どうやって楽しませようかな。

茶葉まこと

どうやって楽しませようかな

「ああ、疲れた。」


 ヨレヨレスーツ、踵が擦り減っているパンプス、ボサボサの髪に、崩れたメイク。

『社畜』という言葉がここまで似合う社会人もなかなかいないだろう。時刻は既に日付変更線を超えており、閑静な住宅街に響くのは私の鈍いヒール音だけだ。


「寒い…。コンポタでも買おう。」


 帰り道の途中にある自動販売機の前で足を止める。慣れた動作で財布から小銭を出し、投入してボタンを押そうとした瞬間だった。


「あれ?」


 ボタンが反応しない。壊れてる?

 何度もボタンを連打するが一向にコンポタは出てくる気配がない。仕方なしに返金レバーを押すが、さっき投入された小銭が出てこない。


「はい?嘘でしょ?」


 ガチャガチャとレバーをさげたり、軽く自動販売機を叩いてみるが、自動販売機はうんともすんとも言わない。


「ああもうっ。」


 最後の一撃、と力いっぱい自動販売機を叩いてみると、ガチャりと音が響く。あ、もしかして小銭が返って……。そう思った瞬間だった。自動販売機が音を立てて勢いよく開き、私の額に激突し、鈍い音が響く。衝撃で思わず尻餅をつくと同時に、放り投げてしまった鞄が弧を描くように宙を舞い、鞄の中身がばらばらと雨のように降り注ぐ。情けない音を立てて床に落下していく私の手帳や財布たち…。


「あ、ごめんね。ぶつかっちゃいました?」


 自動販売機から声がする。顔を上げると自動販売機が冷蔵庫のドアのように開いている。そこからニュっと伸びる長い脚。こんなに暗い夜道でもはっきり見える派手な白スーツ。黒いシャツに黒いネクタイ。そしてふんわりとした綺麗な金髪が特徴的でやたら整った顔の青年が出てきた。

 自動販売機から人が出てきた?ついに仕事に疲れすぎて幻覚まで見えるようになったのか。そろそろ私やばいかも。


「コンポタならありませんよ。残念ながら僕が全部飲み干しましたから。」


 綺麗な瞳をフッと細めて柔らかく微笑む青年。言っていることがおかしい。

 青年はその長い足を見せつけるようにしてしゃがみ込むと床に散らばっている私の荷物を拾おうとした。ハッと我に返る私。


「大丈夫です!自分でできますから!」


 私は慌てて床に散らばる自分の荷物をかき集めた。


「そんなに警戒しなくてもいいのに。」


 絶対やばい人だ。逃げないと。私は鞄を肩にかけると、急いで踵を返して走り出そうとした。その瞬間だった。


「あ、ちょっと待ってください。」


 背を向けた方向から青年の声がする。思わず足を止めて振り返る。


「何ですか。」


 あ、思わず返事をしてしまった。

 青年はにっこりと笑みを浮かべた。


「トイレ貸してくれません?」


 この人こんな爽やかな笑顔浮かべて何言ってんの?正気?


「コンポタを飲み干したせいか、さっきからトイレに行きたくてね。こんな時間だし、この辺はコンビニもないし、頼れるのは君しかいないんです。」

「嫌です。」

「えー、そんな。」


 何でそんな残念そうな顔するんだよ。自業自得じゃない。言ってること変だし、関わりたくない。無視して帰ろう。


「えー僕を置いていっちゃうんですか。良いんですか?ここで漏らしちゃってもいいんですか?」

「そんなの知りませんよ!」

「へえ…。分かりました。じゃあ、その代わりここで大声で君の名前を連呼しながら漏らしますね。良いですね?深夜だから近所迷惑になりますけど僕だけじゃなくて君も注目の的になりますけど。じゃあ、遠慮なく君の名前を…。」


 は?何言ってんのこの人。

 青年はスーっと大きく息を吸い込む。青年と目が合う、彼は悪戯っ子のような笑みを浮かべて、口角をフイっと上げた。何だか嫌な予感がする。


「待ってください!」


 慌てて制止をする。


「何ですか?トイレ貸してくれるんですか。」

「違います。初対面ですよね?名前呼ぶとか冗談はやめてもらえませんか。」

「知ってるよ。」

「へ?」

「鳩森ふゆさん。」

「どうして。」

「さてどうしてでしょう?」


 青年はまるでトランプでも見せるように、指に挟んでいる私の定期入れを見せてきた。

 まさか!?自分の肩にかかっている鞄の中を探るが、定期入れが見当たらない。


「残念ながら時間はそんなに残されていなんだよ。僕も限界が近くてねえ。では……。」


 まずい、こんなところで、大の大人が私の名前を連呼しながら漏らすとかどんな罰ゲームだ。


「分かりましたから!トイレだけお貸しします。用を足したらすぐに出て行ってください。良いですね?」

「ありがとう。ふゆさん。」


 彼はにっこりと人懐っこい笑みを浮かべた。

 こうして私は、自動販売機から出てきたという受け入れがたい非現実的な、明らかに不審な人間を家に上げることになってしまったのだった。




「ふー。助かったよ。本当に漏らすところだった。」

「それはどうも。あの、用は終わりましたよね?帰っていただけますか。」

「あー眠くなってきちゃった。」

「あ、ちょっと!」


トイレから出てきた瞬間に帰ってもらうつもりだったのに、あろうことか私のベッドにダイブした。


「あー、ふかふか。気持ちいいねえ。」

「何してるんですか!帰ってください!」

「えー何?一緒に寝たいって?」

「誰もそんなこと言ってません。トイレだけって言いましたよね?」

「そうだっけ?おやすみー。」


 こいつ…とぼける気か!


「起きてください!どいてください!帰ってください!警察呼びますよ!」


 私は携帯を手にするが、青年は瞳を閉じたまま、手を伸ばしするりと私の手から携帯を取り上げた。

 そしてそのままスマホをジャケットの内ポケットに入れると寝入り始めた。


「返してください!」


 気持ちよさそうな寝顔に苛立ちを覚えつつ、履いていたスリッパを脱いで私は彼を叩こうと試みるが、彼はヒョイヒョイとそれを避ける。


「はあ。」

 大きなため息が出る。すると彼はうっすら瞼を持ち上げた。


「スリッパで叩くなんて心外だなあ。僕ゴキブリじゃないんですけど。ほら、夜更かしはお肌に悪いよ。寝よう。」


 彼は私の腕を掴んでぐいっとベッドに引き寄せた。バランスを崩した私はベッドに倒れ込む。彼はそのまま私を後ろからホールドする。


「何するんですか!離してください!」

「はーい、良い子。良い子。寝ましょうねー。」

「離してください!」


 身をよじったりして逃げようと試みるが、思いのほか身動きが取れない。その上寝息だけが聞こえてくる。この人まさか本当に寝た!?信じられない。嘘だ。思いっきり抵抗しようにも残業空けの私には体力と精神力の限界だ。そしていつの間にか私は眠ってしまっていた。そうだ…これはきっと夢だ。




「おはよう!朝だよ!いい天気だよ。さあ!出かけよう!」


 元気な声と共に体を揺さぶられる。ゆっくりと瞼を押し上げれば、満面の笑顔を浮かべた青年がいる。…やっぱり夢じゃなかった。ん?ちょっと待って。そんなこと考えてる場合じゃない。今日は平日!仕事!私は勢いよく起き上がった。


「今何時!?はっ携帯!」


 携帯がない。彼は胸ポケットからスッと私の携帯を取り出して笑った。


 彼から携帯を奪うようにして取って、時刻を見れば……遅刻確定だ。最悪だ。


「大丈夫だよ。会社には退職届出てるから。」

「は?」

「そして君の携帯電話は今や圏外だ。」

「何言ってるんですか。そんなわけ…。」


 もう一度携帯の画面を見てみると、圏外になっている。もしかしてこの変人に細工でもされたのだろうか。


「ね?」

「何なんですか!しかも退職届って。嘘ばっかり言わないでください。」

「困ったなあ、お嬢さんはご立腹だ。」


 やれやれ、と苦笑しながら青年は自分のポケットから携帯を取り出した。そして青年は慣れた仕草で私の会社に電話をかけ始めた。


「あ、もしもし。ちょっとお伺いしたいのですが、そちらに鳩森ふゆという社員はいらっしゃいますか?」


 電話越しに聞こえる受付の声。


「……申し訳ございません。そちらの社員は既に退職しております。」

「そうですか。ありがとうございます。」


 プツっと切られた電話。一体何がどうなっているんだ。訳が分からない。


「これ、夢ですよね?」

「残念ながら現実だよ。試しに頬でもつねってあげようか?」


 近づく彼の手を振り払って頭を抱える私。


「まあまあ、落ち着いて。ふゆちゃん。退職して時間もあるんだから、今日は昨日トイレを貸してくれたお礼にデートしよう!」


 いつの間にか『ふゆちゃん』って呼ばれてるし。それに何がデートだ。こっちは混乱してるっていうのに。


「さっきからあなたは何なんですか。」

「僕?ある時は手品師…ある時は商社マン、ある時はアイドル…その真相は、ひ・み・つ。礼儀正しい『礼』です。よろしく。」


 余計混乱を極めてしまった。とんでもない自己紹介だ。大体どこが礼儀正しいんだ。昨日から礼儀正しさなんて微塵も感じない。

 

「あれ?感動して言葉もでない?」

「呆れてるんです。」

「さあ、デートに行こう!時間は限られているからね!」

「嫌ですよ。」

「行かないとここに居座るよ?」

「はい?」

「僕を外に出すためにもデートに行った方が良いんじゃないかな?ほら、準備準備。」


 この『礼』と名乗る青年は、ノリノリで勝手に人のクローゼットを開けた。デリカシーってもんがない。どこが礼儀正しいの『礼』だ。失礼の『礼』の間違いじゃないだろうか。

こんな変人に居座られても困る。しょうがなしに着替えて、私は彼と一緒に外に出たのだった。




「デートのエスコートはまかせてね。」


礼さんに連れて来られたのは、遊園地だった。

 

「まずはここの遊園地のメインと言っても過言ではない、ラブラブレインボードリンクを飲まないとね。」


 何その飲み物。辺りを見渡してみると、遊園地内のカフェで無駄にカラフルな飲み物を飲んでいるカップルが目に入る。しかもストローはハートの形になっており、その先は二つに分かれている。


「礼さん。」

「何だい?」

「まさかあれを飲むとか言わないですよね?」

「大正解!買ってくるね!」

「待ってください!」


 礼さんの上着を掴もうと手を伸ばすが、礼はそれをひょいと避けてレジへ向かった。社会人にもなってあれを飲んでいる自分を想像すると顔面が引きつる。


「おまたせ。」


 ほどなくして礼さんが帰ってきた。彼の手には噂のラブラブレインボードリンクが握られている。赤いストローは可愛らしくハートの形になっていて、おまけに『ラブラブカップルに幸あれ!』なんてメッセージカード付きだ。


「私は飲みませんからね。」

「えー折角デートなのに?味気になるでしょう?」

「確かに味は少し気になりますけど、こんな恥ずかしさ満点な飲み物飲むわけないじゃないですか!」

「照れ屋さんだなあ。」

「照れてません。」

「まあまあ、そう怒らないの。はいどうぞ。」


 礼さんは、いつの間にかもう片方の手に握られてい普通のミルクティーを差し出した。


「ミルクティー派だよね。家にあったのもミルクティーだったし。」


どうやらラブラブレインボードリンクは私をからかうために買ったようだ。


「どうも。」


 私はミルクティーを受け取る。カップがほんのり暖かくなっていて、受け取るだけでも体が温まるような気がする。

 そして礼さんはラブラブレインボードリンクのストローを抜いてカップの蓋を外した。


「それ、どうするんですか。」

「僕が飲むよ。あ、まだ口付けてないから味見だけしておく?」

「結構です。」

「そう遠慮なさらず。どうぞ。」


 ほい、と言葉を付け加えて渡される珍妙なドリンク。ちらりと礼さんを見ると、ほらほら、と言わんばかりに笑っている。まあ…一口くらいなら…。カップに口をつけ、一口だけ飲んでみる。衝撃的な見た目とは裏腹に、味は思いのほか甘さ控えめのジュースだった。


「どう?味は。」

「意外と甘さ控えめで…思ったよりも悪くないです。」

「それは良かった。」


 楽しそうに笑う礼さん。その笑顔がやけに眩しくて私はカップを礼さんに渡した。


「確かに、味は思ったよりも悪くないね。」


 礼さんも味が以外だったようで、目を丸くしてて驚いていた。そして二人が飲み終わったタイミングで彼は立ち上がって私の手を取った。


「じゃ、今回のメインへ行きますか!」

「ちょっと、手!」

「デートと言えば手つなぎは基本でしょう。」

「そんな基本知りません。」

「ありゃりゃ、ふゆちゃんってもしかして恋愛経験ほぼなしだったりする?ああ、いいのいいの。気にしないで。ということは僕が最初で最後の彼氏になるわけだ。」

「何言ってるんですか!」


 私の返事はお構いなしに、礼さんは上機嫌に歩き出した。


「到着!今日のメインと言っても過言じゃない。回転木馬!」

「ふざけてます?」

「大真面目だよ。」

「乗りませんよ?」

「大丈夫、僕が隣に乗るから。」

「嫌です。」

「照れ屋さん。」

「日本語通じてます?」

「もちろん。」


 会話が成立しない。礼さんを睨みつけてみるが、彼は微塵もひるむことなく、むしろさらに笑みを深めた。


 あんなメルヘンな乗り物にのる私…想像するだけでも痛々しい。何の罰ゲームだ。


「ここの回転木馬はすごいんだよ。細やかな彫刻と装飾は見るだけでも価値があるし、乗った人はその日のうちに良いことがあるっていうジンクス付き。これは行くしかないよね。」


 礼さんは私の手を引いて回転木馬に近づいた。まるで宝石箱を開けたようなキラキラした装飾と照明。そして少しレトロなアコーディオンの音色に合わせて、その回転木馬はゆっくりと回っていた。


 確かに綺麗だ。何故かこの回転木馬から目が離せない。照明が青、黄色、赤とゆっくり混ざり合いながら変化して幻想的…だけど、何となく胸の奥がざわざわするのはどうしてだろう。


「難しい顔してどうしたの?あ、早く乗りたいって?」


 私の顔を覗き込んだ礼さんは、私が否定する前に、私の腕を引いて受付へ向かった。スタッフの小粋なおじさんは、満面の笑みで、私たちを案内した。しかもよりによって馬じゃなくて馬車の方へ。


「では、いってらっしゃい!」


 活気のある声と共に、ゆっくりと回りだす回転木馬は外で見る時とはまた違って見えた。正直、ちょっと楽しんでしまっている自分がいる。乗ってしまえば、あまり周囲の目というのは気にならない。


「ふゆちゃん、楽しいね。」

「楽しんでるのは礼さんだけでは?」

「またまた、そんなにキラキラした目をして楽しくないとは言わせないよ?」

「礼さん外ばっかりみて私の顔見てないでしょう?冗談はやめてください。」

「何?見つめて欲しかった?」

「誰もそんなこと言ってなっ。」


 言い終わる前に礼さんが私の頬に触れて、向き合う形になる。照明の綺麗な光が、色素の薄い礼さんの瞳に反射して、まるで宝石のようだ。人間じゃないみたい。もし本当に天使っていうのが存在するならきっとこういう感じなのかも。


「おや?そんなに見つめちゃって。すぐに目を逸らされると思ったのに。惚れちゃった?」

「なっ。」


 私は慌てて視線を逸らした。前言撤回。この人は天使なんかじゃない。むしろ悪魔だ。


「照れちゃって可愛い。」

「違います。」


いつの間にか回転木馬は終了していた。


 それから礼さんに連れられて、お化け屋敷やジェットコースター、アトラクションといろいろと連れ回された。そのたびに私のリアクションが面白いのか礼さんはお腹を抱えて笑っていた。正直そこにはイラっとしたが、必ず私の歩く速度に合わせてくれたり、気遣ってくれるのは紳士的だと思った。


「ふゆちゃん。ちょっと行きたい場所があるんだけど付き合って貰っていいかな?」

「次は何ですか?もう絶叫は勘弁してくださいよ。」

「違う違う。この遊園地からすぐの場所に海があるんだよ。ちょっと海岸をのんびり散歩なんてどうかなって。」

「それならいいですけど。」

「良かった。歩いてすぐだから行こうか。」


 礼さんに手を取られて遊園地を出る。慣れとは恐ろしいもので、何だかもう自然に手をつないで歩けているあたり、本当にデートしてるカップルみたいだ。


 ゆっくりとした歩みで海へ向かう。いつの間にか、高かった太陽は徐々に傾き始めていた。浜辺へ行くその途中にある小さな小物屋さんでふと足を止めた。


「あ、髪飾り……。」


 キラキラした可愛い貝殻の髪飾り。それを一つ手に取る。夕陽に照らされてその髪飾りは橙色に反射した。とても綺麗なのに、胸の奥がギュッと掴まれたように切さを感じてしまうのは、夕日のせいだろうか。


「ふゆちゃん、それ気に入ったの?」

「いえ、何となく物寂しい感じがして。夕方だからですかね。」

「……。ふゆちゃんが付けるなら、もう少し小ぶりで…あ、これなんて良いんじゃない?」


 礼さんの手に乗っていたのは、小さな真珠と青いリボンがついた髪飾りだった。何故か礼さんが持つその髪飾りは真珠自体が白く発光してるように見えた。


 礼さんは私の髪にそれを付けた。


「うん、良く似合ってる。今日着てる服にもピッタリだね。」


 礼さんは満足気に笑った。


「そんなこと。」

「ああ外さないで。もうそれ会計済みだから。」

「はい?いつの間に。」

「さっきふゆちゃんが、別の髪飾りを見てる間に。」


 全然気づかなかった。

 何だか嬉しかったり申し訳なかったりで、まともに付き合ったことがない私はどんな顔をしたらいいのか分からない。


「何かすみません。」

「どうして謝るの?可愛い子に可愛い物を添えただけだよ。ちなみに返品は受け付けておりません。」


 ふふん、と胸を張って言う礼さん。


「………ありがとうございます。本当に貰っていいんですか。」

「もちろん。それに回転木馬の時に行ったでしょ?その日のうちに良いことがあるって。それがこの髪飾りだとしたら?ほら!いいことあったでしょ?」

「何ですかその人工的なジンクス。」

「良いことには違いないでしょ?」

「まあ、違わなくもないの…かな?」


礼さんの屁理屈には振り回されっぱなしだけど、自然に笑みが零れる。


「あ、今いい笑顔したねえ。もしかして本気で僕に惚れちゃった?」

「違います。」

「残念。でもその方が良い。僕には惚れない方がいいよ。」


 礼さんはニカっと笑うと、もう一度だけ私の髪飾りに触れた。


「ふゆちゃんが幸せになれますように。」


 今日一番優しい声で囁くように言う言葉。デートしようとか、最初で最後の彼氏とか、惚れない方が良いとか、本当によく分からない人だ。

 礼さんはそんな私の手を当たり前のようにつなぐと再び歩き出した。そして浜辺の手前の信号に差し掛かった。歩道の信号はさっきまで青だったのにゆっくり点滅をして赤に変わる。ぼんやりと信号を眺めていると、何だかザワザワと胸騒ぎがしてきた。


「………。」


 何かが脳裏に過る。赤…青…。何だろう。これは…。

 遠くから近づく車。落ち着きのない心臓。震える足。自然と礼さんと繋いでいる手を強く握りしめてしまう。礼さんは何を言うわけでもなく、私の傍で信号を見ている。


 そして歩道の信号が、赤から青に変わる瞬間。私の心臓はこれ以上ないくらいに高鳴る。背筋がひんやりとして、冷や汗が出てきた。おかしいな。

 私は助けを求めるように、礼さんの顔を見上げた瞬間だった。








 脳裏にある光景が浮かび上がってきた。








 ―――そうだ。あの日は、珍しく仕事が早く終わったんだ。だから、ちょっと寄り道でもしようと思ったんだ。

 街中へ出て、そしたら可愛い髪飾りのお店があって……でも結局買わなかった。付けていく場所も見せる相手もいなかったから。

 ぼんやりしながら信号待ちをしていたら、何だか騒々しいエンジン音が耳に入る。でも特に気にしなかった。


赤から青へ変わる横断歩道。

歩き出す私。



さらに大きくなるエンジン音。


「危ない!」

「お姉さん!避けて!」


 そんな言葉が聞こえたと同時に、音がする方を向いた瞬間、目の前には大きな車が……。



 そこで脳裏に浮かぶ映像は途切れた。











「あ……。あれ……。」


 急に襲ってくる寒気。耳を劈くようなブレーキ音。



「私……。私はあの時……。」


 ガタガタと震える体。もしかして。あの時私は……。耳に何度も反響するブレーキ音。大きな音。何かが壊れる音。軋む音。誰かの悲鳴。助けを呼ぶ声。



あの時私は。



 その場にしゃがみ込み、両手で耳を塞ぐ。でもあの音は聞こえなくなるどころか大きくなる。怖い、怖い、怖い。心が痛い。








 その時だった。



 ふわりと鼻を掠める優しい香り。そして、それはふわっと私を抱きしめた。それが礼さんだと気づくのに少し時間がかかった。取り乱す私を礼さんは何も言わずただ優しく抱きしめた。


 徐々に治まる私の身体の震え。耳に聞こえる不快な音も、徐々に遠のいていく。礼さんはまるで小さな子どもをあやすように、私の背中をポンポンと撫でた。ぽろりと温かい涙が零れた。


「大丈夫、大丈夫、ゆっくり息をして。そう、上手。」


「礼さん…。私。」

「うん。」

「私は…。」

「うん。」





「私はあの時………死んだんですか?」





「――思いだした?」






 ああそうか。きっとこの人はすべてを知っていたんだ。直感でそう思った。だとしたら…だとしたらこの人は。


「礼さん……あなたは?」

「僕はね。」


 礼さんは一呼吸おいて、落ち着いた声色で告げた。







「僕は死神だよ。君を迎えに来たんだ。」






 波のない海のように澄んだ声。その言葉を聞いて何だか腑に落ちた。それから礼さんは立ち上がれない私をお姫様のように抱き上げると、浜辺まで連れて行ってくれた。


 ゆっくりと私を座らせる礼さん。


「僕が担当する子は、君みたいな若い子が多くてね。大概は事故とか、君みたいに死んだことに気付いてない子が多いんだ。そんな子を然るべき場所に連れて行くのが僕の仕事。」


 私の様子を見ながら話してくれる礼さん。


「どうして自分が死神だって黙っていたんですか?出会った時に、全部言ったら良かったじゃないですか。」

「ふふっ、それはねえ。」


 礼さんは眉をハの字にして笑った。


「つらい気持ちだけで逝くのって嫌じゃない?せっかくなら、楽しかったなって思い出を持って行ってもらいたいじゃん。」


 礼さんは言葉を続けた。


「会社との家の往復の毎日で、恋をする暇もなく、趣味を楽しむ余裕もなくて、毎日疲弊して、でも毎日を懸命に生きた子に、あなたは事故で亡くなっています。こんなところに居てはいけません。なんて言えないよ。あんまりじゃないか。」


 それを話す礼さんの顔はとてもまじめだった。この人は多分、すごく優しい人なんだ。


「だからあの変なデートですか。」

「変とは失礼な。楽しかったでしょ?」

「出会い方は引きましたけど。」


 思わず思い出し笑いをしてしまった。


「でも不思議です。デート中は周りの人にも私見えてましたよね?」

「そういう設定にしてたからね。」

「そんなこと出来るんですか。」

「まあね。ちなみに僕から離れた時点で周りの人の記憶はすり替わる仕様になってるから、君が想像しているような幽霊騒ぎにはならないよ。あと……。」


 礼さんは少しだけ申し訳なさそうに話した。


「ふゆちゃんに謝らないといけないこともあるんだよね。向こうに送るためには、本人が死んだ理由も分かってないといけないんだ。だから、デート中にいくつか嫌なこと思い出させるように仕向けたところがあるんだ。怖い思いをさせてごめんね。」

「いえ…でもそれは、礼さんのお仕事ですし。」

「優しいね。」


 礼さんがポンポンと頭を撫でた。いつの間にか夕日は沈もうとしていた。橙色の光が浜辺を照らす。礼さんはスッと立ち上がり、それから私の両手を握り、立ち上がらせる。


「さて、ふゆちゃん。そろそろ時間だ。」


 向かい合う二人。パチンと指を鳴らす礼さん。その瞬間、私の周りがまるでスポットライトを浴びたようにきらきらと輝き出した。


「来世では幸せになれるように心から願ってるよ。」

「礼さん。その言い方だと今世が幸せじゃなかったみたいですよ。」


 私の言葉に礼さんは驚いた顔をしていた。

 だってそうだ。確かに私の人生は、何の面白みもなかったけど…。今日こうやって、私の生涯を気にかけてくれて、楽しい思い出を作ろうと奔走してくれて…それってすごく幸せなことじゃないかな。


「私、幸せでしたよ。礼さん。」


 自然と浮かぶ笑み。


「ちょっと…いや、かなり方向性は変でしたけど、楽しかったですし、ちょっと恋人気分も味わえましたし。礼さん、ありがとうございました。」


 私を照らす光は、私を包み込みより輝きを増した。


「こちらこそ。ありがとう。ふゆちゃん。行ってらっしゃい。」


最後にみたのは、笑顔で手を振ってくれている礼さんの姿だった。

 光に包まれた私は、空高く舞い上がっていた。












「無事行けたみたいで良かった。」


 日が完全に沈んだ薄暗い浜辺をあるく青年は、砂浜に落ちた髪飾りを拾い上げて砂を払った。そして、何処から取り出したのか花を一輪取り出すと、髪飾りに絡めて、波打ち際へ置いた。波は髪飾りを攫って行く。



「ではまた。」



 青年は、満足気な笑みを浮かべると、波打ち際から踵を返して歩き出した。




「さーて、次は…。なるほど、なるほど。十代の男の子か。どうやって楽しませようかな。」



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どうやって楽しませようかな。 茶葉まこと @to_371

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