孤独死の幻影

脳幹 まこと

諦めの果て


 気が重くなる話と言うのは、ある程度の勢いがないとなかなか書けないものだ。

 だがまあ、ここで一旦咀嚼途中のものを眺めてみてもいいだろうと思って、この文章を書いている。


1.


 自分は一人で死んでいくのだろう――


 この感覚、学生時代の頃には既に備わっていた気がする。ただ、今ほどにはっきりとは感じていなかった。当時の自分は、山積みの宿題や授業を消化するので精一杯だったし、学校と家の周囲にしか世界がなかったので、明確に意識することが出来なかったのだろう。

 歳月を重ね、自分の制御がある程度出来るようになったとき、「アパートの一室でどろどろの腐乱死体となって発見される」というイメージがはっきりと見えてきた。

 五年後、十年後、二十年後、四十年後……様々な年代の自分が、様々なかたちで死んでいく。ありそうなのは、脳の血管が切れるなり、詰まるなりすること。あとは何かのはずみで酒や薬を多量に摂取して、身体のしびれを感じたのを最後に意識を喪失、そのまま目覚めないというケース。歳をとれば、癌細胞が全身に転移しているかもしれない……

 死に方はあれど、共通項は一つ。それは孤独の中で息絶えるということだ。孤独に善悪はないと思っているが、それでも人は不安を覚える。何に不安を覚えるか、はっきりしているのは「誰かの迷惑にならないか」ということ。生きていれば誰かしらに迷惑をかけているのだし、それはお互い様だろうというポジティブな気持ちも同時に抱いてはいるのだが、それでも死んでしまって、事故物件を一つ生み出すのは気が引けるものだ。

 乾いていない死骸は臭い。小学校の頃、通学路に何故か路上に魚の死骸が何匹も置かれていたことがあったのだが、その時の強烈な臭いは今でも印象に残っている。あれは腐敗――細菌が細胞を分解することで発生する現象。魚に意識があるのかは不明だが、魚の意識が途絶え、心臓が止まろうとも、残りの細胞たちは短い間とは言え、生きるためのプログラムに基づいて増殖しようとするわけだ。そのわずかな抗いが終わると、敗して腐っていく。

 孤独死とは、要するに腐敗から逃れられないことを意味する。


2.


 死ぬ前に後悔したくない――


 本を読む限りでは、人は大概、死ぬ前に後悔をしているらしい。要約すると以下の通りだ。

「なんできちんと生きておかなかったのだろう。ああ、理由は簡単だ。自分の人生がたった一度の、しかも限りのあるものだったなんて、思いもよらなかったんだ!」

 馬鹿げていると思うのだが、どうやらこんなことを(おそらく)数十年後の自分は抱くことになるだろう……おそらく一人で。

 現時点の自分ならば「何をすればきちんと・・・・生きたことになるんだ?」と小一時間問い詰めるだろう。結局、物事がすべて終わらない限り、総合成績というものは分からない。黒か赤かのギャンブルで、ひたすらに黒を賭け続けて大敗したとしてもだ。一回でも黒が出れば逆転できたのかもしれない。それを「一度くらい赤を選んでおけば……」と悔やんでも仕方がないじゃないか。どうせそれで負けたのなら「黒一筋で選び続ければ……」となるに決まっている。だから人生そのものの結果については大した不安は抱いていない。

 ただ、「このまま死ぬと、すごい迷惑なことになるな……」という死後・・に関する罪悪感は拭えない。脳か心臓が停止したら自動的に最寄りの葬儀屋に連絡してくれる機器を身体に埋め込みたいくらいだ。勿論、ドナーカードにあらゆる臓器提供をするように書いておいて。

 そうしておけば、もう仮にかっこいい言葉を(一人で)吐いて命尽きたとしても、その言葉が空虚になることもあるまい。


3.


 この世に霊魂があるのならば、大気の何パーセントを占めているのだろう――


 オカルトの類は話半分に聞くタイプだが、もし霊魂が存在し、それらがこの世界にとどまっているのならば、古今東西の――生物の数億年の歴史における――あらゆる死んだものたちが飛び交っていることになる。いや、もはや今の自分のほぼすべてが死した存在によって構成されているかもしれない。そしてその死した存在の肉体も、その前に死した存在によって構成されている。つまりスター・システムというやつだ。お星さまになったかと思ったら、実は別の作品上でしれっと登場している。

 くたびれたスーツを着た自分が、丑三つ時、長年住んできたマンションに帰ってくる。顔色も不摂生のせいかどす黒く、まさに全身黒ずくめと形容できるわけだが、それがいよいよ発作を起こす。過去に何度か経験したのだが、今回はその比ではない。現実にすると三分間程度なのだが、非常に長い苦しみとなって襲い掛かる。

 思考がぷつりと切れる前に「ああ、これはだめかな」と早々に諦め、既に仲良くなっていた葬儀屋に電話をかける。呼吸もろくにできないので言葉は出なかったが、察してくれたのか「まいどあり」と一言だけ返ってきた。ああ、仲良くしておいてよかった……と安堵する。胸ポケットにある名刺入れの中にドナーカードも入れてある。これで少なくとも、迷惑をかけることはないだろう。

 目を閉じる。両親の多分に美化された顔。魚の死臭。大して人気も印象もなかった、気まぐれで買った漫画の一コマ。覗き込んでくる自分の顔。明日の仕事の内容。手に入らなかった誰かの嬉しそうな表情。

 目を開ける。身体は動かない。何が起こったのか、周りを見渡しても何もない。そこに「よう」と言葉がかかる。声は自分のから聞こえてくる。そしてようやく気付くのだ。自分はまた別の作品に出ているらしい。ただし、それは登場人物ではなく、台本に書かれた文字――そのインクとして。


4.


 しょうがない、雑に生きているんだから――


 孤独死。自分が受け入れてしまっている現実。誰かが言っていた。「幸福でない人の大半は、そもそも自分が幸福になりたいと思っていないのだ」と。

 幸福とは何だろう。作り込まれたドラマのような展開の果てにある、腹にストンと落ちてくる感じだろうか。つまり「ああ、今、自分はちょうど釣り合った感じになってる」と、過不足なく、しっくりくる境遇に収まっていることだろうか。

 ならば、何の努力もしてこなかった自分が孤独死することは、何もおかしいことじゃないだろう。おかしいと感じるのは、「今までの人生、そこそこに苦労や努力、配慮もしてきたのに、結局報われることなく、こうして一人で死んで人様に迷惑をかける羽目になる」ケースにおいてだ。別に死に対して、善悪を抱くことはないだろう。命に限りがあることくらい、誰だってわかっているのだから。善悪があるとしたら、そのザマにあるのだ。釣り合えば善く、釣り合わなければ悪い。そして、大抵において、誰かの苦労や努力の正確な量を知る機会が訪れることはない、特に一人で死んでいた場合においては。よって、孤独死は(周りの人にとっても、当人・・にとっても)悪い死にザマとして扱われることになる。

 雑に生きることが偶然、何者にも代えられない貴重な人生をもたらすなんて確率は、猿がタイプライターたたいてハムレットを打ち出すのと同じようなものなので、ストンと落ちる終わりを迎えたいのなら、最低限のきっちりさは必要なのだと思う。それがダメなら、防腐剤を全身に塗りたくり、水も食事もきっぱりと断ち、立派な即身仏にでもなるか。


 まあ、どんな終わりになるかはよくわからないが、せめて最期に感謝の言葉を遺せるような人生にしたいものだと、雑多な浮き草は願っている。

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