに、彼女の雨が止んだのは少しの間だった。どんな感情であれ『涙』がキーなのか、それとも偶然の産物か。彼女は少しだけ見えた青空に瞳を輝かせていた。


「アレ、見ました!? すごいですよね……」

「青空、雨に打たれると見えないですものね……」

「えっ、あれが日常生活の風景なんですか? すごくないですか!?」


 僕と彼女に起こる共通事象の正体はわからないが、一つだけわかったことがある。

 独りでは青すぎる孤独な空も、二人なら目標にできる。曇り空に広がる虹になりきれなかったプリズム光を眺め、僕たちはお互いの願いが叶うことを祈った。


 その後、そのビルの屋上は日ごとに晴れと雨が繰り返されるようになった。

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不似合いな天気 @fox_0829

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