晴れ/ところどころ曇りでしょう

草森ゆき

 僕は引きこもっている。理由はもちろんある。学校でいじめられた、ではない。親が嫌いで、でもない。人生に絶望して、これは少し近い。

 引きこもりを始めたのは中学一年生の夏、つまり去年の夏だ。蒸し暑く、毎日のように晴れていた。遠くで盛り上がっている入道雲以外はほとんど青空だったが、僕の真上だけは違った。

 夏場、僕は西瓜の食べすぎで寝込んでいた。華麗に腹を下して、トイレがベストフレンドという有様だった。このとき世界が変わってしまったような、言い表せない苦痛を味わった。理由はないが、これがとっかかりだったのだとあとから思った。

 無事に快復した僕は喜びながら外に繰り出した。病状を支えてくれたトイレに感謝を捧げながら青空を仰ぎ見て、ぎょっとした。真っ青に晴れ渡った空、僕の真上にあたるところに、トイレ型の雲がぽっかり浮かんでいたのだった。

 トイレ雲は歩き始めた僕についてきた。しかしついてきているように見えるだけだとそのときは気にしなかった。夜になれば影も形も見えなくなったし、両親にトイレ型の雲がさあ、と話して一笑をうみだしたあとも、まさかそういうことだとは思っていなかった。

 妙に象っている雲はその後も現れた。アイスが食べたい、と考えながら空を見上げていると、アイス型の雲がもやもやと浮かび始めた。僕が想像したとおりの、棒つきアイスキャンディーだった。ソーダ味、と思い浮かべてパッケージも思い浮かべると、坊主頭で白いタンクトップを着た某キャラクター型の雲がアイス雲の隣に出現した。

 まさかとは思った。次の日僕は、好きな食べ物である板チョコレートをわざと頭に浮かべながら快晴の空を睨みつけてみた。チョコ雲はすぐに浮かんだ。そんな馬鹿な。怒りを覚えながら空を睨み続けていると、もぞもぞと動いたチョコ雲が、そこに新たな形を作り出した。怒る漫画キャラの額などに現れる、怒りのマークだった。


 はじめは、まあ好きな食べ物とか感謝した相手の映像が浮かぶくらいならいいかと流しかけた。これが大変なことだと気付いたのは、友達にこっそり恵んでもらったエッチな本を読んだあとだった。僕はおおいに興奮してはげみ、サイダーでも買って飲もうかと晴れやかな気持ちで外出した。真上に雲が浮かんでいた。そいつはずっとついてきた。先ほど一生懸命上下に扱いていた海綿体の形をしていた。


 僕は引きこもった。恐らく家の真上には、いろんな形の雲が浮かび続けているだろう。でもまったく構わない。見なければいいし、見えなければ非情な現実を追い出せる。動かなければ目に触れる機会も必然的に減る。なるべく何も考えないようにすれば、きっと雲の浮かぶ回数も減るだろう。それならば誰かに迷惑をかけもしない。奇妙な雲が浮かんでるなあ、くらいの感想で、ご近所さんが話題を終えてくれていることを祈る。

 両親は当然心配してくれたが、理由が「考えていることが雲になるから」とは答えようもなく、ひとまず学校が嫌だとしておいた。勉強自体は部屋の中でも一応行っていた。勉強中、空には羅生門や墾田永年私財法などが浮かんでいるかもしれないが、ひとまず僕の知ったことではない。


 そう思うしかなかった、彼女が来るまでは。


「あの、プリントです」

 引きこもり始めて時間が経ち、クラス替えがあった。その結果僕の隣の席に配置されたという女の子が、律儀にもプリントを届けに来てくれた。

 部屋は出なかったので、声だけを聞いた。応対したのは母親だ。ごめんなさいね、ありがとう、お菓子でも食べていくかしら、と話す母親はきっとさみしいのだろう。一人息子はこうして引きこもっているのだから、誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。

 ご迷惑になるので、と彼女は辞退した。しかし、プリントや宿題や、保護者用の書類などは運ばれ続けた。

 春が過ぎてゴールデンウィークを挟んだあとも彼女の訪問は続いた。梅雨の時期にさしかかり、そうすれば僕の雲も目立たないのではないかと浮かれてそっと部屋を出てみると、廊下でばったりと顔を合わせてしまった。

 彼女は驚いていた。僕は失態を悟った。雨音にまぎれて聞こえていなかったが、今日は母親の誘いに根負けして、家に上がっていたのだった。

 何を言われるかと身構えた。家の上にへんな雲があるよね、と突きつけられることを恐れたし、どうして学校に来ないの、と質問されるのもごめんだったし、そもそも初対面だったし思考が混乱してきて何も口に出せなかったし、恐らく五秒くらい見つめ合った。

 動いたのは彼女だった。両手を重ねて体の真ん中に置き、ぺこりと音がしそうなお辞儀をした。長い黒髪が音もなく肩の前へと流れた。

「はじめまして、五色ごしきです」

 それだけだった。僕はどうも、とか、うん、とか反射で答えたと思われる。あまり記憶になかった。

 東雲しののめです、とどうにか返したあと、

「ふふ、知ってるよ、毎日表札みてるもの」

 と笑われた瞬間には部屋を出る前に何をしていたかも忘れた始末だった。五色のくしゃりとした、なつっこい犬のような笑顔が脳にこびりついてしまったのだ。

 五色はもう一度お辞儀をしてからまた届けに来るね、と言い残してリビングのほうへ歩いていった。耳をそばだててみたが、彼女が母親に僕と会った話をしている声は聞こえなかった。十分もすれば帰宅の旨を伝え、家を出て行った。僕はまた部屋に戻り、そっとカーテンを開けて立ち去っていく五色の後ろ姿と揺れる黒髪を見つめて、何も聞かないのか、と声に出して呟いてみたが空から無限に降る雨の音にまぎれて消えた。


 今年の梅雨前線はしつこかった。僕には幸運だ。確認してみたが、どうも僕の生み出す雲は普通の雲と隣接すると吸い込まれて消えてしまうようだった。梅雨の間は外を自由に歩き回っても問題はなかったし、久し振りに外出を楽しいと思えた。

 それでも梅雨は去ってしまう。晴れ間が見えて水色の空が出てくれば、僕の雲もぬるっと浮かんだ。浮かんだ雲を見て怖くなった。ハート型の雲だったのだ。そんなことを考えただろうかと一瞬思うがすぐに合点がいった。五色がやってくる時間帯に差し掛かっていて、僕は知らずに心躍らせていたのだと気付いてしまった。

 彼女はプリントを届け続けた。時折母親の相手をして、黒髪を揺らしながら帰っていった。その後ろ姿を見つめながら今家の上にはまたハート型の雲が出ているだろうかと想像して泣きたくなった。一年中ずっと梅雨なら良かった。大空が分厚い雲に覆われた、僕の気持ちが浮かび上がることのない梅雨なら良かった。それなら僕は学校に行き、隣の席である五色と会話をして、普通に授業を受け、あわよくば彼女と帰宅を共にして……までは、希望的過ぎるけれど、とにかく引きこもる必要もないんだろう。

 トイレだとかチョコだとかハートくらいなら変わった形の雲だね、で話が済む。しかし、僕は自分の一物が空にぽんと浮かぶのを見てしまった。正直に言って最低だ、思春期の心はめちゃくちゃだった。

 五色に好意を持っている。でもそれが、今は淡いぼやぼやしたものが、はっきりとした性欲の形になったなら、一体なにが浮かび上がるだろうか。

 考えるのも嫌になって布団を被った。息がこもって熱くなるほど深く被って、滲みそうになる涙を必死に堪えて出来るだけ何も考えないよう、何も浮かべないよう、何も、何も、僕が五色を傷つけるものを何も浮かべないよう、唇を強く噛んで明けない夜の中じっとひとりで耐えていた。



 僕が引きこもり始めた夏が来る。終業式があったのだと五色が言いに来て、夏休みの宿題を母親へと手渡してくれた。僕は部屋の中で膝を抱えたまま、窓枠に切り取られた青い空を見つめていた。雲ひとつない美しい空だ。僕以外にとっては、きっとそうだ。

 部屋の扉越しに五色の声が聞こえた。夏休みの間、彼女は当然、ここに来る必要はない。母親が本当に残念そうな声を出す。学期が変われば席も変更になるかも、と五色が話す。それならもう私は頼まれなくなるかも、としずかな声で言う。僕は膝を抱える腕に力を込める。そして瞼を閉じる。くしゃりと笑った、懐っこい笑顔を脳裏に浮かべる。

 お礼も言いにいけないのかと自分を叱咤するが怖かった。気持ちが雲になって浮かぶなんて、とても話せはしなかったし、また来て欲しいなんて頼めるような立場でもない。しかし、それでも、僕は。

「じゃあ、帰りますね」

 五色の声が響く。母親が見送りに出る音が聞こえて、ばたんと玄関の扉が閉まる。その瞬間思考じゃないところが動いた。

 窓にかじりつき、去っていく彼女の後ろ姿を見つめた。今自分の真上にはなにがあるだろう。そんなことを考える暇もなく窓を開け放って身を乗り出した。

「五色!!!」

 大声で叫ぶと彼女は驚いたようにばっと振り返った。目が合って一瞬言葉に詰まってしまったが、下腹部に力を込めて、強く息を吸い込んだ。

「ありがとう!!!」

 どうにか伝えて、急いで窓を閉めた。彼女と窓越しに見つめあう。手を振って立ち去る、かと思ったら、彼女は口元に手を当てて、驚いた顔のまま上のほうを見つめていた。それから慌てた様子でこっちに向かって走ってきた。

 まさか、と蒼ざめ窓を再び開けた。限界まで身を乗り出して窓の上、自分の真上に当たる部分を仰ぎ見る。うわ、と大きな声が出た。それに被せるような五色の笑い声が聞こえた。

「すごい、あの雲、ちょっと私に似てるね!」

 弾けるような、一点の曇りもない声だった。そうか、そのくらいのものなのか、と不意に納得して僕は肩の力が抜けた。

 泣きたくなったけど耐えて、家に上がって欲しいと伝えた。五色は笑いながら頷いて、玄関に向かって歩き始める。僕も窓を閉めて部屋の扉に向かった。

 地上から声をかけてきた五色の、くしゃりとしたなつっこい犬のような笑顔に似た雲がついてきているだろうけど、それよりも本物の五色とはやく対面したかった。

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