第4話
「記憶喪失だァ?」
「そう」
「何も覚えていないってのか」
「名前だけ憶えている」
少女の同行を許したわけではないが、少年は一旦歩くのを止めて、彼女と話し合うことにした。外の世界の一般常識を手に入れようという目論見も含まれていた行為だったのだが、それは少女の一言によって無意味なものとなってしまっていた。
「本当に鬼のことも知らないのか」
「知らない」
これには少年は頭を再び抱えるしかなかった。少女が鬼を怖がらないのは、それが外の世界での一般常識なのか、それとも記憶喪失だからなのかが分からないからだ。このままでは、せっかく話すをすると決めたのに何も得るものがなくなってしまう。
「名前以外に何か憶えていないのか」
「ない。気付いたらこの森にいた。歩いていたら川辺であなたを見つけた」
「じゃあ、どっちに村があるとかも」
「知らない」
せめてもの救いは彼女の喪失した記憶が、彼女の個人的なものばかりだということである。森や川辺といった単語は忘れることがないため、会話は成立している。
その点で言えば、鬼のことも一般常識の類になると考えることも出来たが、それで判断するほど少年は楽観的ではなかった。
加えて言えば、彼女が記憶喪失の振りをしている可能性もあった。だが、そうだとすればそれを行う理由が分からなかった。
「で? その憶えている名前って」
「
「ふゥん……」
「貴方は?」
「え?」
「貴方の名前は? ワタシだけ名乗るのはずるい」
「ずるいって……、いや、それはだな……」
ひたすらにまっすぐと少女がのぞき込んでくるものせいで、少年はどこか居心地が悪かった。厄介者扱いされていた少年をマイナスの感情を込めずに見つめてくる者など居なかった。
「ないよ」
だからこそ、名前を聞かれても答えることが出来ない自分が情けなかった。いままで、名前ではなく番号で呼ばれていたことに苛立ちこそすれ情けないと思ったことなどなかったというのに。
「ナイ」
「違う、ナイじゃなくてないんだ。オレには名前がない」
「鬼だから?」
「……そうだな、鬼は、名前をもらえないんだ」
お前たちのせいでな。
出かかった言葉を少年は飲み込んだ。どうしてか分からないが、ここで言ってはいけない気がして。
「それだと誰かを呼ぶときに困る」
「番号では呼ばれてたよ。オレは、……九十九番だった」
「九十九番」
「もういいだろ……、この話は。それより、森ってのは夜になると危ないんだろ? この際近くの村までは一緒に居てやるから大人しく」
「
「つく、何だって?」
たった少し会話しただけだというのに、今まで感じたことのない感情を複数経験してしまい、少年は逃げたくなっていた。それでも、彼女を置いていかないのは、記憶のない者を危険な場所に放置する人のような鬼には成りたくなかったからだ。
「九十九と書いて、つくもとも読む。だから、貴方は
「…………」
「自信満々」
えへんと彼女は胸を張る。
だが、固まったまま動かない少年に、いや九十九に彼女は首をかしげるしかなかった。
「気に入らない?」
「あ、いや……。その」
「照れか」
「そういうことを言うもんじゃねェんだよ!!」
剰え肩まで叩いてくる少女に、九十九の顔は真っ赤に染まる。
名前なんてものは記号だと思っていた。番号呼びを嫌がるのはあくまで奴隷扱いを嫌ったからであり、名前が欲しいかと聞かれればそれの何が良いのか九十九には分からなかった。だが、一に名前を呼ばれた時、彼の中で何かが変わっていく音がした。
小さく、でも、はっきりと。
「一発で気に入る。ワタシのセンスは天才的」
「読み方変えただけで偉そうに言うな!」
「でも、気に入っている」
「し、仕方なくだ! お前が呼びにくいだろうから、仕方なくそれで良いって思ってやっただけだ!!」
その後も、嬉しそう。素直になれ。と少女があけすけに言うものだから九十九はそのたびに誤魔化すように叫ぶばかりであった。
「ともかくだ!」
「話変えた」
「早いところ村を探すぞ! このままだと日が暮れちまう!」
「……うん?」
「うん? 日が暮れて夜になったら危ないんだろ? さっきも言ったけど」
「違う。そこじゃない」
一の瞳に宿る疑問の感情に、今度は九十九が首をかしげるしか出来なかった。
「違うって何が」
「日が昇るのは、今から」
こいつは何を言っているんだと、記憶喪失でありながら一の瞳はそう物語っていた。
「ぎゃァァァ!! まぶッ!! 目が焼けるゥゥ!!」
「うるさい」
「痛ェェ……ッ! なんだこれ、なんだよこれェ!!」
木陰に逃げるように飛び込んだ九十九が手で顔を覆って、のたうち回る。一は最初は心配していたが、続く苦しみに早々に対応を飽きてしまっていた。
彼女が言う通り、二人が出会ったのは日の出もまだの空がうっすら明るみ始めている時間帯のことであった。その薄暗さでも、生涯を地下で暮らしていた九十九にとっては十分すぎるほどの明かりを誇っており、それが太陽が出てしまえば明るいを通り越して彼の目を焼く凶器と化してしまっていたのだ。
動かないといけないことは分かっていながらも、その日彼が動けるようになることはなかったのだった。
百語 @chauchau
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