第31話 久遠なぎさはなびかない
「荷物が教室に置いてあるの。取ってきてもいい?」
久遠がそういうので、一緒についていくと、ここあとショータもついてきた。なぜか、ショータは久遠から3歩ぐらい離れた距離にいて、近づこうとしない。「どうしたのさ」と聞くと「間合いに入りたくない」とか、わけのわからないことを言っていた。
教室のなかは、朝と変わらないぐらい、にぎやかな様子だった。
――久遠が教室に、顔を見せるまでは
ぴたっと、音が止まる。
机の上に座っている野球部の佐藤も、久遠の姿を見つけたようだった。
久遠は見ただけでわかるヤバい笑顔を浮かべた。
あまり見たくはない、久遠スマイルだ。
「わたし、忘れ物を思い出したわ」
久遠は、俺たちを教室の出入り口に残してスタスタと歩いてゆく。なぜか、自分の席ではなく、みんなが集まる席へ――佐藤の元へ向かった。
「「……ああっ」」
俺とここあと、ショータの声がハモる。
やると思った。
教室の入り口から顔を覗かせ、見守る。
ショータは教室の壁に背中をつけて、聞き耳を立てていた。
「佐藤くん、ちょっといいかしら」
周りが道を開け、佐藤と久遠が向かい合う。
佐藤は慌てて、机の上から立ち上がっていた。
「ひとつ確認したいことがあるの。わたしとあなた、付き合ってる?」
単刀直入に、久遠が切り込んだ。
佐藤は、へらっと笑った。
周りはシンと静まり返る。
動かない空気から、まずい場面に立ち会っていることに気が付いたようだ。
「昨日、あなたがわたしに告白してきたとき、言ったわよね。好きな人がいるから付き合えないって。つまり、わたしとあなたは付き合っていないの」
久遠がにっこり笑ってから、言った。
「はっきりと否定しなさい。不愉快よ」
久遠がキッパリと言い切ったとき、ショータと目が合った。
俺たちは、顔を引きつらせていた。
「いいか、テツ。絶対にあいつを怒らせるな。オレは学んだ」
「俺、あんなこと言われたら泣いちゃう」
久遠が改まって、一度だけこちらに視線を寄こしてから続けた。
「ちなみに、わたしと付き合ってるって言っていいのは、ひとりだけよ。羽純くんだけ。デマじゃなくて、事実を広めなさい」
――ぶはっ。言っちゃうんだ、それ。
「しれっと言ったな。テツ、クソうぜえ顔を止めろ」
「ちょっと、むり」
ぱかーんと口が開いたのを、がんばって閉じていた。
周りが「キャアーッ」と黄色い声を上げるなか、佐藤だけが取り残されていた。
見ていて、すこし可哀そう。
「でも、佐藤くんだしなー。ウチも行っちゃおーっ」
ここあが、急にそんなことを言い出した。
「なぎさちゃーん」
ここあは、とびきり明るい声で久遠に抱きついた。
久遠も、ここあには気を許している。後ろから抱きしめられ、細い腰に回される腕に手を添えていた。
「佐藤くん、昨日なぎさちゃんに告白したって、ほんとー?」
あどけない子供のように、ここあが聞いていた。
悪気なんて一切ない。ただ、タイミングがわるいだけ。
少なくとも、そう見えるだろう。
「あ、ああっ」
佐藤が、久遠に睨まれてから答えていた。
「ふぅーん。この前ウチにも告って、昨日は、なぎさちゃん? 佐藤くん、サイテーだね。なにを見て告ったの? 顔ー? そういうの、わかっちゃうから、気を付けたほういいよーっ」
にぱっ。ここあは、いつも通りの笑顔で、すごく怒っている。
「へえ、そうなの」
「うん。カッコ悪いから言わないでーってお願いされてたよ。そっちのが、カッコ悪いのにね」
「体裁ばかりを気にする、あなたらしいわね」
ショータと目が合った。
女の子って、怖い。
みんな、きれいでかわいいのに……腹のなかでは、とんでもないもの抱えてて、それを一切表に出さない。
「オイ、テツ。止めてやれ。あいつ、野球部でよかったな」
「どういうこと?」
「コールドゲームがあんだろ。かわいそうだと思うなら、止めてやれ。あいつら、テツしか止められねえよ」
「いいけど、どうやってさ」
「名前でもよんでやれよ」
「……止まるかな」
ちょうどいま来た風に装って、教室の後ろから顔を出す。
俺たちはみんな、うそつきだった。
「なぎさー! ここあー! 帰ろうぜ」
久遠とここあが、勢いよくふり返っていた。
黄色い歓声が、さらに高まった。
久遠は、口をわなわなさせて、顔を真っ赤にしている。
ここあは、にぱーっと笑いながら手を振ってくれる。
久遠は顔を背けながらも、急いで荷物を取り、向かってきた。
「ちょっと! どういうつもり!?」
「つもりもなにも、久遠が付き合ってるって言ったから、いいかなって」
「心の準備ができてないのよ」
「ははっ。俺も、そんなのしてないよ」
「もうっ!」
振り回したスクールバッグを当てられる。
「てっちゃーん」
近寄って来るここあが、手を上にあげる。手と手を合わせて、ハイタッチ。ふたりで「イエイッ」って声を出した。
スパンと頭をはたかれ、ショータが後ろ手に手をふってくる。そのまま、すぐに走り出していた。いまから、部活いくんだろう。ありがとう。
「ウチも部活いってくるーっ。なぎさちゃん、またねえ」
「ふふっ、ありがとう。ここあちゃん」
「あーっ、名前よんでくれたっ。うれしーーっ」
ここあは、口を大きく開けて、目を強く閉じながら笑っていた。
何度もふりかえってくる。ジャンプしながら手を振って、ここあも部活に行った。
「久遠、もしかして、まだ怒ってる?」
「ううん、怒ってた。でも、どうでもよくなっちゃったわ」
「そっか」
安心したときだった。控えめな、お腹の音がした。
「あら、ごめんなさい」
「お腹減ってたのか」
「お昼、食べ損ねちゃったのよ」
お父さんのことで、移動してたからかな。
そういえば家に、昨日のカレーがあったな。
「カレーあるけど、家くる?」
「……んなっ」
そんなまさか、みたいな顔をされても困る。
「……いく」
お腹の音よりも小さな声で、返事が返ってきた。
大人しい久遠を連れて、自分の家へ帰る。
借りてきた猫のようって、こういうことか。
「お、おじゃまします」
「いらっしゃい。って、二回目だろ?」
「そうだけれど、そうじゃないの」
「うん? まあ、座って」
リビングのソファを勧めると、久遠は静かに座って、行儀よく背を伸ばした。そんな気を張らなくてもいいのに。
冷蔵庫から鍋を取り出して、弱火にかける。
「久遠、どうした?」
「な、なんでもないわ。ほんとうよ」
なんだか様子がおかしい。鍋の火を消して、ソファに並んで座った。
「もしかして、緊張してるのか?」
「そ、そんなことないわよ」
おしりをひとつ分、俺から距離をとって、あらぬところを見つめながら言う。
なんだか、うずいた。
イタズラ心。好きな気持がくるっと反転して、いじわるで表現してしまいそうな気持ち。
だめだ。緊張する久遠をかわいいって思って、それをいじるのが、楽しそうだと思ってしまう。
「久遠と俺、付き合ったんだよな」
「ええ、そうね」
「久遠はさ、付き合ってはじめて、男の家に来たのに緊張してくれないの?」
「は、羽純くん?」
顔を真っ赤にして、しどろもどろになる久遠。俺が迫ると、久遠は両手で俺の胸を押して、顔を横にふる。
「なぎさ」
「ひゃっ」
名前を呼ぶと、久遠は拒む手を弱める。
真っ赤になる顔を隠そうと、両手を顔にあてて、体育座りのように足を引き寄せる。
借りてきた猫のように、かわいらしい。
そう思ったら、だめだった。笑っちゃう。
「ははっ」
我慢できなくなった。
久遠も、からかったことに気が付いた。
「からかったわねっ」
語尾を強く、怒られる。
「わるいわるい。なんだか、意識してる久遠が、かわいくてさ」
久遠から離れて、ぽんと頭に手を置いた。
カレーを温めに、立とうとした。
胸元がひっぱられる。久遠にネクタイを掴まれた。
「うおっ」
「人の気も知らないで、よくもまあやってくれたわね」
紅潮した頬、青い瞳が近い。
鼻と鼻がくっつきそうな距離だった。
「ええ、そうよ。緊張してるわよ。正直、どうにかなりそうよ。あなたを、意識しちゃってるんだもん。仕方ないじゃない。なんで、あなたは平気なわけ。すこしは動じなさいよ。そういうところまで、ニブいのかしら」
顔を真っ赤にしたまま、怒涛の剣幕でそう言われる。
なんでだろう。だらしない顔を浮かべてしまった。怒る久遠すら、かわいいと思ってしまう。
「わたしが彼女で、あなたは彼氏。男女の関係じゃないの。ふたりっきりになれば、多少、そういうことも思い浮かべちゃうでしょう」
「いや、俺はまったく」
「なんでよ、少しは想像しなさいよっ」
だって、久遠が家にいてくれるだけで、うれしいから。
「付き合ってから、余裕をみせちゃって、もう」
「へへっ。付き合ったのが、まだ夢みたいでさ。うれしすぎて、実感ないんだと思う」
気が付いたら、だらしない顔になってしっている。
きょとんと、久遠は目を丸めた。なにかを思いついたように、いじわるな笑顔を浮かべた。三日月のような笑みが、口に浮かんでいる。
「へえ、そうなの。まだ実感がないだけなのね」
久遠は、ぎゅっとネクタイを締めるように、握ってきた。
いきなり、ぐいっと引っ張られる。
――ちゅっ
刹那の出来事だった。
閉じた久遠の目が、近すぎる距離にある。長いまつげが、ぶつかりそうだ。
桜色の唇が、やけに生々しくて。
唇と唇がふれたと、気づいた。
久遠の唇は、温かくてやわらかい。
キスを交わしていた。
久遠の閉じた瞳が、なによりも美しかった。
きっと、この一瞬を永遠に思い出せるだろう。
「どうかしら。まだ夢のなかにいる?」
「あーっ、勘弁してくれ」
「うふふっ」
顔が一気に熱をもって、全身がぽっぽと熱くなってくる。
顔を押さえながら叫び声をあげると、久遠の指が頬をつついてくる。
「ごちそうさま。お腹がいっぱいになってしまうぐらい、美味しかったわ」
顔を赤くして、久遠とは逆の方向を向きながら、バタバタとソファを叩いて暴れていた。久遠の手が、俺の左手に重なった。
胸が一度ときめいて、すぐに落ち着いた。
久遠を見ると、目を閉じて、穏やかに笑っていた。とても幸せそうな横顔。
俺は久遠に寄り添うように、座りなおした。
久遠が、寄りかかって来る。
言葉はなくていい。
たしかに、俺たちは繋がっている。
こんな時間を、永遠に続けようと誓った。
久遠なぎさはなびかない 扇 多門丸 @senzanbansui
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