箱
レイジとは東京と埼玉の丁度境目にある喫茶店で待ち合わせをした。時間に少し遅れて到着したわたしを、夕陽の色のジャケットを羽織ったレイジがくわえ煙草で待っていた。
「煙草」
「消す?」
「旦那が煙草嫌いだから、匂い付けたくない」
「あ、結婚してるんだっけ」
レイジのことは結婚式には呼ばなかった。だってこんな子が花嫁の友人席にいたら恥ずかしい。
レイジは学生時代と変わっていなかった……いや、それは嘘だ。全然違っていた。短い髪、黒一色の服装、丸眼鏡、それらの要素は同じなのに、それなのに明確に垢抜けていた。いつも眠たげな一重瞼の目を彩るアイシャドウは夜の闇と同じ色をしていて、またたきをするたびに緑色のまつ毛が揺れた。口紅は信じられないぐらい深い赤。
「DMびっくりした」
「なんでLINEブロックしたの?」
「2年も前だよ。寧ろなんで今気付いたのさ」
「……」
レイジのコンプレックスはどこに行ってしまったのだろう。客員教授の背中を猫背気味に付いて歩き、いつも困ったような苦笑いを浮かべていた一色レイジ。今目の前にいるのはいったい誰だ。こんな女をわたしは知らない。
「明日花さん?」
レイジが呼ぶ。わたしは無意識に噛み締めていた奥歯をどうにか自由にし、口を開く。
「映画、見た。YouTubeで」
「……あ、ヒサシの」
ヒサシ。市岡くんのこと、ヒサシって呼んでるのか。
目の前が赤くなる。これは怒りだ。
「なんでレイジが市岡くんと映画作ってんの。意味分かんないんだけど」
「いや……あの人とはその……なんか、知り合って、何年か前に」
なんかってなんだ。何年か前っていつだ。ちゃんと言え。
おまえごときががわたしに隠し事をするな。
「え、ていうか、明日花さんもしかしてヒサシのファンなの?」
手が勝手に動いていた。気が付いたら、レイジの頬を力任せに張っていた。
「なんであんたなの!? なんで!!」
丸眼鏡が吹き飛んでいた。狭い店内がざわついているのが分かる。
レイジは冷静だった。床に落ちていた眼鏡を拾い、レンズをお手拭きで軽く拭って身に着ける。
「痛い」
「うるさい! あんたなんか……ねえ、あたし、あんたのことSNSに書くからね。全部書くから」
涙が溢れる。なんで。なんでこいつなの。なんでわたしが好きな男がこいつと映画撮ってるの。
「あんたが
なんでよ。こいつはわたしのゴミ箱なのに!
「レイジさん、上坂監督のセフレだったん?」
突然、頭の上から声がした。
聞き慣れた、知りすぎている声だった。
市岡ヒサシ。
「いや違う。大晦日に一緒にご飯食べる程度の仲」
「だよねぇ」
YouTubeと、それ以外のいくつかの動画配信でしか見たことがない市岡くんが立っていた。背が高くて、すごく、綺麗な顔をしていた。
本当に冷たい目でわたしを見下ろしていた。
「あなたが誰だか知らないけど、レイジさんのことぶん殴ったのは見ましたよ。警察呼びました」
「は……」
「ここ俺の行きつけの店です。でも二度と来ないでくださいね」
「何、それ……」
なに、なんなの、本当に。わたしはこの疫病が始まってから市岡くんの存在を知ったので、顔を合わせるのは本当に今日が初めてだ。それなのに。
わたしはあなたに優しくされる価値がある女なのに。
ヒサシくん警察来たよ! と店のマスターらしき初老の男が声を上げた。レイジは煙草に火をつけている。匂いがつくからやめてって言ったのに。
警察官に事情を聞かれて、夫が迎えに来るまでしばらく埼玉県の警察署の中で待った。レイジと市岡くんも事情を聞かれたようだが、すぐにいなくなってしまった。
帰宅してすぐ、夫と、実家から駆け付けてきた両親にすごい剣幕で叱られた。兄たちも来ていたようだが、彼らはわたしの子どもの相手をするために別室にいた。
「だって、レイジが」
「一色さんはもうおまえに関わりたくないから弁護士立てるって。それに」
と、夫がスマートフォンの画面を差し出してくる。
わたしがレイジを引っ叩く動画が、SNSで大拡散されていた。
「なんてことしてくれたんだよ、おまえは……」
夫が頭を抱え、母親は泣いている。わたしも泣きたい。
頭を冷やせと寝室に押し込まれ、ふと自分のスマホを取り出した。DMが来ていた。レイジからだ。
『私はあなたのパンドラの箱です お元気で』
それだけのメッセージだった。
わたしは、一色レイジのことなんか、少しも好きじゃなかった。レイジだけじゃなく誰のことも好きじゃない、誰のことも愛したことがない、わたしの欠落はきっとこれだ。これなんだ。
今気付いたって遅いのに。もう全部、手遅れなのに。
パンドラ 大塚 @bnnnnnz
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