第12話

オリエンテーションを終えて、すっかり葉桜の季節を迎えたキャンパスの風景に不慣れにも佇んでみる。

アルバイトを探したり新生活への準備をしたりと忙しいことが多かったせいか、あの魔法使いの世界への寂しさは紛らわせていた。

あの少し薄暗い中で主張を放つピアノが置かれた蝶子の店を、もふもふとした肌触りの良い猫のぬいぐるみを、脳の片隅をくすぐるラ・カンパネラを、何度思い出しただろうか。

アルバイトとして働き出した喫茶店はそれなりに繁盛していて楽しかったが、厳つくも明るいおネエはいなかったし、ピアノの音色に目を瞑る客もいなかった。お洒落な名前のメニューこそあったが、ミックスフライ定食なんて渋いメニューはこの店には無かった。

あの当時は魔法使いに巻き込まれてばかりだと思っていたが、いつの間にかあの世界に巻き込まれたいとすら思っている。

今日のバイトが終わったら、もう一度蝶子さんの店を覗こう。

もう少しでバイトの時間を迎えそうな腕時計に目をやってから、瑛介は小走りに校門の外へと出ていった。




「えーっ、児玉くん彼女いないの? あたし立候補したいんだけど」

店の扉にかけられた木彫りのプレートをクローズに裏返していると、同じ望みが丘高校からそのまま大学へと進学した女子生徒がわざとらしく大きな声を瑛介の方へと向けた。

名前は覚えていないが、隣にいる女子生徒も同じく三年の時のクラスメイトに違いは無い。

「好きな人いないのー?」

今度は隣の女子生徒が瑛介に質問を投げた。

今まで諒を介してクラスメイトとコミュニケーションを取っていた瑛介にとって、よく知りもしない女子生徒との直接対談は無理難題過ぎたのだ。

「いない」

なんて返せばいいのか、そんなことは一切考えていなかった。

ただひたすらに、彼女たちには興味が無かったのである。

「ほらー、色んなタイプあるじゃん? あたしらのクラスだと例えば野口さんみたいにお笑い役みたいな子とかさ」

知らない人だ。

「野口さん面白かったけど女としてアレだよね。大人しめ枠で言うなら権田とか?」

これもまた知らない人だ。

「もしかして児玉くん高嶺の花が好きとか」

「東郷さんのこと?」

初めて人の名前を口にした瑛介に二人は唖然とした。

「あー、東郷みたいなの好みなのかー」

「顔はいいけどさ、アンドロイドじゃん。全然笑わないというか」

特別東郷に興味があった訳では決してなく、諒がよく口にしていたせいで知っていただけだった。

諒、元気にしてるかな。

諒に思いを馳せているとは思いもしない二人組は退勤時間になっても東郷の話をしていたし、瑛介はとっとと退勤簿を記入して店を後にしていた。





ステンドグラスの窓からじっと目を凝らして店内を覗いていると、内側からもじっとこちらを見る目と視線が合う。黒糸で丸型に縫製されたその目を見て、懐かしさに言葉を失う。

折れた黒い右耳に、綿の詰まった茶色い手。

にゃん丸は瑛介を認識したのか、店内の誰かを呼んでいるようだった。

「やだーー! 瑛介じゃないの! 」

野太い声が轟音と共に扉を蹴破ると、次の瞬間瑛介はガッチリと蝶子の腕の中に収められていた。

「全然姿見せないからあたしのこと避けてるのかと思ったわよ」

ぐいぐいと強く瑛介の頬を抓る蝶子の顔は満面の笑みを浮かべている。

「何回か覗いたんですけど、忙しそうだったので遠慮しちゃいました」

「まあそうね、確かに忙しかったと言われれば忙しかったわね。だって杏ちゃんと来たら大学辞めて来たと思ったら突然にゃん丸と一緒に死ぬとか言うんだもの」

「えっ」

「あんたの気持ち分かるわよ~。何歳だよ、って思うでしょ。あの子あんなに歳くってるくせに中身厨二病なのよ。ま、立ち話もなんだし寄ってきなさいよ。ご飯食べてないんでしょ?」

瑛介の返答を聞くよりも早く蝶子はミモザ色のエプロンを翻して店の中へと入っていった。

瑛介が案内されたテーブルの向かい席には、高めの椅子にちょこんと座ったにゃん丸がいた。どうやら瑛介はにゃん丸の後ろのステンドグラスから店を覗いていたらしい。

「久しぶり、にゃん丸」

「寂しかったにゃん。にゃん丸が散々振り回したから嫌気が差したのかと思ったにゃん」

「そんなわけないだろ。それにそんな自信無いなんて珍しいな」

いつものにゃん丸なら蹴り飛ばしてくるくらいの勢いなのに、と綿の詰まった足を振り回すにゃん丸を想像して少し笑う。

「にゃん丸は唯一無二なんだろ」

「ふふん、そうにゃん」

瑛介の言葉ににゃん丸は嬉しそうに耳を動かして見せた。

「はいお待たせ、今日来るなんて聞いてなかったから残り物なんだけど」

目の前に置かれたデミグラスソースのかかったオムライスに、瑛介の胃は歓喜の声をあげる。

「いただきます」

オムライスを頬張る瑛介を、蝶子とにゃん丸は微笑ましそうに眺めていた。

「そうそうなんかねえ、瑛介のことを知ってるらしい変な人来たのよ。黒いフードをすっぽり被ってて顔がよく見えなかったんだけど、なんか被り物してたみたいで角が生えてたの。占い師かなって思ったらあんたに用があったみたいなんだけどその時瑛介いなかったからね」

「それって……物腰柔らかなおじいちゃん声の人ですか?」

「そうそう! 優しそうな感じだったわ。身なりは怪しさ全開だったけど」

ガネーシャだ。

ガネーシャがわざわざこちらの世界に来てまで会いに来ようとしてくれていた事実が涙腺をつつく。

「それで何か言ってましたか?」

「うん、こっちはちょっと騒ぎにはなったけど平和に戻りつつありますって伝えて欲しいって言われたわ。もしかして魔法使いの人かしら」

「そうですね、綾瀬さんの友人です」

蝶子の話を聞いてにゃん丸はほっとしたような顔をしている、そんな気がした。

司書として働いていた牛間は結局行方不明になってしまって、瑛介が三年生になる春に新しく女性の司書が来たのを覚えている。その事実もまた魔法使いの世界が遠のいてしまったようで、寂しく思ったものだった。

綾瀬も牛間も退職し、学長の望月が病に倒れて休職となったあの春。入れ替えが激しくてバタバタさせてしまいますが、と講堂で話していた次の学長は全く知らない人だった。

「綾瀬さん退職しちゃったみたいですけど、どこ行っちゃったんですか」

「杏ちゃんねえ、なんでも色んな人を巻き込み過ぎたことに生きるのが辛くなったんだって」

オムライスが残り僅かになったところで、蝶子はグラスに水を注ぎながらそう話し出した。

「それで、これ以上自分のことで他人を巻き込みたくないって死のうとしたのよ」

「どうやって止めたんですか?」

「馬鹿! ってビンタしたわよ。ドラマみたいでしょ。そんで、他人を巻き込みたくないとか言ってるのに最期まで他人巻き込んでるんじゃないわよ、ってお説教してやったわ。なのに、でも、とか言うから、あんたくらいの辛さなんて皆抱えてるもんなのよっておネエ仲間の店に連れて行ったわ」

ちょっとその光景は見たかったかもしれない。

水を飲みながら瑛介はそう思った。

「あたしたちもちょっと生きづらい人生送ってきたからさ、あんただけじゃないわよって教えてあげようと思って。そんでそのお店で杏ちゃん潰れちゃって。次の朝起きたと思ったら、なんて言ったと思う?」

「逸脱してそうで全く想像がつかないです」

早々に降参した瑛介を笑うと、蝶子はカウンターから一枚のポスターを取り出し瑛介の前に掲げてみせた。

瑛介も知っている都心の有名なホールのポスターだ。

「ピアニストになって、今でも努力してる姿を見せたいんですって」

リサイタルのポスターに写った綾瀬は、端正な顔によく似合う銀の細い線を織り込んだスーツを纏って微笑んでいた。

「来週またリサイタルあるみたいなんだけど、一緒に見に行かない?にゃん丸が行きたくて仕方ないみたいなの」

「いいですね、是非」

ポスターに書かれた演目を見ると、最近目にした字面に瑛介は目を止める。

「『ジムノペディ』か」

「え?」

「いえ、なんでも」

「それにしても誰に見せたいのかしらね、努力してるとこなんて」

瑛介は肩を竦めて蝶子に微笑んでみせた。

「さあ、誰なんでしょうね」

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ファム・ファタールの宝石 葛原 あおい @yukalice0627

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