第3話


 意識を保つことが出来たのは初めの数秒間だけであった。

 まず初めに感じたのは全身を切り裂く刃の如き冷たさの水である。一筋の明かりも見えない暗闇で冷たさを感じた次には、その身をバラバラにするほどの衝撃が走る。

 前後左右も分からないほど振り回される感覚に、自身が流されていると分かった時には、少年は頭を強打し何も分からなくなっていた。


「――……?」


 微かな意識のどこかで、少年が誰かに声を掛けられたような気がしていた。

 彼が生きてきたなかで聞いたことがないほど優しい声だった。だが、それは気のせいだったと思うこととなる。


「ごはッ?」


「起きた?」


 腹にズドンに撃ち込まれた一撃に優しさの欠片も宿ってなどいなかったから。

 強制的に覚醒させられた少年が目にしたのは、自身の腹に落とされた大きめの石と一仕事終えた風の美しい少女であった。


 その場には彼らしかいないのであれば、この石を落としたのは少女で確定して間違いない。


「起きてない?」


「起きた! 起きたよ! 起きているよ! ふざけんな、馬鹿野郎!!」


 二発目を探し始めた少女に少年は飛び上がる。全身が痛みに叫ぶが、これ以上ダメージを負いたくないだろうと叱咤激励を身体に飛ばす。


「ならば良し」


「なんなんだよ、お前……」


 サムズアップをしてみせる少女の掴めなさに少年は困惑してしまう。だからこそ。


「そもそもここど……」


 気付くのが遅れてしまっていたのだ。


「こ……」


 火とは異なる世界の明るさに。

 吹き抜ける風の心地よさに。

 揺れる木々のざわめきに。

 壁のない世界に。


 全てが初めてのものだった。

 話だけでは聞いたことがあるそれは、少年が願い続けた何かである。希い、望み、手を伸ばす。その上で、折れかけていた何かである。


「嘘……、だろ……」


「何が」


「信じられねェ」


「何が」


「……は、ははッ」


「聞いていない」


「はは……ッ! やった、やったんだ……!!」


「何を」


「オレは……、オレは自由ぐふォ!?」


「聞け」


 当社比で軍服たちの数倍ほどの痛みを誇るのは、小さな少女の手で生み出されたものだった。


「落ち着け」


「いきなり殴ってくるお前に言われたかねェよ!!」


「照れる」


「褒めてねェ!!」


 少年が殴る蹴るの暴行を頻繁に受けていなければ間違いなく一撃で意識を刈り取られていたであろう拳を振るったのが目の前の少女であることを実際に受けてなおも信じることが出来なかった。

 少年と少女の歳はほとんど同じか、少し少年の方が高いように見て取れた。そして、細身ながらもしっかり筋肉が付いている少年とは異なり、少女はまるでおとぎ話に出てくるお姫様のように華奢だったからだ。

 光すら飲み込んでしまいそうなほど澄んだ漆黒の髪を持つ少女は、少年がどうして叫んでいるのか本当に分からないと首をかしげている。そんな態度をされてしまえば、怒っているほうが馬鹿らしくなってしまうのも致し方がない。


「もういい……、はァ、助けてくれたのはありがとうな。それじゃな」


「うん」


 少年は歩き出した。

 このままここに居てもどうしようもなりはしないのだ。もしかすれば少年を探しに彼らがやってくるかもしれない。それがなくても、このままでは飢え死にしてしまうことは間違いない。ただでさえ労働の最中だったために少年は腹ペコなのだ。


 少年が歩く。


 少女があとをついてくる。


 少年が止まる。


 少女が止まる。


 少年が歩くと、


 少女があとをついてくる。


「ついて来るなよッ!!」


「え?」


「お前だよ、お前!!」


 堪らず振り返った少年の声に、少女まで後ろを振り向いた。そんな彼女に少年が叫べば少女はまた首をかしげる。


「その発想はなかった」


「嘘だろ!? 意味わかんねェよ! ここがどこだか知らないけどさ、ここ外じゃん! 外の世界じゃん!」


「へぇ」


「お前はお前の家に帰れよ! なんだ、礼でも欲しいってか! 悪いけど文無しだ! 感謝しか言えないけどありがとうな!」


「どういたしまして」


「そんじゃな!!」


 再び

 少年が歩く。


 少女があとをついてくる。


 少年が止まる。


 少女が止まる。


 少年が歩くと、


 少女があとをついてくる。


 少年が、


「ついて来るなって言ってんだろうが!!」


 叫んだ。


「え?」


「同じ展開してんじゃねェ!!」


 少女が後ろを振り返るので、さすがの少年も我慢出来なかった。むしろ、彼からすればよく我慢したほうである。

 始めて見るものばかりだったのだ。少年が地下水脈に流されてたどり着いたのはどこかの森であるのだが、木といえば地下にも伸びるほどの巨大な根っこしか見たことがなかった少年にとって、まさしくこの森は宝の山だったのだ。本当であれば至る所を調べつくしたい興味をなんとか抑え込んで生きるために歩いていたのだ。それを邪魔されたとあっては叫びたくなるのも当然と言えるだろう。


「問題がある」


「なんだよ!」


「ワタシの家はどこ」


「知るかよ、そんなこと!!」


「その発想はなかった」


「お前の発想がおかしいんだよ、じゃあ!!」


 頭を抱えてしゃがみ込むしかなかったが、そうすると少女が真似をし始めるので少年は頭を抱えることを止めた。加えて言えば、どうせ疲れることになるとこの短いやり取りで学んでしまったが故に、突っ込むこともしなかった。


「だいたい分かってんのか、オレは鬼だぞ!!」


「うん?」


「鬼! おォに!!」


「なにそれ」


「なにそれ、って、いや、だから鬼なの! 人じゃないの、分かる?」


「ワタシは?」


「人だろうが、外で暮らしてんだから!!」


「鬼だと何があるの?」


「何があるって、お前……、だって……」


 地下世界では常に鬼という存在はとてもおぞましいものであると教え込まれてきた。愚かで、可哀そうで、醜い生物であると。だからこそ、人が導いてやらねばならない矮小で生物であると教え込まれたのだ。勿論、実際にはもっと言葉を選んでいたが、少年からすればそうとしか聞こえなかったのだ。

 軍服たちも鬼たちを奴隷としてしか扱ってこなかった。歩いている時に身体に触ってしまおうものならそれだけで何を言われて、何をされるか分かったものではない。


 だからこそ、少年は外の世界も同じ。いや、普段接していない分それ以上の扱いを受けると思っていたのだ。だというのに、鬼だと明かしてしまったあとでも少女の対応が変わるそぶりは見られなかった。


 少女の態度に、少年の頭はらしくもなく回転し続ける。し続けて……。


「はァ……」


「どんまい」


 オーバーヒートを起こし、その場にへたれ込んだ。

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