第10話

朝子の煙が薄いブルーの空へ消えていくのを眺めていると、気が付いた頃にはすっかり夜になっていた。

目の前も足元も桜がうるさいほどに桃色の主張をするもので、また一人になってしまったようにも感じた。それでも、心はとても軽い。

スキップをしたい気持ちを抑えて繁華街の中へと溶けていく。鼻をくすぐる山椒の香りに、綾瀬は雑踏ビルの一角へと歩を進めた。

大衆で賑わう店に挟まれた小さなそのバーは青年一人で回されていた。

カウンターの隅の席に腰掛けると、グラスを拭いている青年にバカルディを頼む。

店内を流れる静かなジャズに綾瀬の高揚感は余計に跳ね上がりそうな素振りを見せていた。

「君、頑張ってるね」

濃いアルコールで喉を潤すと、綾瀬はカウンター越しに青年に声をかけた。

八重歯を見せて青年は破顔して見せる。

「本職がホテルのレストラン厨房なんですけど、ようやくそっちだけで食べていけそうなんです。それがすごく嬉しくて」

「若いのに凄いよ」

「両親を早くに亡くしてしまいましてね。寂しさもあるんですが頑張らざるを得ないというんですか、まあそんな感じです」

グラスの横に置かれた小鉢にはミックスナッツが入っていた。程よい塩分が余計に酒を進める。

「ご両親が生きてたら頑張れなかったってことかい?」

「それはどうでしょうね。普通であれば死んだ人は生き返りませんから」

青年の言葉に綾瀬の瞳は朝子の煙を思い出していた。

記憶を消すように更に酒を煽る。

「生き返りますよ、って言われたら、確かに信じちゃいますよね。信じたいですもん」

青年は寂しそうな顔でグラスを拭き続けている。

「生き返りますよ、って誰かに言われたんだ?」

「お兄さんは、魔法使いって信じますか」

青年の急な問いかけに綾瀬はグラスを傾ける手を止めた。

「魔法使いを信じない人の方が多いのは知っているんですが、実際かつて魔法使いが永遠の命を作ったんです」

綾瀬が口を開くより先に青年はつらつらと語り出した。店内には綾瀬の他に二、三人の客がいたが彼らは自分たちの話に夢中になっているようだった。

「本当の話?誰かが作った作り話なんじゃなくて?」

「残念ながら真実です。いえ、真実でないと私が報われません」

アルコールのせいか緊張のせいか、血管が脈打つ音がドクドクと脳に響く。

「少し前に魔法使いの世界で魔女狩りがあったんです。私がまだ八歳に満たない頃だと思うので、恐らく十数年前のことだと思うんですが」

綾瀬は確かに魔法使いの世界にいたが、魔女狩りがあったことを知らなかった。追放された後の話なのだろうか、そのまま彼の話に耳を向ける。

「かつて永遠の命を謳って世界の人達を混乱に陥れた魔法使いがいて、彼が追放された後世界は混沌の中で彼を擁護する魔法使いを消そうとしたのです。その魔女狩りは何十年に渡って続いたらしく、私の両親もまた魔女狩りによって処刑されました」

「どうしてその魔法使いを擁護しようと思ったんだろう」

考える前にそう口が零していた。

「確かに永遠の命が出来たことで当時は本当に大騒ぎになったらしいですが、別に命が出来たところでなんだっていいじゃないですか。不幸を生み出したのは作られた命じゃない、その命を欲を持って祀りあげた魔法使いそのものなんですよ。私の両親は口が酸っぱくなるほどそう話していました」

綾瀬のボトルは空になっていたが、続きを頼む気にもならなかったし、青年もまたそのことに気付いていないようだった。

「どうしてそんな両親が私利私欲で動いている人達に殺されなければならないのか、私は本当に悔しいのです」

「……君は魔女狩りについて、追放された魔法使いのせいだと思わないのかな」

青年は暗くなってしまった綾瀬に眉尻を下げて困ったように笑って見せた。

「彼を恨んだところで、両親が生き返る訳ではありませんから」





バーの裏口には非常階段が伸びていた。

フラフラと覚束無い足取りでその階段を上る。黒く錆びた鉄の階段は、綾瀬が足をかける度にギィギィと嫌な音を立てた。

どれくらい上ったか分からないところで誰もいない部屋を見つけ、同じく錆びた鉄の重厚な扉を開ける。

無防備なその部屋はどこかの階の店の資材倉庫のようだった。室内へ足を踏み入れると、明かりをつけることもなくよろよろとその場に崩れ落ちる。

何度か深呼吸をしていると、棚の上に置かれた三毛猫のぬいぐるみや不思議な形をした本立てと目が合った。

焦点の合わない視線をゆるゆると手元へ落とす。握った手を開くと、その空間からルビーよりも真っ赤な光を放つ小さな宝石が姿を現した。

「ごめんなさい」

綾瀬の頬を滑った雫が宝石を打つと同時に、宝石は発火した。

眩い炎を受けて宝石は静かにその身を燃やす。

こんな結末になるなんて分かってたら、と何度思っただろうか。己の目先の欲に駆られて身を滅ぼしたのは自分だけでは終わらなかったのだ。

ただ、この命を終わらせることでしかその罪を償えない、そう思ったのだ。

目を閉じてただ宝石が消えるのを待っていると、ビシッと鋭い音と共に何かが綾瀬の頬を鋭く叩いた。

目を開くと炎に包まれた宝石が大きなヒビを孕んで、粉ともの呼べるその小さな欠片を再度宙へと投げ打った。チカリと光を纏ったまま、その破片は暗闇の中へ消えていく。

流れ星みたいだ、としばらく暗闇を見つめてからまた目を閉じる。痛みも無くただ終わりを待つだけの瞬間。

そして宝石が最後の一息となった時、綾瀬ではない誰かが叫んだのだ。

「暑いにゃん!!」

胸元に何かが飛び込んだ衝撃で綾瀬は目を覚まし、その勢いのまま部屋を飛び出した。

部屋は文字通りの火の海だった。

少しだけ冴えた脳を必死に動かして階段を駆け下りる。降りながら、胸元にしがみついたそれを見て綾瀬はゾッとした。

綾瀬に抱きついたその三毛猫のぬいぐるみは、確かに命が脈動していたのだ。




階下へ辿り着くと、火に溺れた青年の姿があった。火傷が面影を拭い去ったその顔は、綾瀬の顔を背けさせるのにはあまりに十分過ぎた。

右手の傍にワイングラスが転がっていることと、燃えて穴だらけになった黒いワイシャツを纏っていることから、その男は確かにあのバーの男だった。

「大丈夫ですか」

耳は生きているらしく、男は綾瀬の声にピクリと反応してみせる。

彼の親をも殺し、彼自身も殺してしまうことになるのか。

憧憬、男が希望を掴むように綾瀬のズボンの裾を掴んだ。

「本当に何も出来ないんですけど、償いとして受け取って下さい」

その右手を優しく握ると、男は気を失ったようだった。

「助けなくていいのかにゃん」

三毛猫のぬいぐるみが綾瀬の頬を叩く。

「大丈夫。火はもう消えるし、彼もこの火事で死ぬことは無いから。失った顔は戻せないけど……」

どうか彼が自分のことなど忘れていますように。

黄色いベールと遠くからやって来たサイレンに包まれたビルを後にして、綾瀬はただ早くこの場を去ろうとふらつく足を必死に動かした。


次に綾瀬が目を覚ましたのは、ゴミ捨て場の上だった。

激しい頭痛の中状況を把握しようと周りを見渡すと、雄々しい声が頭上に降りかかる。

「やっだ、すんごいイケメン落ちてるじゃない!」

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