ロマンスの墓場
詠三日 海座
読み切り1話
時々、尚には幻聴が聴こえた。
――例えば、伝わらなかったこと、伝えられなかったこと。こう、息を吸うと、ずくずくと身体に染み込んでくる劣等感や後悔。忘れ去って仕舞えば、ゆっくりとそれは別れを告げて行く。形を無くしていく。然れども、ほこりだと思って払おうとすれば全部擦り傷だったりもするから、人は痛みを覚える。ずっと払えないでいる。
その人が幸せそうに見えるのは、その心の在り方が幸せだからなのだと、尚は本で読んだ。苦痛を忘れる努力が、人を幸せに導くのだそうだ。
苦痛を忍んで苦痛を忘れ去ることがあるのなら、痛みば倍だなと、尚は呆れたことがあった。
それが怖くて、刺さったままの矢なら、万人無数に抱えている。
時々、本当に時々、幻聴が聴こえた。
「紫原ぁ」
尚はPCから顔を上げ、振り向いた。上司の姿があった。
「テープ見てるか?そろそろ交換だぞ」
「はい」
尚は時計を見やる。あと13分で時計の針が午後の7時を指す。頃合いだった。伸びをしてから立ち上がり、隣の記録室へ向かう。
LVBI観測局――ここでは人工衛星「はるか」より観測された天体の動きが、休みなく記録されている。銀河系内の天体距離の測定や、地球回転の変動、月の周回衛生の位置観測が、主な目的とされていた。観測された情報は、テープに波形で記録される。磁気テープだった。相関器という磁気テープを搭載した装置が存在し、テープがいっぱいになると交換が要される。1日に2回、現在でもこの作業は手動で行われている。紫原尚は観測局でオペレーターを勤め、泊まり込みで、これを行う。
無造作に記録室の扉が開けられた。途端に大きくなる機械音、そこらかしこに名前と位置の決められた装置、その奥の超高速型相関器の前で、尚は端的に作業を済ます。今まで幾度となく交換を繰り返してきたが、尚はたまに、相関器から記憶を取り外している感覚に陥った。
この仕事も作業も、銀河も空も、特別好きなわけではなかった。もう随分長いこと夜空のあれを「星」と呼んでいない。この界隈では天体またはクエーサーと言う。星と呼ばなくなったあれにはもうなんのロマンスも抱けない。
今、世界では感染病が流行っいて、世間は混乱し、人々は憂いた日々を送っているようだった。
この局にやってくる外部の研究者たちが、局の宿泊施設の利用が禁止されたのも、そのせいだと彼は後から思った。離島に置かれたこの観測局では、感染病の影響もほぼ無いに等しく、自宅に帰る必要もなかった。世界の混乱に打って変わって、尚は晴れ渡る空の青さに呆れた。
記録室を出て、建物の外で、尚は煙草に火をつけた。日はすっかり暮れていた。頭の上を、夜空と無数の天体が浮かんでいた。
尚、と呼ばれた気がした。ずっと昔に愛した声だった。振り向くと、なんの姿もなかった。
時々、尚には幻聴が聴こえた。
尚の愛した人はよく夜空を仰いで眺めた。もう星にも、呼ぶ声にも、その傷にも、幸せにも、なんのロマンスも抱けない。
ロマンスの墓場 詠三日 海座 @Suirigu-u
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