近所の黒髪長髪美形で興奮するおじさんの話

草森ゆき

*


 仕事以外の時間を母親の介護に充てる日々は灰色で、殆ど枯れ草のように生きていた。痴呆も進み拵えた介護食を投げ付けられ、私は何処だと私に向かってがなりたてる母親に昔の慈愛は感じ取れない。この疲労からいつ解放されるだろうかと考えては、自分の掌が母の首元に沈む空想をした。それでも気分も状況も晴れず、私は疲れ果てていた。


 彼が越して来たのはそのような時期である。


「初めまして、清瀬と申します」

 そう朗らか極まりない微笑みで挨拶をした女性の後ろに、付き従うように立っていた男は私の視線も心も奪い去った。ひとつに束ねて後ろに流している黒髪は陽の光を受けて艶めき、何処か物憂げな表情が何とも言えず美しかった。背は高い。私よりも十センチは違うと思われた。物陰にそっと咲く花、それも私だけが見つけた特別な花を想起させるような佇まいであった。薄い唇と通った鼻筋……束ねきれずに零れている一筋の黒髪が、日焼けしていない肌の上では余計に艶かしく映る。首元まで隠すタートルネックシャツにより抑えられた露出がいっそう私の心を掻き乱した。

 釘付けになるあまりに殆ど女性の話を聞き流してしまったが、要するに二人は夫婦で、この地区にあった建売住宅を買い取った、ということらしかった。

 女性に促されてはっと気付いたような顔をした彼は(その表情もなんと狂おしかったことか!)私に視線を向けて小さく頭を下げてくれた。

「よろしくお願い致します、ご迷惑は、かけませんので」

 関西訛りの静かな声だった。私は生まれてこの方、実家を離れたことがない。関西人と言えば話し好きで喧しく、煩わしいものだと勘違いをしていた。彼の声は底に穏やかさを宿している耳心地の良い声であり、なんと言っても、物静かな風貌に合致していた。

 彼は直ぐに私から視線を外した。女性と共に去っていく後ろ姿を消えるまで見送り、そのあとに漸く彼を見つめている間は介護や仕事のことをすべて忘れ去れていたと気付いた。


 私の生活は一変した。

 母親に食事を投げ付けられても、仕事で細かいミスをしても、彼の姿を思い起こすだけで幸福になった。彼は清瀬隆という。伴っていた女性は清瀬加奈子、つまり彼の妻だったわけだがそんなことは問題ではなかった。元より私に彼の生活を狂わせようなどと浅はかな感情は微塵もない。

 隆は美しかった。小学校で養護教諭をしているのだと知った時は卒倒しそうになったものだ。白衣の天使を想起し、私は勃起していた。彼に相応しい職業はこれ以上にないではないか! 彼が白衣を身に纏い、児童の手当てをする様は菩薩像に匹敵する尊崇を集めるに相違ない。少なくとも私は感極まり勃起をした。隆は素晴らしい、健気で慈愛に満ち、なんと美しいことか。

 食材を購入にスーパーへ行くと、しばしば隆と顔を合わせることが出来た。声をかければはっとして振り向き、微かに笑みながら頭を下げてくれる。どうも、妻である加奈子は忙しいようだ。家事の殆どは隆が請け負っているのだろうと推測できた。

 親に食べさせる柔らかい食事を作りながら、隆はどのような料理をするのだろうかと想像した。一般的な家庭料理だろうか。家の前を通りがかるときに匂いを確認してみたこともあるが、その日は匂い立つ料理ではなかったようで判別できなかったのだ。

 調理をする隆の姿を脳裏に浮かべた。束ねた黒髪は彼が食材を刻むたびに揺れる。後ろ姿は泉にそっと降り立った白鳥の如く密やかで神聖なものである。私は想像上の隆に歩み寄り、背後からそっと腰を抱くのだ。はっとして振り返る彼の驚きに満ちた表情はどこかあどけなく、ふと香った料理の香りに私は……。

 その晩、隆の佇まいを思い返して眠り、起きると夢精していた。不思議と安堵の心地であった。その日から私は隆の裸体を妄想し、一人で扱き続けた。



 一年ほど経った頃、彼の妻である清瀬加奈子が自殺した。そう聞いたが真偽のほどはわからない。私は隆の身を心配し、それとなく様子を覗ってはみたが、あまり立ち入るべきではないと理解もしていた。

 私の親ももう長くはない。所詮はただの近所である、家庭の内情に深く立ち入るような真似は出来ないのだ。しかし、隆は加奈子を大切にしていた。それだけはわかる。彼はいつも加奈子に追従し、加奈子しか見えていない、という雰囲気を全身から放っていた。

 何度か、仕事からの帰り道らしき隆を捕まえて話をした。彼は存外穏やかな様子で、一応は安堵したのだが、ある日いつもとは違う様子で家の前を通りがかった。

 思わず家を飛び出して隆に話し掛けていた。

「た……清瀬さん、どうしたんですか、その格好は……それにその怪我は!」

 彼の衣服は皺が寄って乱れており、顔は明らかに腫れ上がっていた。唇の端には乾いた血液がこびり付いて痛々しく、私は思わず傷に触れそうになったがどうにか堪えた。髪は解かれていた。長い黒髪が肩をすべって胸元まで落ち、闇に包まれたような全身の中で白い肌だけが奇妙なまでに清らかで、楚々とした美しさが生まれていた。濃艶であった。

 隆は微笑んだ。まるで聖母の如く、何の問題もないという透徹な微笑みを向けてきた。

「少し、転んだだけです。ご心配ありがとうございます」

 ふらつきながら家の方向へ歩いていく隆を見送った。追い掛けようとしたが家の中で声を張り上げている母親に呼ばれ、仕方なく家の中へと戻った。


 床についてから、怪我を負った隆の姿を思い起こした。張り付いた血、艶かしい白い肌、闇に溶け合う緑の黒髪、透いた微笑み……すべてが絶妙な調和を果たし、完璧であった。

 私は衣服をずらして一物を握り締めた。そこは既に熱を集めて勃ち上がっていた。

 下手な嘘だとは私にもわかっている。誰かに暴力を受けたのだと見ただけでわかる怪我だ。脳裏にその誰かを思い浮かべる、それは私の風袋をした、暴力装置そのものである。私はおびえる隆を抑え付けて首に手をかけた。絞め殺さない程度に体重をかけながら、じわじわ恐怖に飲まれてゆくその美しい双眸、美しい鼻筋、美しい輪郭を視線で蹂躙して、不意に手を離したあと頬を殴り付け髪を掴む。隆は呻き、逃れようと身を捻るが黒く長い髪を全身全霊引っ張って引き戻す。うつ伏せになった彼にまた馬乗りになり、首元すべてを覆い隠すタートルネックを、殆ど無理やり裂くように剥ぎ取っていく……。露わになった白い肌に吸い付かず私は彼の体を殴り、蹴り、赤黒い痣を刻み込んで歓喜に打ち震える。怯えた目線が至福の悦びを連れて来る、やめてください、と訛りのある震える声でささやくように絞り出されれば私の絶頂は間近だ。顔を殴り、濁った声を上げる隆を組み伏せて再び首に手をかける。今度は、絞め殺さんばかりの力を込めて……。

 ああ、甘美極まりない妄想である! 禍々しいまでの暴力が、清廉な菩薩を踏み躙り、慄かせ、血を吐かせていくのだ!

 隆を蹂躙する想像で私は三度吐精した。青臭い香りが鼻をついて不快だったが、同時に清々しい気分でもあり、隆の存在に心底感謝の念を覚えた。

 彼のお陰で灰色であった日々は鮮やかさを取り戻した。この上ない幸福であった。



 それから少し経ち、母親は鬼籍に入った。最期まで私を罵倒していたがどうでもいいことだった。これで私は自由そのものである。隆への妄想を現実のものとしてしまっても、何の問題もなくなった。

 ところで隆の家には最近友人が訪れる。突き刺すような光を帯びた印象の男だ。身長は高く、目鼻立ちは整っているが、何処か粗暴な雰囲気もある。近くを通りかかった際に挨拶をしてみれば、笑いながら頭を下げてきた。その時は好青年、という印象に切り替わったが、去っていく後ろ姿にはなにかしら冷たいものを感じた。

 隆とは相性が悪そうであった。私は非常に心配をした。しかし直ぐにそう言ってはられなくなった。

 左遷である。親がなくなり自由になった私は転勤を命じられたのだった。



 転勤先の独居アパートに移り住んだあとも隆は私の心の支えであった。美しい佇まいを思い返すだけで魂が若返り股間は息を吹き返した。あの艶めく黒髪に鼻先を押し込んで匂いを嗅ぐ、白い磁器のような首筋に指を絡ませ縊る想像をする。

 そうして射精し、ああ今頃彼はどうしているだろうかと夢想した。


 私は日々、彼の存在により生きていく。

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