第9話
この日記を書き始めてから随分と経ちました。久しぶりに日記を手に取った時、そういえばもう三冊目だったと驚いたものです。
彼に出会ってからはピアノを弾いてお話をして、またピアノを弾いて、そんな生活が楽しくて日記を書くことをすっかり忘れていました。
彼がピアノの練習を始めて十年以上の時が経ちました。彼はもう魔法を使わなくても私より上手にピアノを弾けます。
今日、どうして久しぶりに日記を書いているかというと、彼と喧嘩をしてしまったのです。喧嘩と言っても、私も彼も決して怒ったわけではありません。
彼がどこで知ったのか、リストの「ラ・カンパネラ」を弾いてみたいと言い出したのです。
「それ、結構難しいのよ。私は弾いたこと無いけれど」
「全く弾けなかった俺が十年でここまで弾けるようになったんです。朝子さんがずっと飽きることなく聴いてくれたのが支えでした」
私はそこで黙ってしまいました。
実は、丁度二日前に膵臓癌を患っていたことを知らされていたのです。病院とは無縁だと思っていましたが、ここしばらく全く食欲がわかなかったことに加えてお腹の痛みが収まりませんでした。二日前は彼が家を訪れなかったので、私は病院へと足を運びました。
膵臓癌は気が付く時にはもう末期であること、外科的に癌を切除することは不可能であること。延命治療をしながら死を待つのみだったのです。
複雑な気持ちでした。
向こうで待っている家族にやっと会えるのかと思うと少し気分も高揚したのですが、彼と過ごす時間がもう僅かしかないことがとても残念でならなかったのです。
案の定、私の沈黙は彼が訝しむに十分すぎる材料でした。
「いずれバレてしまうことだから話すわね。私……癌になってしまったの」
彼は目を見開いてじっと私の次の言葉を待っていましたが、私の頬を何かが滑る感触がした時、彼は眉を歪ませました。私は泣いていました。
「短いんですか」
「そうみたい」
しばらくの沈黙の末に、彼は何も言わず家を出ていってしまったのです。
もうここへは来てくれないでしょうか。
延命治療を求めず、家族の元へ逝こうとする私を許してくれないでしょうか。
来週には桜が満開になるそうです。
桜を見るまで生きていられるか分からなかったので、雨でしたがお墓参りをして来ました。何度かお墓参りはしていましたが、今日はなんと彼がいたのです。
しとしとと静かに雨が降っていて、とても暖かい日でした。
「もう会ってくれないかと思ったわ」
家族の前で傘も刺さずにじっとしていた彼は、私の傘の中に入れても動きません。
しばらく私たちはまた沈黙していて、しとしと、しとしと、と降り続ける雨だけがずっと音を立てていました。
最初に口を開いたのは彼でした。
「俺はずっと孤独でした。朝子さんが初めての友達だったんです。孤独でいた時は特に寂しさを感じなかったのに、朝子さんと出会って、話して、ピアノを弾いて。それが当たり前になっていた今になって、また一人になってしまう」
私は何も言えませんでした。
彼がもし私と同じくらいの歳なら、貴方もすぐよと笑えたのかもしれません。けれど、普通にいけば彼は何十年も残っているのです。
「きっと罰なんでしょうね」
黙ったままの私に彼はまた話し出しました。
「目先の欲に駆られて命を弄んだ俺は、一生孤独という罰を課せられるんです」
彼が何を言っているのか全く分かりませんでした。
「貴方は人を殺したの?」
「いえ。俺にそんな勇気はありませんよ」
口元だけ笑って見せてから、また彼は寂しい顔をしました。濡れた髪から覗く口元のほくろが印象的だったことをよく覚えています。
瞬間、彼の濡れた髪は真っ白に染め上がり、その口元は深い皺を刻んでシミを浮かばせたのです。
ギョッとした私は傘を落としそうになりましたが、彼の浅黒くなった枯れ枝のような手がそれを空中で掴みました。
「朝子さん、俺はもう何十年生きているのか分からないんです。これが永遠の命を求めた醜い咎人の姿なんですよ」
ようやくこちらを向いたその顔は痩せこけて骨が浮かび、瞳は白くくぐもっていました。声も枯れていて、あの美しい男の姿はどこにもありません。
「魔法で寿命を延ばしているの」
驚きのあまり私の声は掠れ、上手く問いかけることが出来ませんでした。
「いいえ。そんな魔法はこの世界には存在しません。言ったでしょう、魔法は何かを生み出すことは出来ないんです。違うな、何かを生み出してはいけなかったんです」
傘のバランスをすっかり忘れていた私は傘をとうに手放していて、彼もまた傘を使う必要が無いほどにすっかり濡れていました。
「短命であることを憎み、多くの魔法使いが永遠の命を求めました。大昔の話です。研究に研究を重ねて、結果が見えるかと思った頃にその命は尽きてしまう。そんな中で、ようやくそれに辿り着いたのが俺だったんです。世界が輝いて見えましたよ。でも、実際は違った。欲望を全開にした魔法使いによってその秩序は荒らされ、現実は剥き出しになりました。俺が作った永遠の命はたった一つしか無かったので、争いは絶えませんでした。また作ろうとする者は誰も居なくて、戦っては死んでいく。そんな世界になりました。」
この孤独な老人を雨が溶かしてしまうのではないか。そう思うくらいに彼の姿は小さかったのです。
「結局、魔法使いは俺を世界から追放しました。世界を狂わせた冒涜者をね」
彼はまた小さく笑うと、落ちた傘を拾い上げて私の頭上の雨を遮りました。
「こっちに来て何年も死ねない日々を過ごしました。そんな中で、貴女に会えたんです。朝子さん」
瞬きをすると、目の前の老人はまた美しい男の姿でした。
しばらく私たちは黙ったまま見つめあっていて、雨がやんでいることに気がつくまで少し時間がかかりました。
「ずっとは無理だけど、」
彼の綺麗な黒い瞳を離さないようにじっと見つめて、私は言いました。
「貴方がひとりぼっちじゃなくなるまでは、そばに居てあげる。姿は見えないかもしれないけれど、必ずそばに居るから」
彼は何度か瞬きをすると、くしゃりと顔を歪ませて笑いました。目からは涙が溢れていましたが、彼はずっと笑っていました。
あの日から貴方に会えなくて本当に残念でした。私が入院せざるを得なくなってしまったからなんですけども。
貴方に会えて私も心から嬉しかったです。
最期に一つ心残りでしたのは、貴方のお名前をずっと聞き忘れていました。
それではさようなら、お元気で。美しい魔法使いさん。
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