「京子ちゃんのおうち」ver.2

小箱エイト

「京子ちゃんのおうち」Ver.2

そろばん塾の帰り道だった。

来るときはなかったのに、【工事中につき廻り道】という看板が出ていて、方向指示に従って歩いているうちに、国道に出てしまった。

『国道を渡ってはいけないよ』

出がけに聞こえた、おばあちゃんの言葉。けれど、そもそも家とは反対方向だから渡るはずもない。

私はそのまま国道沿いの舗道を歩きながら、ズボンのポケットが気になりだした。たたむとハンカチのように薄い生地のそろばん袋は、おばあちゃんの手製だ。どこぞの何ものでもないクマのキャラクター。その柄が気に入らなくて、歩きながらそろばんを抜いてポケットにしまったのだ。また袋をそろばんに被せるのは面倒だな、ポケットに手をつっこんで、だるそうに足を運んでいた。

横断歩道の前に来ると、四車線の轟音が止んで信号の電子音が鳴り始めた。

思わず足を止めた。その音に混じって、私を呼ぶ声が聞こえる。顔を上げると、国道から向こうの景色が霞みがかって見えた。まもなく正面の横断歩道から誰かが近づいてくる。


「咲月(さつき)ちゃん。こっち、こっちだよ」

そう言いながら、国道を渡ってきたのは京子ちゃんだった。相変わらず青い自転車に乗っている。不思議な感じがした。京子ちゃんの笑顔を見たのは久しぶりで、目を合わせることができなくて、うつ向いてしまった。

「そろばん終わった?」

「うん」

「じゃあ、ちょっと家に寄らない?」

「え、今から?」

「今度遊びに来るって、約束したじゃん。新しい戦闘服も買ってもらったんだ。マリッサのオーロラバージョンだよ」

私の胸は高鳴った。

魔女の子マリッサは、女子の間で人気の着せ替え人形で、しかも、オーロラバージョンは最新の変身術なのだ。それを思うと、頭がぼうっとなった。

「こっち、こっち」

京子ちゃんは渡ってきた横断歩道を戻りはじめる。

「え。京子ちゃんちは、こっちじゃないでしょ」

「私、引っ越したんだよ」


いつしか私は横断歩道を駆けていた。

頭の遠いところで、おばあちゃんの声がこだましている。そろばんが、ざっ、ざっ、と鳴る。京子ちゃんが自転車をゆっくり漕ぎながら私を誘導していく。国道の轟音は少しずつ遠くなっていった。

渡りきった正面の病院を通り過ぎ、クリーニング屋、電気屋、普通の家が三件、そして角のパーマ屋を曲がり、次は食堂と、私は知らない町並みをなぞるように走っていた。京子ちゃんは時々止まっては振り返り、笑いかける。距離が縮まると、またゆっくりと進んでいく。静かな町だった。

山手に向かって、駅の方向へ曲がって、海手に曲がって、さらに曲がると病院があった。そして、クリーニング屋が見えてきた。


私は足を止めた。京子ちゃんも止まった。

「ねえ! ここ、さっきも通ったよ」

京子ちゃんは近づいてきて、

「えへへ。ばれちゃった。でも今度はホントに。オーロラだよん」

くるんとひと差し指を回して、マリッサの魔法のポーズを真似てみせた。私は息が苦しいので、走るのをやめて歩くことにした。京子ちゃんはそれを察して、更にゆっくりと自転車を漕ぎながら前方にいる。


パーマ屋を曲がると、運動靴の紐を結び直すためにしゃがみこんだ。じっと耳を澄ます。

やっぱり聞こえる。

パーマ屋と隣の食堂の辺りから、すすり泣く声が聞こえる。三つ並んだ円形の大きなゴミ箱が気になった。真ん中の蓋を開けると、生ゴミを被るようにして、女の子が正座していた。見覚えのある顔に私は息を呑む。ひとつ下の三年生で、二日前から行方不明になっている子だった。最後に目撃されたのが、国道を渡っている姿だったと噂になっていた。

「帰り道がわからない」

その子は泣き続ける。誰もこの子の泣き声に気づかなかったのか。周囲を見回しながら、さっきから私たち以外、誰にも逢わなかったことも妙だと思った。

私は京子ちゃんを確認する。自転車にまたがったまま、振り返ってじっとこちらを見ている。その距離は建物二件くらいだ。私はゴミ箱を倒して、女の子の手を引っ張って助けようとしたけれど、ぐったりしたままで外に出れない。

京子ちゃんがゆっくりと自転車の向きを変えた。

とっさにその子をゴミ箱に閉じ込め蓋をすると、反対方向へごろごろと転がしながら走った。

奇声をあげて、京子ちゃんがものすごいスピードで向かってきた。

車輪が今にも外れそうなくらいだ。

私は抱えていた手提げごと、京子ちゃんへ投げつけた。そろばんが当たると相当痛いはずだ。けれどそれは、京子ちゃんの身体をすり抜けて地面に落ちた。


「ああ、やっぱり。ごめん。京子ちゃん、ごめん」

走りながら私は泣いた。

京子ちゃんは半年前、その国道で自転車ごと車に轢かれて死んでしまったのだ。

あの日、私は違う友達に強引に誘われて、京子ちゃんとの約束をすっぱかしたのだ。

ほんの軽い気持ちだった。次の日に謝れば、許してもらえると思っていた。京子ちゃんは待ちくたびれて、私をさがしていたのかもしれない。

その事故の後、私はショックのあまり寝込んでお通夜にも行けなかった。それっきりの、京子ちゃんだった。

「待ってたのにぃ」

恨めしい声に、胸が破れそうに痛い。

「ごめん。ごめんなさい」

足がもつれそうになりながらも、ごろごろとゴミ箱を転がしながら走り続ける。もしかしたら、この中の女の子はもう死んでいるのかもしれない。そんな恐怖に震える。けれど止まることはできない。京子ちゃんの気配が、もう背中を蹴るほどに近いのだ。

クリーニング店を通り過ぎ、病院の前に来た。もうこの先は国道だ。ぼんやりと車の往来が見える。轟音は確かに近くなっている。あと少し、国道さえ越えれば。ほら、舗道が目の前に。


けれど。

走っても走っても、舗道にとどかない。身体が前に進まない。

走っているのに。こんなに走っているのに。ずっと病院の前にいる。どうして。

「咲月ちゃん、こっちだよ」

やさしい声が耳元で響く。

振り切るように肩を揺らすと、さらに前のめりになって倒れそうになる。気持ちが荒んだ時だった。

突然ゴミ箱の蓋が飛んで、泣き声が響いた。今度はすすり泣きではなく、もっと大きな声だった。生きてる。この子はまだ生きているんだ。

「ごめん。行けない。そっちには、行けないんだっ」

私は顎をあげて、もう一度、力を振り絞る。ゴミ箱に手をつき直し、地面を強く蹴った時、

「さつきぃ。さっちゃーん」

おばあちゃんの声がする。

「おばあちゃん!」

「咲月! さつきちゃーん」

霞んだ国道の向こう側に、ぼんやりだけど、おばあちゃんが立っているのがわかる。

「違う! こっちだってば!」

背後の苛立った声が風圧になって、私の上体は崩れる。もう駄目だ。ゴミ箱を押し出すようにして、そのまま倒れてしまった。

その瞬間、私の手から離れたゴミ箱は、勢いよく回り続け、霞んだ国道を切り開くローラーのごとく、鮮やかに道をつくっていった。おばあちゃんへ向かって真っすぐに。ゴミ箱がたどり着くと、くっきりとおばあちゃんの姿が見えた。

『いやああっ』

京子ちゃんの叫び声を翻すよう、私は起き上がって一目散に駆け出す。

往来する車のなか、一本の道が、異次元のトンネルのように私を守り導いていく。目の先にはおばあちゃんが両手を広げて微笑んでいる。

その胸に飛び込んだ瞬間、背後で轟音が激しく唸り出した。

振り向くと、道はもう無くなりゴミ箱も消えていて、私たちは街の喧騒に包まれていた。国道の向こう側は、まだ霞んだままだった。

「おばあちゃんっ、おばあちゃん」

嗚咽する私の身体をさすりながら、

「こんなところで転んだりして、考えごとしてたんでしょ。新しいそろばんケース、ママに買ってもらいなさい」

「ごめんなさい、おばあちゃん。ちがうの、そろばんは、無くしてしまったの、だから」

いぶかしげに私の顔を覗き込みながら、おばあちゃんは立ちあがって、舗道の脇に落ちている手提げとそろばんを拾ってきた。

「ほら、あるでしょ」

何が起こっているのかわからない。おばあちゃんも首をひねって私を見ている。

どうやら、私がここで転んで倒れていたところに、迎えにきたおばあちゃんが現れたという状況のようだ。

国道の向こう、病院の前に京子ちゃんが立っているのがわかる。いまにも消えそうに、薄く、寂しげにこちらを見ている。

『京子ちゃん。ごめんね』

少しずつ、向こう側の景色は鮮明さを取り戻していく。

「痛かったでしょ」

おばあちゃんは、すりむいた膝をなでてから、身体じゅうの埃を払い、ポケットからそろばん袋を見つけてとりだした。

「よっぽど嫌だったのね」

「ちがうよ」

私は奪い取るようにして、そろばんをその袋に入れると、絞り紐をきつく締めた。

「お守りだから」

「えーっ。急にどうしたの?」

あっけらかんと笑うおばあちゃんを横目に、そっと病院のほうを窺う。

建物はもうはっきり見えていて、その壁に淡い紫色のシミが映っている。

「そういえば、このまえの三年生の子。見つかったんだって。警察に保護されて、おうちに帰ったそうよ。よかったね」

「本当? 本当に? どこ、どこにいたの? ゴ」

ゴミ箱、と言いかけて口をつぐんだ。

「それはね、聞いちゃいけないんだよ。しばらく学校も休むみたいね。そっとしてあげよう」

こくん、と頷いて、おばあちゃんと手をつないで歩きはじめた。

私もそうだった。京子ちゃんの事故のあとは、誰にも会いたくなかった。何も聞かれたくなかった。ただ胸が痛かった。

「今度。京子ちゃんのおうちに行きたい」

しばらく答えがなかった。

舗道の前方にバスが停まって、乗客が乗り降りをしている。

声を絞って、

「約束したから」やっと言った。

「そう。会ってくれると、いいね」

喉が痛くなって頷くだけだった。手が震えて、おばあちゃんがそっと握り返してくれた。

バスがラッパを鳴らして発車した。車の往来に風を感じた。


私は振り返って、ひと差し指をくるんと回してみた。

京子ちゃんは、もう見えない。


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