第7話

目が覚めたのは深夜のことだ。

誰かが部屋の窓を叩いているのだが、柔らかい素材で叩いているらしくペシペシと軽い音だけが部屋を蹂躙する。

初めは泥棒かと身構えた瑛介だったが、満月によってカーテンに映し出されたそのシルエットを見て緊張の糸を弛めた。

「こんな夜中になんだよ、にゃん丸」

窓を開けると綿の奥までひんやりと冷えきったぬいぐるみがポンと瑛介の胸へと転がり込んだ。

「寒くて死ぬかと思ったにゃん……」

先程まで瑛介の体温で暖まっていた羽毛布団に飛び込んだにゃん丸は、じっと布団にくるまったまま動かなくなってしまった。

窓の外を見ると他の星の明るさをかき消すようなスーパームーンが煌々と街を照らしている。雲ひとつ無いお陰でひんやりと澄んだ空気が、音もなく部屋へと忍び込んだ。

「そうか、今日はスーパームーンなのか」

しばらく空を見ていると、ようやくにゃん丸が顔だけ出してこちらを見る。

「空腹と満腹で忘れてしまってたけど、早くガネーシャに伝えなきゃいけないにゃん」

「何を?」

「望月諒がファム・ファタールの宝石を探してることにゃん」

「綾瀬さんと仲直りしたんなら、綾瀬さんと行けばいいのに」

実際には聞こえなかったが、「ガーン」と効果音がつきそうな、にゃん丸はそんな顔をしているように感じた。

「綾瀬はこの件について無関係でいたいにゃん」

「何で?」

「知らないにゃん。いいからにゃん丸と一緒に魔法使いの世界に来て欲しいにゃん」

瑛介のパジャマの裾をぐいぐい引っ張るも、勢い余ってコロコロとベッドの下へ落ちてしまう。

「痛いにゃん!」

「ごめん……って、俺別に悪くないだろ」

「瑛介は冷たいにゃん」

冷たい床の上で丸まってしまったにゃん丸を見て、瑛介はやれやれとため息をついた。

「分かったよ。行くから、一緒に」

耳をピンと立ててにゃん丸はベッドに飛び乗ると、胸を張るような姿勢をしてみせる。

「最初からそうしとくにゃん」

「調子いいやつ」

私服に着替えると、瑛介はにゃん丸を腕に抱えて水に浸った階下へと降りていく階段に足を乗せた。




「生者の行進」を通っていると、ガネーシャは現れなかったが古びた木製の扉が脇にあるのを見かけた。

「これ、なんだろう」

瑛介が扉に取り付けられた錆びた金属の輪を掴むと、扉が開いて女が現れた。黒く長いその髪はねじ曲がっていて、つり上がった目はラメ入りのパープルアイシャドウで彩られ、猫背のせいで瑛介よりも背が低く見えたがその姿は随分と長身のようだった。

「見ない顔だね。面白い頭をしてる。アンタもうちで一杯やっていきなよ」

枯れてくすぶった声でそう話した女の息からは、濃いアルコールの匂いがする。

ぬいぐるみになり切ったにゃん丸に助けを求めるわけにもいかず、瑛介は引きずられるように女の店へと入った。

女の店は、蝶子の店とは異なりずいぶん薄暗かった。薄汚れた窓からは人々が往来する路地の様子がうかがえる。

店内の中央の大きい木製のテーブルでは数人の男女が酒を飲んでいるらしかった。

「よう兄ちゃん。面白い髪してんな」

瑛介は一番端の目立たない席を選んで座ったが、だいぶ出来上がっているらしい青年が瑛介の隣の席へと移動して来た。

「はあ」

「そのぬいぐるみ兄ちゃんの?」

「ええとまあ、はい。そうです」

またこれでにゃん丸の持ち主を自分だと勘違いする人が増えてしまった……、と沈んでいるのもお構い無しに青年は瑛介に酒を勧める。

「俺未成年なんです」

瑛介がそう言うと青年と飲んでいた男女のグループがどっと笑った。

「あたしも未成年だけど。真面目なのねえ」

おかっぱ頭の派手なドレスを着た女が瑛介を品定めするように眺める。

苦手な空気に腰を浮かせかけたとき、店主の言葉が瑛介の後ろ髪を引っ張った。

「ごめんねぇ。この後オークションがあるもんだから、皆はしゃいじゃって。今回のオークション、アレが出るみたいだから」

「アレ?……もしかして、宝石」

ファム・ファタールの宝石について何か知っているかもしれない、と思わず宝石と口にしてしまったが、青年が口笛を吹いてから瑛介の耳に口を寄せて答えを告げた。

「『北浦朝子の日記』」

「……日記」

目に見えてがっかりした瑛介に青年は嫌な笑みを浮かべて酒を煽ると、少し大きな声で笑った。

「この日記を書いた北浦朝子って女はな、日記の内容が本当ならファム・ファタールの宝石の製作者と接触してんだよ」

「えっ?! じゃあ、製作者が誰か分かるんですか」

おかっぱ頭の女が青年の肩をつつく。

「牛間ぁ、話しちゃっていいの、そんなこと」

「どうせならオークションの参加者が増えた方が盛り上がるだろ。でな、残念ながら日記には製作者の名前は書かれていないんだ」

牛間と呼ばれた男は話を続ける。

「ただ、製作者の容姿が整っていることと、北浦朝子の家によく来ていたことは書かれているらしい。俺も詳しくは読んでないからな。だから今回のオークションでその日記が出ると知って、いても立ってもいられないって訳だ」

オークションに出た方がいいのだろうか。

手汗を誤魔化すようにテーブルに手のひらを擦り付ける。

「その日記って、いくら位あったら落とせるんでしょう」

瑛介の声を聞いて店主が顔をしかめた。

「あんたも宝石の虜になっちまったんかい。やめときな、人には定められた寿命てのがあるんだ」

「虜というか……」

これ以上話すことははばかられたが、牛間が遮ったことで瑛介はホッとした。

「誰だって長生きしたいだろうよ。死んだ人が生き返る。寿命が延びる。夢のある話じゃねえか。それでな、少年。交渉なんだが」

グラスを置くと牛間は鋭い眼光を瑛介にぶつけた。

「日記を二人で落としにいかねえか? 片方が落としたら、二人で金を出して所有権も半分にするんだ」

「でも俺、そんなにお金持ってないですよ」

「じゃ、なんか面白いもの持ってねえか? 喋る動物とか最近人気らしいぜ。昔は喋る猫とか普通にいたんだけどな」

思わず手元のぬいぐるみを見つめる。

ぬいぐるみのフリをしているが、内心穏やかではないだろう。

水の入ったグラスを持ち上げながらにゃん丸に小声で

「後で必ず助けに行くから」

と囁くと、瑛介は喋るぬいぐるみを出店することにした。

にゃん丸の耳が両方とも折れてしまったのは言うまでもなかった。




にゃん丸の不安は杞憂で終わった。

入った方とは反対側の、路地に面した扉から店を出ると牛の頭骨が彼らを出迎えたのだ。

「ガネーシャさん」

「ごきげんよう。おや、にゃん丸さんどうしたんですか」

蹴り飛ばすように瑛介の腕からポンと飛び出したにゃん丸は、ガネーシャの胸へと飛び込むと尻尾と耳を丸めて泣き出してしまった。実際に涙を流している訳では無かったが、声色とその仕草からして確かにそのぬいぐるみは泣いていた。

「瑛介の奴、にゃん丸を売ろうとしたにゃん。酷すぎるにゃん」

「売る? どうしてです? 瑛介さん余程お金に困ってらっしゃるのですか」

「いや、そうじゃないんです。その……こっちの世界のオークションでファム・ファタールの宝石に関わる物が出品されるらしくて。それを落としたくてお金が欲しかったんです。もちろん、にゃん丸は後で助けに行くつもりで」

牛の骨は表情こそ浮かべなかったが、びっくりしているような空気を瑛介は感じた。

「『北浦朝子の日記』の話を聞かれたんですね。なるほどなるほど……私も丁度そのオークションに出ようと思っていましてね。にゃん丸さんを売るのはやめてあげてください。私、こう見えて結構お金持ちなんです」

びえーん! とにゃん丸がまたひと泣きしたのを落ち着かせてから、ガネーシャは改めて瑛介の身なりを眺めた。

「オークションに出るんでしたら、それなりの格好をしなければいけません。本当はお金を持ってないのではないかと主催側に怪しまれてしまいますからね。私の燕尾服をお貸ししましょう」

しばらく口を利いてくれないにゃん丸を抱えて、瑛介は月明かりが照らす路地をガネーシャに着いて歩き出した。

「それにしても、瑛介さんは随分と熱心に宝石を探しているようですね」

ガネーシャは前を向いているため、瑛介からはその表情は見えない。元々表情を浮かべる顔では無かったが、背中越しに言われると相手の胸中を計り知れない不安が少しあった。

「熱心にというか……親友が宝石を探し始めるようになってから少しおかしいのでちょっと気にかかってるところに、上手い具合にヒントが転がってきてるようなもんです」

話しながら牛間と呼ばれていた男の話を思い返す。そういえば、宝石の製作者は容姿が整っていた。

「ガネーシャさんこそ、オークションに出られる予定だったなんて熱心なんじゃないですか」

何となく返した質問だった。

ピタリと歩みを止めた牛骨がこちらを振り返る。

「宝石はもう、なくなったんですよ。消失したのです。その真実を魔法使い達に知らしめたいだけです」

「ガネーシャさん、宝石は存在するって言ってたじゃないですか」

「存在してましたよ、確かに。でも今現在存在しているとは限りません」

「本当に、それだけですか。それだけのためにオークションに出るんですか?」

ガネーシャの気迫への恐怖を振り払うように質問を返す。

ガネーシャはしばらく沈黙を貫いたあと、ややあってからくるりと前を向いてまた歩き出した。

ガネーシャの顔は、火傷で無くなったはずだ。元の容姿が整っているかどうか確認しようがない。

まさか。

月明かりに照らされた不気味な牛骨に少し身震いすると、にゃん丸を強く抱きしめる。

「あの牛の人、きっと宝石の製作者なのよ」

ソプラノの可愛らしい声が足元で囁いた。

「誰?」

「あたしよ。貴方の靴の横にいるでしょ」

靴の横には黄色と紫色の花弁を月に向けたパンジーがいくつか咲いた植木鉢が置かれているだけだ。

「貴方人間?あたしたちだってお喋りするのよ」

「噂には聞いてたけど、本当に喋るんだ」

パンジーには目も鼻も口も無く、パンジーそのものの姿だった。どこから声を出しているのか分からないが、確かにこの花は声を発している。

「そのぬいぐるみだって喋るんだから当たり前じゃない」

「あたしたちの情報網バカにしないで欲しいわぁ」

拗ねていたにゃん丸だったが、ぬいぐるみと呼ばれたことに腹が立ったようでグルグルと喉を鳴らして怒りを露わにしている。

「宝石が見つかりそうになって慌て始めちゃったんじゃないの?」

「絶対そうよねえ。貴方に一緒に探して貰うフリして、いざ見つかるって時に突き放すわよきっと」

キャイキャイと甲高い声で盛り上がるパンジーたちをぼんやり眺めていると、瑛介の肩にポンと手が置かれた。

「お喋りパンジーは嘘つきです。騙されてはいけませんよ」

ガネーシャはそう言うと、パンジーの鉢を軽く靴でつついてみせた。パンジーたちはその行為に酷く荒れて罵詈雑言を吐き捨てていたが、ガネーシャは気にする風でもなくまた元の道を歩き出す。

それからガネーシャの家に着くまで、誰も口を開くことは無かった。

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