第8話

キャンパスのカフェテリアは地下にあったが、カフェテリアに入るための短い階段が地上から伸びていることと、吹き抜け構造で作られており中央が光零れる小さな庭になっていることから、室内は明るかった。なぜその位置に作られたのかは不思議だが、カフェテリアの上には何の建物も存在しない。

午前十時、誰もいないカフェテリアの椅子に静かに腰を下ろすと、綾瀬は楽譜を開いた。そこに鍵盤は無くても、おたまじゃくしを目で追えば頭の中にメロディが流れる。

しばらくそうして楽譜の中に収められた世界を楽しんでいると、誰かがカフェテリアのガラス扉を開ける音がした。

ゆっくり楽譜を閉じて、息を吐く。

「君が俺に会いに来たという事は、もう石は見つかったのかな」

「残念ながら、宝石は見つけられませんでした。でも、製作者は見つけましたよ」

ローファーが床を踏む音が近付く。

「そうか、ということは『日記』は君と組んでいる誰かが落としたのかな」

「いや、それがまさかの瑛介でした。別の魔法使いと手を組んだみたいです」

「ガネーシャかあ。彼があそこまでしてくれるとは思わなかったよ、本当に。彼が頑張ってくれていたから、二百年経った今になってようやく宝石の存在が明るみに出たんだ。それまでずっと隠してくれていたんだよ」

「何故です?その魔法使いにとって宝石を隠すことに何のメリットがあったんですか」

「それは俺も知らない。俺はとにかく宝石の件には一切触れないようにしてたけど、彼は宝石は無くなったんだと周知させることに徹してくれたんだよ」

「お陰で苦労しましたよ」

「君たちの執念には驚かされたよ。何年間探してたのかな」

「コーヒー、いかがですか」

「じゃあいただこうかな」

声は誰もいないカウンターの奥に引っ込むと、食器のぶつかる音と共にまた話し出した。

「俺はね、ずっと気になってたんだよ。人間が何故ファム・ファタールの宝石、永遠の命を求めるのか。長生きしたところで限りの無い、終わりの無い絶望に身を委ねるだけなんだよ。それをどうして血眼になってまで探すのか。そもそも君が求めているのは宝石じゃなくて、宝石を得ることで永遠に生き続けるお父さんだろう。望月諒くん」

カウンターからの返事は無い。

「進路希望の紙の話をね、以前梶先生から聞いたんだよ。本当に偶然その話になっただけだし、俺と梶先生には何の接点も無かったんだけれど。君は学長の跡を継ぐはずだと誰もが信じているのに、進路希望の紙を白紙で出したらしいね。そこで俺の推測なんだけど、君は本当は学長にはなりたくないんじゃないかな。優等生で生徒会長を務めているけど、その本心はきっと何か別のことをしたがっている。そしてお父さんは今の座に残り続けたいが為に永遠の命を求めている。お父さんが永遠に学長として生き続けてくれれば、晴れて君は自由の身だ」

コーヒーの匂いを連れて諒が姿を現した。

「変化を受け入れることって勇気がいると思うんですよ。誰だって上手くいっていることがあればそこに何か変化をつけようとは思わない。だからこそ、父には学長として居続けて欲しいんです。俺は学長には向いていませんから」

諒は微笑を貼り付けた顔を綾瀬に向ける。

いつも柔和な笑顔の綾瀬は、逆に何の表情も浮かべていなかった。

「君が学長を継ぎたく無いことは分かるけどね、変化があるから世界には色が出るんだと俺は思うんだよ。最も、俺がそう考えていた訳じゃなくて昔そう教わっただけなんだけどね」

諒がミルクとスティックシュガーをコーヒーに零す。綾瀬はそれをじっと眺めながらゆっくりと話を続けた。

「同じ人が同じレシピを見て同じ分量の調味料を入れても、決して同じ料理は出来ない。同じ楽譜を見てメトロノームを使っても、同じ演奏は出来ない。変化があるから、飽きが来ないんだってさ」

「それで、何が言いたいんですか」

綾瀬はようやくその頬を緩ませて、ふんわりと笑った。

「限りあることの価値を知ることこそ幸せなんだってことだよ」

正方形に切り取られた空から中庭に零れ落ちる光は綾瀬の睫毛をちかちかと照らす。

この人は本当はどんな姿をしているんだろう、と諒は眼前の男をじっと見つめていた。

「綾瀬さん、何もかも諦めた目をしてますよね」

光を受けた睫毛を上げて真っ黒な瞳がこちらを見る。

「どうしてそう思うんだい」

「知っているとは思いますが、ガネーシャは宝石の存在を隠すために魔法使いの世界で噂を流し続けていました。あの宝石はもうとうに無くなっていて、存在しませんと。比べて貴方はどうでしょう、宝石を『石』と呼び、宝石の話題から避け続けていた。違いますか」

ゆっくりと瞬きを一つしてから、綾瀬は観念したように肩を落とした。

「流石だね、名門校の生徒会長さんには何でもお見通しなのかな」

「そこで一つの仮説が出来たんです。もしかすると、宝石の製作者は宝石の在処を知ることが出来ても手に取ることが出来ないことを知っているのではないか、とね。だから宝石を探す人が現れようと何も怖くなかった。製作者は自分がいくら追求されようと宝石は目に見えない、あるいは手に取れない場合どうしようも出来ませんからね」

綾瀬は笑って拍手をしてみせた。

「俺と諒くんは初対面だと思ってたけどなあ。内通者がいるんだね」

諒は嫌な笑みで返してみせる。

「運がいいことに頭が良くなかったもんで、情報を垂れ流しにしてくれたんですよ」

「その可哀想な内通者は製作者が誰だか分かったのかな」

「皆目見当もついてないと思いますよ。俺は彼から貰った情報を頼りに一人で貴方の元に辿り着いたんです」

「どんな情報から?」

二人の声以外何の音もしないカフェテリアを流れる時間は、現実世界よりも遥かにゆっくりと流れているように感じられた。

「手っ取り早い話、父が宝石を知る人間を学園に雇用していることは知っていました。なので既にかなり絞られてはいたんです」

「それでも小学校から大学院まであるだろう」

「一番ヒントになったのは、三十年前の原因不明の火事でした。綾瀬さんがあの火事の現場にいたことはもう調べ済みですが、仮に当時十歳の少年だったとして今何歳になりますか。綾瀬さんの見た目から考えれば、火事が起きた当時貴方は赤ん坊で無ければならないはずなんですよ」

「なるほど、諒くんはもう全てお見通しって訳だ。その内通者に俺はだいぶ付けられてたんだね」

遠くの方でチャイムが鳴った。

カフェテリアには依然として人は来なかったが、向こうに見える校舎からは笑い声や叫び声が聞こえ始めていた。

「それで、ファム・ファタールの宝石は今どこにあるんですか」

焦りを混ぜた諒の言葉に綾瀬はまた優しく笑った。

「実はね、俺も分からないんだよ。恐らく瑛介くんと一緒にいると思うんだけど」





「『北浦朝子の日記』は二千万で児玉瑛介様が落としてみせました。おめでとうございます」

厳格な空気の中で張り詰めた緊張の糸がふっと緩む。

「やりましたね、瑛介さん」

隣でコソコソと話しかけるガネーシャを瑛介は苦笑いで返した。

「やりましたって……ガネーシャさんのお金なのに」

「いいんですよ。この時のために貯めておいたんですから」

視界の端で牛間が何か合図をしているのが見えたが、瑛介は薄暗いこの空間に逃げるように顔を伏せた。脇に置いたボストンバッグのチャックの隙間から覗くにゃん丸の目と視線がぶつかる。にゃん丸もこのオークションに緊張していたようだった。

オークションの部屋を出る時に牛間に絡まれることを危惧していたが、ガネーシャが革靴でワインレッドのカーペットを三度叩いてみせると瑛介はガネーシャの部屋にいた。

「怖がらせてごめんなさい。日記が奴らの手に入るかと思うと本当に焦りまして」

ボストンバッグのチャックを開けながらガネーシャは頭を下げた。身体を伸ばしながら出てきたにゃん丸は我先と日記へと走り出す。

「私たちが日記を手にしたところで、いずれは奴らにも知られてしまうとは思うんですけどね」

ガネーシャの沈んだ声にピタリとにゃん丸の動きが止まる。

「どうしてですか」

「日記が見つかったということは、見つけた方がいる訳ですから。誰が見つけたのかは知りませんが遅かれ早かれその人の口から情報は漏れ出すでしょう」

瑛介は、両耳を垂れ尻尾を丸めてしまったにゃん丸を撫でた。

「にゃん丸が落ち込む事じゃないだろ」

実際に涙は出ていないが、涙を含んだような声を必死に絞り出してにゃん丸は言う。

「綾瀬とにゃん丸は宝石に生かされてるようなものにゃん」

「……どういうこと?」

黙りこくってしまったにゃん丸を優しく抱き上げると、ガネーシャは日記を瑛介にそっと手渡した。

「読んでみましょう。話はそれからです」

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