誰も知らない呪文と真夜中とハイイロオオカミ

犬丸寛太

第1話誰も知らない呪文と真夜中とハイイロオオカミ

 私は日々、眠れぬ夜を過ごしていた。

 都会の大学を卒業して、しばらく会社勤めをしていたが間もなく3年目に差し掛かろうという時私はパニック障害になってしまった。

 いくつもの心療内科を訪ねたが薬が増えるばかりで結局私は仕事を辞め山奥の実家へ戻った。

 原因を考えるとキリは無いが要するに社会に馴染めなかった。

 誰に相談しても帰ってくる言葉はいつも同じものだ。

「なるようにしかならない」

「考えすぎだ」

「誰だって同じように悩みを抱えている」

 全て至極全うな意見だが、そんな事は自分でもわかっている。

 他人の気持ちなどわかりようも無い。

 結局のところそれが真理だ。

 何年も眠れぬ夜を過ごし悩み続けた私の脳髄は擦り潰れてしまった。

 私は残りかすかな正気をもってせめて人間を全うするために真夜中の森へと向かった。

 先ほどまでの雨で木の葉は露を纏い、陰湿な森の中泥濘にまみれながらとにかく少しでも奥を目指した。

 人目につかないような場所を目指したわけではない。私は探し求めていた。

 昔、本で読んだことがある。

 とある修行僧は空腹の獣を前に自らを差し出したという。

 それは只の作り話だろうが、一つの「高尚な人間」としての有様を伝える物語として私に刻まれていた。

 幸か不幸かこの辺りはよく熊が現れる。

 私はひたすらに暗闇の中を人間として歩き続けた。

 時間が無い。夜が明ければ私は正気を失い獣となってしまう。

 どれほど森をさまよったかわからない。木々の隙間から垣間見える月が私の狂気を増長させる。

次第に増していく焦燥感にいよいよ正気を失いかけた時だった。

分厚い木々の天蓋に覆われ一切の月の光も届かない暗闇の中に薄ぼんやりではあったが何か動物のようなものが地に臥せっているのが見えた。

私が近づいても微動だにしない。

いよいよ間近まで近づいた私に一瞥をくれたきりまた動くのをやめた。

野犬かとも思ったがよくよく観察してみるとそれは狼のようだった。

日本狼はすでに絶滅して久しい。昔図鑑で見たハイイロオオカミという種だろうか。

毛並みは悪く、力なく地に臥せっている様子は死を間近にしているようだった。

折角の肉食獣を見つけたのに死にかけではどうしようもない。私は落胆からか疲れからかその場に座り込んだ。

まもなく夜が明ける。その時彼は純粋な獣として死に、私は狂気に飲み込まれた獣となってしまうだろう。

私は心底彼がうらやましく思えた。獣として生まれ獣として死にゆく彼に対し、人間として生まれながら私は人間として死ぬことができない。

諦めた私は獣のようにその場に倒れ伏した。

仮初の獣となった私は人語を失いうなり声を吐き続けた。やがて思考も消え失せ本当の獣となるだろう。

その時だった。私は腕に弱弱しいながらも痛みを感じた。

私の隣に臥せっていた彼が私の腕に噛みついていた。

本能だろうか、それとも獣としての矜持だろうか、仮初とはいえ獣となった私を彼はようやく捕食すべき対象とみなしたようだ。

死の間際にあって尚、彼は獣としての生を全うしようとしていた。

しかし、やがて彼は息絶え、私も意識を失った。

目を覚ました時、私は診療所のベッドに横たわっていた。

地元の猟師が偶然私を見つけたらしい。

呆然とする意識のなか、腕の鈍い痛みだけがはっきりと感じられた。

腕の鈍い痛みは獣になりかけた私に恐怖を感じさせた。

もし彼が死の間際でなかったら、私が本当に獣になっていたら、作り話のような高尚な死に際ではなく、ただただ惨たらしく食い殺されていただろう。

私は久しく感じていなかった人間としての生を実感した。助かったと思った。

腕の鈍い痛みは呪いのように私に訴えかけてくる。暗闇の中ただただ強者に怯えやがて食い殺される。獣になるという事はこういう事だと。

私はあえて傷を残した。

これは私にかけられた獣になることを許さない呪文。

彼が私に与えた誰も知らない呪文。

まばゆい日の光の中、真っ白なカーテンが風に揺れていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

誰も知らない呪文と真夜中とハイイロオオカミ 犬丸寛太 @kotaro3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ