第11話

日記を読み終えると、なんだか自分自身まで人生の幕を閉じたような感覚に包まれた。

それほど日記が長かったこともあるが、朝子が淡々とその日あったことを綴っているせいかもしれない。

「この魔法使いっていうのは……綾瀬さん、ですよね」

にゃん丸は日記を読み始めてからずっと、本物のぬいぐるみのように微動だにしない。

落ち着こうとしているのか、ガネーシャは両手を組んで祈るような姿勢のままじっとしていた。

「朝子さんが亡くなったのがいつかは分からないですが、時系列からいけばガネーシャさんと綾瀬さんが知り合った火事よりも前のことですよね。つまり三十年前か、それより前か」

「そういう事になりますね。しかし恐らくですが、綾瀬と私が出会った火事は朝子さんが亡くなってすぐのことかも知れません」

にゃん丸の折れた右耳がピクリと動く。

「どうしてそう思うんですか」

ガネーシャは一度深く息をついてから、組んだ手をもう一度強く組んだ。

「あの火事が起きた日、私はバーのアルバイトをして働いていたんです。ホテルの料理人として働いていたんですが、その時は食べていけるほどの稼ぎがありませんでしたから掛け持ちしていたんです。丁度そのホテルの仕事がようやく波に乗ってきて、アルバイトをしなくても食べていけるようになる。そんな日に綾瀬が私のバーに来たんですよ。濃い酒を浴びるように飲んで、私の身の上話を聞いていました。やけに質問をしてくるものですから、私の過去に興味があるのかと訝しんだのでよく覚えていますよ。その後、店じまいをしてゴミを捨てようと裏口に出た時綾瀬が非常階段を登っていくのが見えたのです。疲れていて早く帰りたかったので、そこまでしか見ていなかったんですがね。火事が起きたのはその少し後でした」

ガネーシャは瑛介に紅茶を勧めたが、瑛介は片手だけでそれを断った。

「でもどうして朝子さんが亡くなった日がその日だと思うんですか」

「なんでしょうねえ、勘と言ってしまえば勘なんですけど。お酒を楽しんでいる風では無かったことと、何だか大きな決意をしたような目をしていましたから」

「自殺、ですか。仮に朝子さんがその日に亡くなっていたとして、もっと泣きじゃくったりするものなんじゃないですか。ガネーシャさんの話だと、綾瀬さんはずいぶん落ち着いていたように聞こえます」

ふふふ、と笑い声を骨に反響させて笑うと、ガネーシャは瑛介の髪を優しく引っ張ってみせた。

「人はあんまりショックな事があると、何がそこまで自分を揺さぶっているのか、自分がどれほど衝撃を受けているのか、感覚が鈍って分からなくなってしまうんですよ」

「俺が母を悼んでると言いたいんですか」

「私は瑛介さんではないですから、実際のところは分かりませんけどね。話を戻しましょう」

ガネーシャの手がぬいぐるみになってしまったにゃん丸を抱き上げると、綿が抜けてしまったようにくたっとしてしまっているのがよく分かった。

「これも勘ですが、綾瀬はあの火事で宝石を燃やして死ぬつもりだったんじゃないでしょうか」

「失敗したってことですか」

ガネーシャが薄く笑ってぽんぽんとにゃん丸を優しく叩く。

「宝石がこのぬいぐるみに乗り移ったのか、あるいは不本意に宝石がぬいぐるみの中に入ってしまったのか。どうなったのかは分かりませんが、宝石が綾瀬以外にも命を与えてしまったんですよ。綾瀬の命は綾瀬だけのものではなくなってしまったんです」

「そうすると、綾瀬が死ぬとにゃん丸も死ぬってことですか」

「そういうことになるにゃん」

にゃん丸の絞り出したような声は涙を孕んでいた。

「綾瀬が今死ぬことを考えているかは分かりませんが、にゃん丸さんのことを想っていることは分かりますよ」

「それも勘ですか」

「いいえ。にゃん丸さんがファム・ファタールに近付くことを嫌がっていましたから。にゃん丸さんににゃん丸さん自身のことを知って欲しくなかったんでしょう」

ガネーシャの膝の上で縮こまったまま、にゃん丸はしばらく無言を貫いていた。

外はすっかり白んでいて、細い光の帯が向こうのビルの隙間から覗き込もうとしているのが見えた。





あの日から綾瀬に一度も会わないまま、瑛介は次の春を迎えていた。あの朝にゃん丸はガネーシャの元に泊まると言い、それを伝えようと綾瀬の部屋を何度か覗いたのだが、綾瀬は常に不在だった。

誠は宝石のことなど無かったように振る舞っていたし、瑛介もエスカレーター式とは言えども入学試験を控えていたことに変わりは無かったので、勉強をしなければならなかったのだ。無事に大学に入学することが決まったものの、心在らずのまま時が過ぎた。

時々帰りがけに蝶子の店にも寄ってみたが、忙しそうな蝶子の姿以外見かけることは無かった。

「瑛介、なんか勉強してる時以外魂抜けてるよな」

卒業式を終えて屋上庭園に誘われた瑛介は、いつかのように誠の吐く煙を見つめていた。

「大学行ったら、また忙しくなるんだろ?医学部なんだし」

「それよりもあんた何で大学行かないんだよ」

瑛介の目を覗き込むように誠が視線をこちらへ向ける。

「俺の人生は限りがあるからな。好きなことしようって思ったんだよ」

相変わらず悪い顔をしているな、と肩をすくめると煙の方へ視線を戻す。

「瑛介は医者になりたくて医学部行ったんだろ? それでいいんだよ。俺は今までずっと、誰かの為に動いてたからな。これからは俺の人生、俺の好きなように生きる。瑛介はそういう俺、嫌?」

煙を吸って吐いたあと、誠は少し寂しそうな顔をしてみせた。

「あんたがそういう人間だってことは、ずっと前から知ってたよ。もうここで何回も煙草吸ってたろ」

照れ笑いを隠すように誠は下を向いて灰を落とす。

庭園に落ちるオレンジの帳は静かに舞台袖へと下がっていくところだ。

「大人になってもまた会おうな」

「考えとくよ」

誠の肘が瑛介の横腹を突いたところで、最後のチャイムが鳴った。

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