はじまりを切り裂くモラトリアム

雨露多 宇由

たぶん一回はみんなが思ったことがあるやつ

 




 


 ——モラトリアム:主に政府による一時停止や猶予、またその期間を意味する語。

 

 僕はなぜかは知らないけれどモラトリアムという語とひぐらしが結びついていて、いつもその文字列を見るたびに耳の奥でひぐらしが鳴いているような気がしていた。だから、逆にひぐらしの鳴き声が耳に入れば、脳裏にその言葉が浮かんでくるのだ。

 夏の終わり、赤く染まる公園、誰もいない静寂の中で、ひぐらしだけが叫んでいる。その光景が強く心に沁みついていて、だからなのだと思う。

 もちろん、そんなのはただの気の所為で、実際にひぐらしが鳴いているわけではないし、ひぐらしが鳴いているからと言ってモラトリアムの状態にあるだなんてのはありえないのだ。当たり前だ。雨が降ったら地面がぐちゃぐちゃになるくらいに当たり前だった。

 そう、当たり前だったのだ。

 当たり前だったんだけど、なあ。


 ——カナカナカナカナカナカナ。

 

 はあ、と内心でため息を吐きながら正面を見据えた。

 僕の目の前には、包丁を腰だめに構えて突進している中年の男、の突進方向で驚愕と恐怖に目を見開いている女子学生がいる。

 まあこれだけだったら単に通り魔が女子学生を襲おうとしている一場面だな、僕は逃げないといけないな、なんて考えるのだけれど、生憎とそんな簡単な問題じゃなかった。

 止まっていた。

 立ち止まる、とかではなくて、本当に止まっていた。停止していた、が正しいのかもしれない。

 体重をその切っ先に乗せた包丁も、それを構えて目を瞑った男性も、その標的であろう女子学生も、風に揺れる彼女の黒髪も、すべて。

 停止していた。

 まるで時が止まったみたいだった。

 人間は面白いもので、こういう超常現象じみた光景を見ても驚きとかそういう心の動きは無くて、ただ冷静に目の前の現象がなんであるかとか、その危険性だとかを判断するらしい。まあ、これは僕だけかもしれないけれど。

 ちなみに中年男性と女子学生だけではなく、その他すべても止まっているらしい。

 なにせ、僕も全く動けないのだ。

 目も、手も、足も動かせない。身じろぎ一つもできやしない。目は開きっぱなしだけども乾いた感覚はない。

 ただ動いているのは脳みそだけだ。脳みそが動けているということは、血流も止まっていないだろう。血流が止まっていないということは、心臓は動いていて、生命活動を行うになんら損傷もないということだ。

 つまり、止まっているのは僕以外のすべてだと推測できる。多分ぼくが今動けていないのは、空気の動きが止まっているからとかそういうやつだろう。もしかしたら、目の前の二人も脳だけは動いているのかもしれないが。まあ、確認できないので推測の域を出ない。


 ……いや、なんでやねん。

 これあれじゃん。時を止めれる能力じゃん。明らか目の前の人間を助けようとして自分でも知らなかった能力が覚醒するやつじゃん。主人公もしくはその他メインキャラクターの最初のストーリーじゃん。こっから現代ファンタジージャンルのラノベ的な展開が待ってるやつじゃん。

 なのに。え、なんで動けないの? おかしくね? いや理屈はわかるよ。確かに、漫画とかで時止め能力持った奴がいたら絶対に一回は突っ込まれるやつだよね。

 うん、突っ込む気持ちもわかるし、実際全部の時間止まってたらこうなるよね。けど。けど!


 ロマンもへったくれもねえ!!

 

 動かせろよ! 僕だけはこの停止した時間を動かせろよ! てかこの能力勝手に発動したは良いけどやめ方がわかんないんだよ。僕もうかれこれ体感二時間くらいはこうやってるぞ。体の疲れはないけども、精神は疲れるし、てかこれ脳動かすのにエネルギー使ってるからこのままだと餓死する可能性がある。え、こわ。もしかして僕死ぬかもなのか。いやまあこのまま能力が解けて、時間が進んだとしても目の前の女子学生は重体ないしは死んじゃうんだけど。

 どうすりゃいいんだ、これ。

 もう何十回目かもわからないため息を心の中でついた。

 

 カナカナカナカナ、とひぐらしの声がする。

 これがモラトリアムってやつなのか、と悟った。

 絶対違うが。




 *




 カナカナカナカナカナカナ。

 

 どうもこんにちは。時間停止系バーチャルユーチューバーの時 止(とき とめる)でーす。今日はね、たまたま通り魔とそれに襲われそうになってた女子学生を見かけたので、さくっと時間止めて救っちゃおうと思います。まあね、こんなん楽勝ですよ。今までどんだけ人救ってきたかわからんくらいですからね。じゃあ行きますよー、はい。これでね、時、止まりましたんで。もうあと通り魔のおっさんをぶちのめして警察の前に置いとくだけなんですよね。じゃあいっくぞーっておーい。体動かへんやないかい。これはうっかり。思わず力入っちゃって、僕以外のすべて、止めちゃったみたいですね。あはは、やってもうた。はい、ということでね、今回の配信はこんなところで終わろうと思います。ぜひね、チャンネル登録とか、よろしくお願いしま——はっ。


 やばいやばい。現実逃避に興がのってつい僕が配信者として活動していたらのIFを描いてしまった。僕は一体何をしていたんだ。何になろうとしていたんだ。結局動けないのは同じだったし。


 まあ、相変わらず動けないままで。耳に届くひぐらしの声もカナカナカナと元気なまま。

 これもしかして時間が止まってるんじゃなくて、僕の視覚だけが止まってる可能性ないか? いや、ないか。視覚だけイカれてたとしても、悲鳴やらなにやらが聞こえないのはありえないし。僕の認識丸ごとだったらなすすべもないが、まあ少なくとも僕の体は正常に動いてるっぽいので大丈夫だろう、多分。

 本当にどうやったらいいんだこれ。思いつく限りの時間停止能力を持つキャラからなにか参考にならないか考えてみたが、だめだった。そもそもあいつら前提として自由に動けてるし。なんで? お前らもこの苦しみ味わっとけよ!


 ……ん? いや、そういうことか。彼らは最初からこの停止した時間の中を動けていたわけじゃない。きっと彼らも僕と同じように動けなかったのを、努力して動けるようになったのだ。

 そうと決まれば、修行である。努力である。友情はないが、勝利を手に取ろう。

 まずこの能力を僕が発動しているとして、大体こういうのは体内のなんらか——魔力とか、気とか——を消費して発動できているはずだ。つまり、その消費している何かを特定し、消費量を操ることが出来れば、この能力を解除、ないしは緩めることだってできるのではないか。

 よし。やろう。何か前に進むようなことをしていないと気が狂ってしまう。なにせ僕以外のすべてが止まっているから、音が自分の心音とかなのだ。あとひぐらし。

 とりあえず目を瞑って——そういう意識で——体内に気を向けてみる。なんか普段と違うことはないか。一部位のみ妙に疲れているところなどはないか。探す、探す、探す。ほんの少しでもいい。ほんの少しの手がかりさえあれば、この有り余る時間(無限ではない)を使って必ずゴールまで辿り着ける。

 何かないか、何か。


 ……何もない。僕の体の中に何もおかしなところはなかった。というかそもそも自分の体の中に異変があるかなんてそうそうわからない。痛みでもあればわかるのだが、そんな痛みも無いし。僕の認識においては至って健康体である。これどうやって発動してんの? 異能を使うためのエネルギーの概念が出てこないタイプの作品にあるやつなのか。だとしても疲れるとかはあるだろうよ。特に時間を止めるなんてエグい能力、代償もなしに発動できるとは思えない。というか、発動してはいけない。

 

 カナカナカナカナカナカナ。

 

 失敗か、とうなだれる僕の耳にひぐらしの鳴き声が響く。うるさ。別に今まで気にしてなかったけど、こういうちょっと気分が落ち込んだ時に聞こえるとうるさいしイラっとするな。あとなんか悲しくなる。夏休み最終日付近のあの感じ。

 蝉の声を聴くと、特にひぐらしの声を聴くと、夏の匂いがする気がする。夏の、終わりの匂いだ。日が眩しくって、照らされた緑がひどく輝いていて、空は青くて、雲は白くて。泣きたくなるような、背を曲げてしまいたくなるような。

 そんな魔力を、ひぐらしの声は持っているのだと思う。だから、この鳴き声を聞くとモラトリアムを感じるのだ。


 カナカナカナカナカナカナ。

 

 僕は今大学生であり、俗にいう社会に出る前のモラトリアム期間である。だからなんだって話ではあるのだが、こういう身分だからこそひぐらしの声が沁みるのだ。ひぐらしの声っていいよね。ぶっちゃけうるさいんだけど、でもこの僕以外が停止した世界で寄り添ってくれるのはこいつしかいないから、否が応でも愛着が出てくる。

 僕はひぐらしの声を聴きながら死ぬのか、と考えて、まあそれもいいな、と思った。

 なんかエモいし。全然まだ死にたくはないけど、死ぬとしたらそんな感じだったら天国で自慢できそう。

 カナカナカナカナカナカナ。

 僕は停止した世界で、ひぐらしに看取られて死んだんですよって——ちょっと待て。

 

 いや、おかしいだろ。どう考えてもおかしい。

 ——なぜひぐらしの鳴き声がする?

 なんで気づかなかったんだ。停止した世界で、ひぐらしだけが動いているはずもないだろう。まず今の季節は冬だ。野生のひぐらしが生存しているような季節じゃない。

 幻聴かとも思ったけど、そもそもこれが聞こえ始めたのは時間が止まってからだったろう。幻聴だとしてもタイミングが良すぎる。そんなの、この状況と関係あるに決まってるじゃないか! くそ、あまりにも自然に鳴き声があったから、惑わされた。

 ……いや、頭に上がることすらなかったのか。それが自然すぎて。それが当たり前すぎて。

 この状況において、当たり前であると感じすぎて。

 

 つまり。つまりだ。この時間が停止しているという異常な状況で、存在して当たり前だ、自然だと思うようなこのひぐらしの声は、この能力とセットのものと考えられる。このひぐらしの声を止められれば、この能力は解除できるだろう。

 

 この季節にひぐらしがいるわけないしいたとしても止まっているだろうから、このひぐらしの鳴き声は幻聴だと推測できる(この能力の影響を受けないひぐらしが出現することまでがこの能力だったらお手上げだけど)。つまり、僕の脳の中で生成されている音なわけだ。現状僕が自由に使えるのは脳のみ、けれども脳でこのひぐらしの鳴き声が生み出されているのならば、なんとかできる。いや、してみせる。

 がんばれ、僕。もう否定された説だが、人間の脳は使用していない部分があるらしい。まだ見ぬ力が眠っているらしい。かつ、人間は非常時、火事場の馬鹿力というくらいに、脳のリミッターを外すことが出来る。


 今は誰がどう見ても非常時だ。そして、覚醒したこの能力はきっと脳の使われていない部分を使用しており、ひぐらしの鳴き声を生成しているのもそこのはずだ。


 つまり。


 今の僕ならば、この能力を自在に操ることも可能——!!

 



 カナカナカナカナカナカナ。

 カナカナカナカナ。

 カナカナ。 

 カナ。


 ……。


 ——瞬間、時は動き出した。

 普段当たり前のように存在する雑音が耳に戻り、手足が動くようになり、そして。

 鈍く光る包丁の切っ先が、女子学生の胸へと吸い込まれる。


「待て待て待て待て」

 

 カナカナカナカナカナカナ。


 ピタリ、と切っ先は止まる。あと一秒でもあれば女子学生の胸からは鮮血が噴出していただろう。

 危なかった。本当に危なかった。別に彼女を助けようとかは微塵も思っていなかったはずなのに、反射的に時を止めてしまった。この能力を操れるまでの時間ずっと視界に存在していたからだろうか。それとも、普通によく見たら顔がかわいかったからだろうか。多分後者だ。


 さて、時を止めたはいいものの、どうしようか。また僕以外のすべてが停止し、身動き一つできない状況になってしまった。まじでどうしよう。

 今の僕にできるのは、このひぐらしの鳴き声を無くすことと、また生成すること。つまり、時を止めることと動かすことしかできない。勿論その間僕は何もできないのだから、結局作戦会議ぐらいしかできないのだ。


 うーん。この女子学生、死なすには惜しいんだよな。かわいいし。あと今気づいたけど制服がお嬢様学校のやつだったから、助ければなんかお金とかもらえて就職のコネとかも貰えそうだし。助けた時のメリットがありすぎるんだよな。うん。いいな。お金欲しい。あわよくば不労所得が欲しい。マンションか大企業の株ほしいな。


 うん、助けようか。決定。ひそかに目標としている一日一善も達成できそうだし。

 いやまあ、助けるのは決まったんだけど。

 どうやって助けるか、がなあ。

 時を止めるだけじゃなくて、戻したりできないのだろうか。いや、それじゃあ結局同じか。やっぱりこの停止した世界で僕だけが動く方法とかが見つかればいいのか。

 とはいえども、現状ひぐらしの鳴き声が時間の停止に関係していることしかわかっていないからなあ。


 ……もしかして、他の蝉の鳴き声とかだったら他の事できるようになる?

 いやいや、さすがにそれは安直すぎる。え、うん。そんなはずがない、よね。もしそんな能力だったらどんだけ僕は蝉好きなんだよってなるし。そもそも蝉あんま好きじゃないし。あと鳴き声とかいちいち覚えてないわ。

 まあ、でも、ね。ちょっと試すだけはしてみようかな。


 ……。

 ツクツクホーシツクツクホーシ。

 ……。

 …………。


 ……………まじか。え、まじかよ。

 手が動く。足も動く。ジャンプもできる。走ったりもできる。けれど、僕以外のすべては停止したままだ。

 ええ、そっかあ……。

 僕の能力、蝉の鳴き声で時間を操るやつなんだな……ちょっとなんかこう、恰好つかないな。


 まあ、うん。でも動けるようになったのはいいことだ。よし! とりあえずむしゃくしゃした気持ちとかは全部目の前のこのおっさんにぶちまけよう!




 *




 え? その後どうなったかって?

 あの女子高生、連絡先はくれたけど金はくれなかったよ。クソが! ほしいのは一銭にもならんお前の連絡先じゃなくて、偉人が書かれた魔法の紙切れなんだよ!!

 金くれ!!!!







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はじまりを切り裂くモラトリアム 雨露多 宇由 @gjcn0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ