第6話
夫を早くに亡くしてから、私の伴侶はピアノになりました。
元々幼い息子にピアノを教えるつもりで買ったピアノでしたが、その息子もとうに大人になってしまったものです。
いつもは一人で粘土を捏ねたり刺し子をしたりしていたものでしたが、ある日何故かピアノを弾こうと思いその重たい蓋を開けたのです。
息子が大学受験を控えてピアノを辞めてから二十余年、久しぶりにその白い木盤を見せたピアノからは木の匂いとキーカバーの独特の匂いが柔らかく鼻をくすぐりました。
ピアノが鍵盤を見せなくなってから全く調律をしていなかったので、音が外れていたかも知れません。エリック・サティの「ジムノペディ」を弾いたのは覚えています。夫が入院していた病院のロビーに流れていたので、何度も聞いていたせいか脳裏にこびり付いているのです。
そして「ジムノペディ」を弾き終えた時に、庭に誰かが立っていることに気が付きました。若い男の人でした。
私が若ければ、もしかしたら追い出したかもしれません。けれど、私は彼があまりにピアノをまじまじと見つめていたものですから、
「ピアノ、好きですか」
と声をかけたのです。確かあの日は初夏でしたから、窓を開けていました。白いレースのカーテンが少し熱気を含んだ風を受けてフワリと浮き上がり、彼の姿が良く見えました。
私は彼があまりに綺麗な顔をした人だとびっくりして、ぽかんと眺めてしまったのを覚えています。
その男の人はピアノを知らなかったようで
「変わったレコードですね」
なんて言うものですから、私は笑って彼を招き入れたのです。男の人を家に招き入れるなんて危険ですよね。でも、一人で寂しかったことと自分がもう歳をとっていること、それと彼の目が純粋に見えた感覚を信じられたことからそうしたのです。
彼はピアノの目の前に立つと本当に初めて見たようで、しげしげとその重厚な黒塗りのそれを眺め始めました。二十後半はありそうな姿でしたが、ピアノを見たことが無いなんて珍しいのではと私は思っていたのです。実際これは後から知ったことですが、彼は私が住んでいる世界とは別の世界に住んでいました。
彼がさっきの音楽はどうやって聞こえたのかと聞いてきたので、私はもう一度「ジムノペディ」を弾いてみせました。
「なるほど、これは触れば音楽が再生されるんですね」
と納得したように言うものですから、私はピアノの仕組みを細かく話したのです。
彼は私の話を何度も頷きながら聞いた後、私よりも上手に「ジムノペディ」を弾いてみせました。
私は彼が私を騙したんだと思って、彼に
「馬鹿にしているの?」
と少しヒステリックに叫んでしまったのです。だって、私よりもピアノが上手なのにわざわざピアノそのものを知らない素振りをして近付いてくるなんて、失礼ではありませんか。
私の声に彼は驚いた顔をしました。
「ごめんなさい、貴女を怒らせるつもりは本当に無いんです。決して」
ピアノの椅子から降りると彼は私に頭を下げました。
「じゃあどうしてピアノを知らない振りなんてしたんです。そんな上手に弾けるのに、知らない筈がないじゃないですか」
「違うんです。その……突然変なことを話してしまうんですが、俺は魔法が使えるんです」
私は彼に向ける視線を更に強くさせました。五十年以上生きてきて、魔法なんぞに出会ったことがなかったからです。
彼が私に対して嘘をついてる風には感じませんでしたが、それでも私は怒りを抑えられませんでした。今だから分かることですが、私はきっと嫉妬していたんだと思います。あんなにあっさりと上手にピアノを弾かれてしまったことが憤りの原因になっていたことは、当時の私も薄々感じていたとは記憶しています。
彼の必死な謝罪と、私が大切にしていた割れてしまった花瓶を何も使わずに直したこと、そしてもう一度今度は手を触れずに「ジムノペディ」を演奏してみせたことから、私は彼が本当に魔法使いであることを信じたのです。
それから彼はしばしば私の家を訪れるようになりました。
夫が亡くなって子供も家を出たことから寂しかった私は、話し相手が出来たことをとても喜んだものです。彼もまた、一人ぼっちのようでした。
彼は私の家事をよく手伝ってくれました。ジャムを入れる重たい瓶を持ち上げてくれたり、長いこと使っていなかった蔵の掃除をあっという間に終わらせてくれたり、時には家中の窓(それも屋根の上の手が届かないような窓もです。)を魔法で磨きたてのようにしてくれました。
しかし、彼は私の粘土と刺し子の趣味だけは眺めているだけでした。一緒にやってみましょうよ、と何度も声はかけましたが、彼は
「新しいものを創り出すことは出来ないんです」
と言って針を持つことはありません。それでも、私が作ったものと同じものを作ることは出来るようでした。その当時は、魔法使いとうのは新しいアイディアを生み出すことが苦手なのだと私は解釈していたのです。
ある時、そうあれはしとしとと蒸し暑い雨の降る日のことでした。
私がこの日記を書いていると「朝子さん」と私を呼ぶ声が庭から聞こえてきたのです。時期も終わりかけの紫陽花の束からいつものように彼が現れました。
「この間弾いていたあの曲をまた聴かせてくれませんか」
真面目な顔で来るものですから、てっきりお引越しの話かと構えていた私はびっくりしてしまいました。それに、彼は私よりも遥かに上手に弾くことが出来るじゃないですか。
「朝子さんが弾いたものを聞きたいんです」
随分真面目な顔で言うものですから、私は彼を部屋へ招き入れると調律が済んだピアノを開き「ジムノペディ」を弾いてみせました。
夫が最期を迎えるまでお世話になった病院のロビーで流れていたこの曲は、何となく死の香りを運ぶような感覚が私にはあります。決してそんな曲では無いけれど、今日の雨の音も加わって窓の外に死神が立っているように感じたのです。
最後まで弾き終わると、彼は拍手をする訳でもなく小さく頷いていました。
「何か変だったかしら」
「いえ、この間聞いた時とは少し違うように感じたので」
「調律したからじゃない?」
「そうではなくて……もう一度、弾いて貰えませんか」
彼が私をからかっている訳では無いことを分かっていたので、私は結局あれから五回も「ジムノペディ」を弾きました。
ピアノに映る彼の姿を見ると、目を瞑ってじっとメロディを聴いているようです。
五回目を弾き終えてから私は彼の方へと体を向けました。
「何か分かったの?」
「朝子さんが弾いているのを聴くのはこれで八回目ですが、全て微妙に違いがあるんです。どこかの音の強弱とか、速さとか。メロディ自体が崩れることは決してないですが、メロディが崩れる範囲には及ばない微々たるところで違いを感じたんです」
私は彼の話を聞いてぽかんとしてしまいました。
「もしかして、皆が皆いつも同じように弾けるとでも思っているの?」
彼もまた私の質問にぽかんとしてしまいました。
「同じ料理レシピを見てきちんと分量通りに作っても、人によって違うものが出来るのよ。その人の好みとか気持ちで分かれるから。……魔法はそういうことは無いの?」
「そんなことは考えたことが無かったです。俺が朝子さんからピアノを教わっても、朝子さんと全く同じふうに弾けるわけではないって事ですか?」
「それはそうよ。似せることは出来ても、貴方の人柄やその時の感情で変わるものだから。芸術ってそういうものよ」
彼はもう一度ピアノを眺めてから、私にピアノを教えて欲しいと頭を下げました。
「ピアノを通じて、自分のことを見たいんです。……それと、」
トン、と大粒の雨が屋根を叩く音がしました。
「朝子さんのことももっとよく知りたいです」
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