シュヴァーベン都市同盟との対立と借金の抵当

 1376年、神聖ローマ皇帝カール4世が長子のヴェンツェルをローマ王にするため、選帝侯たちへの買収資金を調達すべく、帝国都市・自由都市に高額の租税を課した。

 これに対し、ウルムの提唱により、コンスタンツ、ラーフェンスブルク、メミンゲン、ロイトリンゲン、ロットウァイルなどの諸都市が自立性を守るためシュヴァーベン都市同盟を結成する。

 シュヴァーベン都市同盟は、ヴュルテンベルク伯ウルリヒをロイトリンゲン近傍で破ったことで、カール4世に同盟の存在を認めさせることに成功した。

 また、シュヴァーベン都市同盟に加盟する帝国都市・自由都市を売却、質入れなどを行わない旨の確約をカール4世から取り付けている。

 その理由としては、帝国都市や自由都市は絶えず売却、質入れ(帝国担保)の危険にさらされていたからだ。

 1330年に神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世は、帝国都市ネッカーゲミュントをライン宮中伯(プファルツ選帝侯)に質入れしている。1346年にこの都市はメッケスハイム・ツェントに属したものの、1395年にネッカーゲミュントはプファルツ選帝侯(ライン宮中伯)ループレヒト2世によって併合され、帝国都市の地位を失うこととなる。

 因みに、プファルツ選帝侯ループレヒト2世は、フリードリヒの姉であるエリーザベトの舅に当たる人物だ。

 シュヴァーベン都市同盟は、1381年にはライン都市同盟とも連携し、帝国都市レーゲンスブルク、自由都市ニュルンベルクも加盟し、1385年には加盟都市約40に達する強力な勢力となっていた。

 

 私はニュルンベルク城伯家の宿敵である自由都市ニュルンベルクがシュヴァーベン都市同盟に加盟する可能性があることを父フリードリヒ5世に告げている。そのため、父の巧みな政治手腕により、ローマ王ヴェンツェルから当家に質入れさせることに成功していた。

 勿論、自由都市ニュルンベルクは、ヴェンツェル王の決定を不服とし、史実と同様にシュヴァーベン都市同盟に加盟している。

 ニュルンベルク城伯家は、自由都市ニュルンベルクを実効支配出来てはいないものの、名目上は当家が担保として押さえている状態であった。自由都市ニュルンベルクは、シュヴァーベン都市同盟への加盟前に担保として受け取ったため、シュヴァーベン都市同盟に今更加盟しようとも、名目上担保になったことには変わりない。

 因みに、父フリードリヒ5世は、フランケン公位を手に入れるため、ヴェンツェル王に更なる貸し付けを行っている。自由都市ニュルンベルクはあくまでも担保であるが、担保にした貸し付け額などが巧みであったため、更なる貸し付けによって、より大きな利を当家に齎すことだろう。

 父はカール4世の宮廷で政治的駆け引きを巧みにこなしてきただけのことはある。


 ヴェンツェル王は、即位後に父のカール4世と同様に、シュヴァーベン都市同盟に正式承認を与えたが、帝国諸侯とシュヴァーベン都市同盟の対立は解消されることは無かった。帝国諸侯はシュヴァーベン都市同盟に対抗し、団結して都市同盟との戦争に突入する。

ヴェンツェル王は、1382年から1384年にかけて度々、都市同盟の解散を命じたが効果はなく、両者は規模を拡大させ1388年に大規模な衝突をした。

 シュヴァーベン都市同盟軍は、デフィンゲンの戦いで帝国諸侯軍に大敗を喫する。勿論、父フリードリヒ5世が率いる軍勢も参加していた。

 デフィンゲンの戦いの大勝に乗じて、抵当として押さえた自由都市ニュルンベルクを父は攻めんとしたが、他の帝国諸侯たちに止められてしまう。ヴェンツェル王からも自由都市ニュルンベルク攻めを止められ、仮にニュルンベルクを降伏させても、フランケン公領創設は認められない旨を暗に伝えられたことで、父は怒り狂う。

 父は内々にヴェンツェル王から借金のカタに抵当として押さえた自由都市ニュルンベルクを併合した暁には、フランケン公領創設を認めさせていたのだ。根回しを済ませており、後は実行するだけのところで掌返しをされたことに、父が怒らないはずが無い。

 ヴェンツェル王は内々にフランケン公領創設を認めていたものの、ニュルンベルク城伯が自由都市ニュルンベルクを攻めることで、シュヴァーベン都市同盟との数年に渡る争いが更に泥沼化することを危惧した廷臣や帝国諸侯たちの意見によって止められたのである。デフィンゲンの戦いで帝国諸侯軍が大勝したこで、数年に渡る争いを有利に終わらせたい帝国諸侯と軍費の不足から更なる戦争の継続は無理と判断した廷臣の意見が一致した形である。ニュルンベルク城伯の勢力が拡大することを恐れた帝国諸侯や戦費のために更に借金が増えることを廷臣たちが嫌ったと言う側面もあった。

 怒った父フリードリヒ5世は、ヴェンツェル王に対して、借金の返済を求めることとなる。しかし、ヴェンツェル王は借金を返せるはずなど無く、両者は協議を重ねることとなった。父はヴェンツェル王の態度に怒ってはいるものの、兄の婚約の件があるため、穏便に済ませたいと言う事情もある。シュヴァーベン都市同盟との戦争のせいで、兄ヨハンと皇女マルガレータの婚姻が少し遅れていたのだ。皇女マルガレータは1388年には15歳であり、諸侯間婚姻を考えると当年に結婚していてもおかしくはない。シュヴァーベン都市同盟に大勝したからには、帝国諸侯に有利な形で戦争を終わらせ、来年にはニュルンベルク城伯家とルクセンブルク家の婚姻を成させたいとの思惑は一致している。

 ヴェンツェル王と父フリードリヒ5世の協議の結果、借金の抵当にルクセンブルク公領を譲り渡すことに決まった。ルクセンブルク公領は、元々はヴェンツェル王はと同名の叔父ヴェンツェル1世が相続したのだが、1383年に薨去したことで、ヴェンツェル王がルクセンブルクを受け継いだのであった。史実では、1388年にヴェンツェル王はルクセンブルクを従兄弟のモラヴィア辺境伯ヨープストへ借金の抵当として渡してしまう。ハンガリー王ジギスムントも同年にブランデンブルク辺境伯領を借金の抵当にヨープストへ渡している。

 この世界では、私の提案により、父フリードリヒ5世から借金をしているので、ルクセンブルク公領は当家への借金の抵当となることになったのであった。条件付きではあるが、その条件は、ルクセンブルク公領は皇女マルガレータと結婚した兄ヨハンへ相続させることと、兄とマルガレータの間に男系男子がいない場合は、ルクセンブルク家の男子が相続すること、更なる追加の借金などである。

 こうして、兄ヨハンが皇女マルガレータとの婚姻が1389年に執り行うことに決まり、父はルクセンブルク公フリードリヒ1世となることになったのであった。

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