第6話 日本文化と科学的思想・石原純 (新字新仮名)

今日きょう伏字ふせじ漢字かんじいちからろく小1しょういちから小6しょうろくなな中学ちゅうがくおぼえる常用じょうよう漢字かんじです)

 ※ 日本にほんらすすべてのひとは、すべからくこれらの常用じょうよう漢字かんじっておくべきとされています。

小1,❶: 大

小2,❷: 多,考

小3,❸: 事,実,想

小5,❺: 境,性,象

中学,❼: 環


学習がくしゅうコンテンツ

 ※ 仮名がな漢字『かんじ』(『かんじ』)のよう括弧かっこいた漢字かんじ原書げんしょ仮名がないている漢字かんじです。これらは伏字ふせじから除外じょがいします


作品さくひんめい日本にほん文化ぶんか科学的かがくてき思❸しそう

著者ちょしゃめい石原いしわらあつし


 種々しゅじゅ学術がくじゅつなか科学かがくとく数学すうがく自然しぜん科学かがく純粋じゅんすい客観的きゃっかんてきなものであり、したがってもっと国際的こくさいてきなものとしてかんがえられてきたのほとんど当然とうぜんなされていたにもかかわらず、ひとたびドイツどいつにおいてナチスなちす政治せいじがはじめられるにおよんで、その強烈きょうれつ国粋こくすい主義しゅぎ❸現じつげんとともに、ユダヤゆだや思❸しそう排撃はいげきおこなわれ、ついに科学かがく民族❺みんぞくせい主張しゅちょうさけばれ、ドイツどいつ数学すうがくドイツどいつ物理学ぶつりがくのごときが強調きょうちょうせられるにいたったの世界せかいにおけるひとつのおどろくべき思❸的しそうてき異変いへんといわねばならない。

 ところで国粋こくすい主義しゅぎのしょうどう日本にほんにおいても近時きんじいちじるしくさかんであるの、あたかもドイツどいつているともいわれるであろう。たとえここにはかのごとき政治的せいじてき強圧きょうあつおこなわれていないといっても、くち日本にほん精神せいしんたたえないものあたかも国民こくみんであるかのごとくになされるばかりである。まことにおそろしいなかであるといわねばならない。だが、しかしわれわれどこまでも冷静れいせいにこの日本にほん精神せいしんなるものの内容ないよう検討けんとうしてゆくことをわすれてならない。そこにわれわれが今日こんにちぜひとも必要ひつようとする科学的かがくてき思❸しそうがどれほどふくまれているのであるか。もしこれが十分じゅうぶんでないとするならば、それそもいかなる❸情じじょう由来ゆらいするのであるか。これらにかんする根本的こんぽんてき❷察こうさつ、われわれの日本にほん文化ぶんか将来しょうらいにおいてただしくみちびくために絶対ぜったい必要ひつようであって、かような❷慮こうりょなしにたん国粋こくすい主義しゅぎ固執こしゅうするのむしろはなはだ危険きけん思❸しそうてき傾向けいこうであるとせねばならないであろう。

 わたしるところで日本にほん精神せいしんといえども、そのなか民族みんぞく固有こゆうな、いわば先天的せんてんてき要素ようそもありるであろうが、しかし同時どうじ歴史的れきしてき日本にほん文化ぶんか形作かたちづくられて過程かていにおける❼❺かんきょうによって支配しはいされたおおくの要素ようそをもふくんでいるのである。それゆえにすでに❼❺かんきょうことなる有様ありさま到達とうたつしたうえ、われわれむしろここに適応てきおうする精神せいしん内容ないよう十分じゅうぶん発達はったつさせねばならないのであって、そうでなくて国家こっか民族みんぞく発展はってんられないの、これこそ進化しんかがく普遍的ふへんてき原理げんりである。❼❺かんきょうのいかんにかかわらず、従来じゅうらい精神せいしん思❸しそうたんにそのままに固守こしゅすることを原理げんりとするごとき国粋こくすい主義しゅぎ、それの偏狭へんきょうせい独断どくだんせいとによって、やがてそれ自身じしん衰滅すいめつせしめるであろうことおそらく科学的かがくてき❸証じっしょうされるのである。すなわち国粋こくすい主義しゅぎそれの精神せいしん内容ないよう現❸げんじつ❼❺かんきょうにどこまで適応てきおうするかいなかをつまびらかに検討けんとうしたうえで、はじめてその価値かち判断はんだんるのであって、これをいてたんにそれにはしること、あたかも断崖だんがいにむかって盲目的もうもくてき突進とっしんすると同様どうよう危険❺きけんせいをさえ包蔵ほうぞうするとかんがえられる。

 わたし従来じゅうらい日本にほん文化ぶんか科学的かがくてき思❸しそうにおいてきわめて貧困ひんこんであったことをいいたかったのである。日本にほんのみでなく支那しなインドいんどふく東洋とうようにおいて何故なぜ自然しぜん科学かがくおこらなかったかとうことについて周到しゅうとう検討けんとうようするとおもう。これをもってたん東洋とうよう精神せいしんのなかに科学的かがくてき思❸しそうけているとうことにするだけでなに価値かちもない。それたしかな❸❸じじつであるにちがいないが、この❸❸じじつ結果けっかせしめねばならなかったところの過去かこ歴史的れきしてき❼❺かんきょうがどんなものであったかを、われわれ分析ぶんせき❷究こうきゅうしなくていけない。そのうえではじめて民族的みんぞくてき本質ほんしつ姿すがたしん闡明『せんめい』せられるのであって、だからこそわたし一定いってい❼❺かんきょうのもとにのみあらわれた過去かこ精神せいしん内容ないようをただちにわれわれに固有こゆうなものと思惟しいするのをあやまっているとするので、これについてもしん科学的かがくてき心理しんり❷察こうさつようするとかんがえるのである。

 すでに一般いっぱんられているとおりに、日本にほん文化ぶんか特質とくしつ、いつも具❺的ぐしょうてき直観的ちょっかんてき❸物じぶつ❷察こうさつにおいてあらわれ、しかもそれがほかるいないほどな緻密ちみつ細微さいびいき到達とうたつしているのである。同一どういつ言語げんご表現ひょうげん様式ようしきがきわめて❷種類たしゅるいにわたるとうわが国語こくご特異❺とくいせいや、日本にほん文学ぶんがくおよびほか芸術げいじゅつにおける情趣じょうしゅてき感覚かんかく一種いっしゅ風格ふうかくやいわゆるしょ芸道げいどう独自的どくじてき発達はったつのごとき、ことごとくこれにぞくするものである。ところがこれにかえして抽❺的ちゅうしょうてき論理的ろんりてき思❷しこういたってそのるべきものがきわめて『まれ』であるとうことじつおどろくばかりである。だが、しかしこのことによってただちにわが日本にほん民族みんぞくかような抽❺ちゅうしょうてき論理的ろんりてき思❷しこう先天的せんてんてき欠如『けつじょ』していると速断そくだんしていけない。むしろ❷年たねん歴史的れきしてき❼❺かんきょうがわれわれをしてかくあらしめたとかんがえることができるからである。

 わたししかしここに注目ちゅうもくすべきひとつの❸❸じじつ『とら』えることができるようにおもう。日本人にほんじん具❺的ぐしょうてき直観的ちょっかんてき❸物じぶつ❷察こうさつのみをおこなっていたとうことあたえられた自然的しぜんてき❼❺かんきょうのなかに満足まんぞくをもとめていたのを意味いみするのである。たといその国土こくど各自かくじ生活せいかつたいしてめぐまれたものであったとしても、それ以上いじょうおおくをもとめることにあえてすすまなかったとうのたしかにそれだけ楽天的らくてんてきもしく諦念『ていねん』てきであったゆえでないであろうか。西欧人せいおうじんがむしろ陰惨いんさん深刻しんこく❺情せいじょうをもっているのにくらべて、日本人にほんじんかえって安泰あんたい明朗めいろうである。支那しなにおいて仏教ぶっきょういちじるしく厭世的えんせいてき否定的ひていてきであるのにくらべてさえ、日本にほん伝来でんらいしてたしかにその傾向けいこううすくしている。もしかようなものがわれわれの民族的みんぞくてき特質とくしつであるとするなら、それややもすればわれわれを偸安『とうあん』てきみちびくものとしておおいに『いまし』めねばならないとおもわれる。

 しかしこれとても穏和おんわうつくしい風土ふうどめぐまれたとともに、従来じゅうらい日本にほん国際的こくさいてき孤立こりつ❼❺かんきょうかれて、外敵がいてきうれえることをほとんどようしなかったような❷年たねん歴史れきし国民こくみんにかような習❺しゅうせい形作かたちづくるにいたらしめたとることがおそらくただしいのであって、たん抽❺的ちゅうしょうてきにこの歴史的れきしてき地理的ちりてき❼❺かんきょうからはなして民族❺みんぞくせいかんがえること人間にんげん心理しんり発展はってん過程かてい無視むししたものであろう。

 ともかくこのようにして東洋とうよう学術がくじゅつほとんど具❺的ぐしょうてき直観的ちょっかんてき思❷しこううえっている。自然しぜん科学的かがくてきなものとして、わずかに暦学れきがく漢方かんぽう医学いがく本草『ほんぞう』がくのごときがあるにぎないが、それらがまったく直観的ちょっかんてき経験けいけんうえにのみ形作かたちづくられ、一歩いっぽ抽❺的ちゅうしょうてきすすまなかったの、むしろ顕著『けんちょ』かんていしている。おおくの❸用的じつようてきしょ技術ぎじゅつのまた同様どうようであったのも注目ちゅうもくされねばならない。

 ところがこのあいだにあってひとり数学すうがくがはなはだ抽❺的ちゅうしょうてきすすんだの一見いっけん奇異きいかんがある。すなわち和算『わざん』しょうせられるもの最初さいしょ支那しな算法さんぽうから発展はってんしたものであるが、十七じゅうなな世紀せいき以後いごおおいにすすみ、関孝和『せきたかかず』一六四二せんろっぴゃくよんじゅうにねんから一七〇八せんななひゃくはちねん)にいたって筆算ひっさんしき代数学だいすうがく創案そうあんをはじめとし、方程式ほうていしきろん行列ぎょうれつしきろん無限むげん級数きゅうすう極❶きょくだい極小きょくしょう問題もんだい整数せいすうろん三角さんかくじゅつなどかんする高等こうとう数学すうがくをとりあつかい、そのいちじるしい発達はったつ❸現じつげんせしめたことじつおどろくにりる。爾後『じご』明治めいじ初年しょねんいたるまでおおくの和算家わさんか輩出はいしゅつしたが、この一❸いちじ日本人にほんじんにおいてもまた抽❺的ちゅうしょうてき論理的ろんりてき能力のうりょくけっしてけているものでないことをしめひとつの❸証じっしょうとして、われわれのおおいにつようするにりるものである。だがしかもそれ一般いっぱんにいえばかえってあまりにも抽❺的ちゅうしょうてきぎるものであった。つまり、これらの和算家わさんかのとりあつかった問題もんだいすべてそれ自身じしん知能的ちのうてき技術ぎじゅつ誇示こじするものでしかなかった。それあたかも将棋しょうぎのような知能ちのうてき遊戯ゆうぎ同等どうとうかんさえある。しかも当時とうじ封建的ほうけんてき社会しゃかいにあって、これらの知識ちしきいたずらに秘伝ひでんとして隔絶かくぜつせられて、一般的いっぱんてき普及ふきゅう機会きかいうしなうとともに、この抽❺的ちゅうしょうてき思❷しこうほか具体的ぐたいてき❸物じぶつうえ利用りようすることがまったくおこなわれなかった。

 せき孝和たかかずニュートンにゅーとん一六四二せんろっぴゃくよんじゅうにねんから一七二七せんななひゃくにじゅうななねん)と同年どうねんうまれていること歴史的れきしてきおおいにわれわれの興味きょうみをひくところであるが、ニュートンにゅーとん万有ばんゆう引力いんりょく問題もんだいくために微積分びせきぶんがく発明はつめいしたのにかえして、せき孝和たかかず純粋じゅんすい抽❺的ちゅうしょうてき種々しゅじゅ数学的すうがくてき関係かんけいみちびしたとてんにおいて、たとい数学すうがくじょう功績こうせきかんしておおなどろんじないとしても、それの一般いっぱん学術的がくじゅつてき効果こうかたいする重❶じゅうだい差別さべつしょうじたのであった。これについて既述きじゅつのごとく社会的しゃかいてき❼❺かんきょうおおいに作用さようしているのもちろんであるが、ともかくニュートンにゅーとん以後いご西洋せいようにおいてあれほどすばらしく自然しぜん科学かがく発達はったつしきたったと❸❸じじつと、わがくににおいてそれの微細びさい萌芽『ほうが』さえもられなかったことを対比たいひして、われわれいまさらに両者りょうしゃいちじるしい相違そういおどろかないわけにゆかないであろう。

 西洋せいよう自然しぜん科学かがくがわがくに輸入ゆにゅうされて、今日きょうともかく同等どうとう科学かがくてき知識ちしき獲得かくとくするにいたったの幸慶こうけいあたいする。だが、わたしのとくに注意ちゅういしたいこと知識ちしき一朝いっちょうにしてまなるものであっても、これが根本ねもとをなすところの科学的かがくてき思❸しそう涵養『かんよう』けっしてさほど容易よういないとてんである。今日きょうまでの日本にほん文化ぶんかにおいてこの科学的かがくてき思❸しそう『か』いていたのいち従来じゅうらい❼❺かんきょうによるのであるとほぐしたところで、さて❼❺かんきょう変化へんか民族みんぞく思❸しそう具体的ぐたいてき影響えいきょう持来もちきたさしめるまでにじつにそのあいだにおける❷❶ただい努力どりょく奮励ふんれいとを必要ひつようとしなければならない。今日きょうもとより国家こっか存立そんりつ重❶❺じゅうだいせいについて十分じゅうぶんざめているものにとって、この異常いじょう決意けつい遂行すいこう可能❺かのうせいうたがうべきでないとしても、われわれなおそこに一抹『いちまつ』憂慮ゆうりょるわけにゆかないのである。

 わがくに科学的かがくてき研究けんきゅうにおいてなお創意的そういてきなるもののはなはだとぼしいのげん否定ひていせられない❸❸じじつである。これ一面いちめんにおいて科学的かがくてき思❸しそう涵養『かんよう』不足ふそくをものがたるとともに、他面ためんにおいて上述じょうじゅつ❷年たねん偸安『とうあん』てき習❺しゅうせいわざわいしているのでないかとかんがえられる。このことをもって、ドイツどいつじん由来ゆらい世界せかいにおいて科学的かがくてき思❸しそうもっとちょうじているのと対比たいひするならば、いたずらに表面的ひょうめんてきにのみドイツどいつ国粋こくすい主義しゅぎ模倣もほうすることの危険❺きけんせいあきらかにすることができるであろう。同一どういつ国粋こくすい主義しゅぎ名目めいもくのもとに、だがドイツどいつ科学かがく対比たいひするどんな日本にほん科学かがくがありるのであるか。しかも今日こんにち科学かがく有無うむこそ国家こっか運命うんめい決定けっていする最❶さいだい要素ようそであることうたがうべくもない。それゆえ日本にほん文化ぶんか将来しょうらいにおいて一層いっそうさかんならしめるためにわたしなにをおいても科学的かがくてき思❸しそう涵養かんようこそもっと重要じゅうようであるとしないわけにゆかないのである。


コンテンツこんてんつ


作品さくひんめい日本にほん文化ぶんか科学的かがくてき思想しそう

著者ちょしゃめい石原いしわらあつし


 種々しゅじゅ学術がくじゅつなか科学かがくとく数学すうがく自然しぜん科学かがく純粋じゅんすい客観的きゃっかんてきなものであり、したがってもっと国際的こくさいてきなものとしてかんがえられてきたのほとんど当然とうぜんなされていたにもかかわらず、ひとたびドイツどいつにおいてナチスなちす政治せいじがはじめられるにおよんで、その強烈きょうれつ国粋こくすい主義しゅぎ実現じつげんとともに、ユダヤゆだや思想しそう排撃はいげきおこなわれ、ついに科学かがく民族性みんぞくせい主張しゅちょうさけばれ、ドイツどいつ数学すうがくドイツどいつ物理学ぶつりがくのごときが強調きょうちょうせられるにいたったの世界せかいにおけるひとつのおどろくべき思想的しそうてき異変いへんといわねばならない。

 ところで国粋こくすい主義しゅぎのしょうどう日本にほんにおいても近時きんじいちじるしくさかんであるの、あたかもドイツどいつているともいわれるであろう。たとえここにはかのごとき政治的せいじてき強圧きょうあつおこなわれていないといっても、くち日本にほん精神せいしんたたえないものあたかも国民こくみんであるかのごとくになされるばかりである。まことにおそろしいなかであるといわねばならない。だが、しかしわれわれどこまでも冷静れいせいにこの日本にほん精神せいしんなるものの内容ないよう検討けんとうしてゆくことをわすれてならない。そこにわれわれが今日こんにちぜひとも必要ひつようとする科学的かがくてき思想しそうがどれほどふくまれているのであるか。もしこれが十分じゅうぶんでないとするならば、それそもいかなる事情じじょう由来ゆらいするのであるか。これらにかんする根本的こんぽんてき考察こうさつ、われわれの日本にほん文化ぶんか将来しょうらいにおいてただしくみちびくために絶対ぜったい必要ひつようであって、かような考慮こうりょなしにたん国粋こくすい主義しゅぎ固執こしゅうするのむしろはなはだ危険きけん思想しそうてき傾向けいこうであるとせねばならないであろう。

 わたしるところで日本にほん精神せいしんといえども、そのなか民族みんぞく固有こゆうな、いわば先天的せんてんてき要素ようそもありるであろうが、しかし同時どうじ歴史的れきしてき日本にほん文化ぶんか形作かたちづくられて過程かていにおける環境かんきょうによって支配しはいされたおおくの要素ようそをもふくんでいるのである。それゆえにすでに環境かんきょうことなる有様ありさま到達とうたつしたうえ、われわれむしろここに適応てきおうする精神せいしん内容ないよう十分じゅうぶん発達はったつさせねばならないのであって、そうでなくて国家こっか民族みんぞく発展はってんられないの、これこそ進化しんかがく普遍的ふへんてき原理げんりである。環境かんきょうのいかんにかかわらず、従来じゅうらい精神せいしん思想しそうたんにそのままに固守こしゅすることを原理げんりとするごとき国粋こくすい主義しゅぎ、それの偏狭へんきょうせい独断どくだんせいとによって、やがてそれ自身じしん衰滅すいめつせしめるであろうことおそらく科学的かがくてき実証じっしょうされるのである。すなわち国粋こくすい主義しゅぎそれの精神せいしん内容ないよう現実げんじつ環境かんきょうにどこまで適応てきおうするかいなかをつまびらかに検討けんとうしたうえで、はじめてその価値かち判断はんだんるのであって、これをいてたんにそれにはしること、あたかも断崖だんがいにむかって盲目的もうもくてき突進とっしんすると同様どうよう危険性きけんせいをさえ包蔵ほうぞうするとかんがえられる。

 わたし従来じゅうらい日本にほん文化ぶんか科学的かがくてき思想しそうにおいてきわめて貧困ひんこんであったことをいいたかったのである。日本にほんのみでなく支那しなインドいんどふく東洋とうようにおいて何故なぜ自然しぜん科学かがくおこらなかったかとうことについて周到しゅうとう検討けんとうようするとおもう。これをもってたん東洋とうよう精神せいしんのなかに科学的かがくてき思想しそうけているとうことにするだけでなに価値かちもない。それたしかな事実じじつであるにちがいないが、この事実じじつ結果けっかせしめねばならなかったところの過去かこ歴史的れきしてき環境かんきょうがどんなものであったかを、われわれ分析ぶんせき考究こうきゅうしなくていけない。そのうえではじめて民族的みんぞくてき本質ほんしつ姿すがたしん闡明せんめいせられるのであって、だからこそわたし一定いってい環境かんきょうのもとにのみあらわれた過去かこ精神せいしん内容ないようをただちにわれわれに固有こゆうなものと思惟しいするのをあやまっているとするので、これについてもしん科学的かがくてき心理しんり考察こうさつようするとかんがえるのである。

 すでに一般いっぱんられているとおりに、日本にほん文化ぶんか特質とくしつ、いつも具象的ぐしょうてき直観的ちょっかんてき事物じぶつ考察こうさつにおいてあらわれ、しかもそれがほかるいないほどな緻密ちみつ細微さいびいき到達とうたつしているのである。同一どういつ言語げんご表現ひょうげん様式ようしきがきわめて多種類たしゅるいにわたるとうわが国語こくご特異性とくいせいや、日本にほん文学ぶんがくおよびほか芸術げいじゅつにおける情趣じょうしゅてき感覚かんかく一種いっしゅ風格ふうかくやいわゆるしょ芸道げいどう独自的どくじてき発達はったつのごとき、ことごとくこれにぞくするものである。ところがこれにかえして抽象的ちゅうしょうてき論理的ろんりてき思考しこういたってそのるべきものがきわめてまれであるとうことじつおどろくばかりである。だが、しかしこのことによってただちにわが日本にほん民族みんぞくかような抽象ちゅうしょうてき論理的ろんりてき思考しこう先天的せんてんてき欠如けつじょしていると速断そくだんしていけない。むしろ多年たねん歴史的れきしてき環境かんきょうがわれわれをしてかくあらしめたとかんがえることができるからである。

 わたししかしここに注目ちゅうもくすべきひとつの事実じじつとらえることができるようにおもう。日本人にほんじん具象的ぐしょうてき直観的ちょっかんてき事物じぶつ考察こうさつのみをおこなっていたとうことあたえられた自然的しぜんてき環境かんきょうのなかに満足まんぞくをもとめていたのを意味いみするのである。たといその国土こくど各自かくじ生活せいかつたいしてめぐまれたものであったとしても、それ以上いじょうおおくをもとめることにあえてすすまなかったとうのたしかにそれだけ楽天的らくてんてきもしく諦念ていねんてきであったゆえでないであろうか。西欧人せいおうじんがむしろ陰惨いんさん深刻しんこく性情せいじょうをもっているのにくらべて、日本人にほんじんかえって安泰あんたい明朗めいろうである。支那しなにおいて仏教ぶっきょういちじるしく厭世的えんせいてき否定的ひていてきであるのにくらべてさえ、日本にほん伝来でんらいしてたしかにその傾向けいこううすくしている。もしかようなものがわれわれの民族的みんぞくてき特質とくしつであるとするなら、それややもすればわれわれを偸安とうあんてきみちびくものとしておおいにいましめねばならないとおもわれる。

 しかしこれとても穏和おんわうつくしい風土ふうどめぐまれたとともに、従来じゅうらい日本にほん国際的こくさいてき孤立こりつ環境かんきょうかれて、外敵がいてきうれえることをほとんどようしなかったような多年たねん歴史れきし国民こくみんにかような習性しゅうせい形作かたちづくるにいたらしめたとることがおそらくただしいのであって、たん抽象的ちゅうしょうてきにこの歴史的れきしてき地理的ちりてき環境かんきょうからはなして民族性みんぞくせいかんがえること人間にんげん心理しんり発展はってん過程かてい無視むししたものであろう。

 ともかくこのようにして東洋とうよう学術がくじゅつほとんど具象的ぐしょうてき直観的ちょっかんてき思考しこううえっている。自然しぜん科学的かがくてきなものとして、わずかに暦学れきがく漢方かんぽう医学いがく本草ほんぞうがくのごときがあるにぎないが、それらがまったく直観的ちょっかんてき経験けいけんうえにのみ形作かたちづくられ、一歩いっぽ抽象的ちゅうしょうてきすすまなかったの、むしろ顕著けんちょかんていしている。おおくの実用的じつようてきしょ技術ぎじゅつのまた同様どうようであったのも注目ちゅうもくされねばならない。

 ところがこのあいだにあってひとり数学すうがくがはなはだ抽象的ちゅうしょうてきすすんだの一見いっけん奇異きいかんがある。すなわち和算わざんしょうせられるもの最初さいしょ支那しな算法さんぽうから発展はってんしたものであるが、十七じゅうなな世紀せいき以後いごおおいにすすみ、関孝和せきたかかず一六四二せんろっぴゃくよんじゅうにねんから一七〇八せんななひゃくはちねん)にいたって筆算ひっさんしき代数学だいすうがく創案そうあんをはじめとし、方程式ほうていしきろん行列ぎょうれつしきろん無限むげん級数きゅうすう極大きょくだい極小きょくしょう問題もんだい整数せいすうろん三角さんかくじゅつなどかんする高等こうとう数学すうがくをとりあつかい、そのいちじるしい発達はったつ実現じつげんせしめたことじつおどろくにりる。爾後じご明治めいじ初年しょねんいたるまでおおくの和算家わさんか輩出はいしゅつしたが、この一事いちじ日本人にほんじんにおいてもまた抽象的ちゅうしょうてき論理的ろんりてき能力のうりょくけっしてけているものでないことをしめひとつの実証じっしょうとして、われわれのおおいにつようするにりるものである。だがしかもそれ一般いっぱんにいえばかえってあまりにも抽象的ちゅうしょうてきぎるものであった。つまり、これらの和算家わさんかのとりあつかった問題もんだいすべてそれ自身じしん知能的ちのうてき技術ぎじゅつ誇示こじするものでしかなかった。それあたかも将棋しょうぎのような知能ちのうてき遊戯ゆうぎ同等どうとうかんさえある。しかも当時とうじ封建的ほうけんてき社会しゃかいにあって、これらの知識ちしきいたずらに秘伝ひでんとして隔絶かくぜつせられて、一般的いっぱんてき普及ふきゅう機会きかいうしなうとともに、この抽象的ちゅうしょうてき思考しこうほか具体的ぐたいてき事物じぶつうえ利用りようすることがまったくおこなわれなかった。

 せき孝和たかかずニュートンにゅーとん一六四二せんろっぴゃくよんじゅうにねんから一七二七せんななひゃくにじゅうななねん)と同年どうねんうまれていること歴史的れきしてきおおいにわれわれの興味きょうみをひくところであるが、ニュートンにゅーとん万有ばんゆう引力いんりょく問題もんだいくために微積分びせきぶんがく発明はつめいしたのにかえして、せき孝和たかかず純粋じゅんすい抽象的ちゅうしょうてき種々しゅじゅ数学的すうがくてき関係かんけいみちびしたとてんにおいて、たとい数学すうがくじょう功績こうせきかんしておおなどろんじないとしても、それの一般いっぱん学術的がくじゅつてき効果こうかたいする重大じゅうだい差別さべつしょうじたのであった。これについて既述きじゅつのごとく社会的しゃかいてき環境かんきょうおおいに作用さようしているのもちろんであるが、ともかくニュートンにゅーとん以後いご西洋せいようにおいてあれほどすばらしく自然しぜん科学かがく発達はったつしきたったと事実じじつと、わがくににおいてそれの微細びさい萌芽ほうがさえもられなかったことを対比たいひして、われわれいまさらに両者りょうしゃいちじるしい相違そういおどろかないわけにゆかないであろう。

 西洋せいよう自然しぜん科学かがくがわがくに輸入ゆにゅうされて、今日きょうともかく同等どうとう科学かがくてき知識ちしき獲得かくとくするにいたったの幸慶こうけいあたいする。だが、わたしのとくに注意ちゅういしたいこと知識ちしき一朝いっちょうにしてまなるものであっても、これが根本ねもとをなすところの科学的かがくてき思想しそう涵養かんようけっしてさほど容易よういないとてんである。今日きょうまでの日本にほん文化ぶんかにおいてこの科学的かがくてき思想しそういていたのいち従来じゅうらい環境かんきょうによるのであるとほぐしたところで、さて環境かんきょう変化へんか民族みんぞく思想しそう具体的ぐたいてき影響えいきょう持来もちきたさしめるまでにじつにそのあいだにおける多大ただい努力どりょく奮励ふんれいとを必要ひつようとしなければならない。今日きょうもとより国家こっか存立そんりつ重大性じゅうだいせいについて十分じゅうぶんざめているものにとって、この異常いじょう決意けつい遂行すいこう可能性かのうせいうたがうべきでないとしても、われわれなおそこに一抹いちまつ憂慮ゆうりょるわけにゆかないのである。

 わがくに科学的かがくてき研究けんきゅうにおいてなお創意的そういてきなるもののはなはだとぼしいのげん否定ひていせられない事実じじつである。これ一面いちめんにおいて科学的かがくてき思想しそう涵養かんよう不足ふそくをものがたるとともに、他面ためんにおいて上述じょうじゅつ多年たねん偸安とうあんてき習性しゅうせいわざわいしているのでないかとかんがえられる。このことをもって、ドイツどいつじん由来ゆらい世界せかいにおいて科学的かがくてき思想しそうもっとちょうじているのと対比たいひするならば、いたずらに表面的ひょうめんてきにのみドイツどいつ国粋こくすい主義しゅぎ模倣もほうすることの危険性きけんせいあきらかにすることができるであろう。同一どういつ国粋こくすい主義しゅぎ名目めいもくのもとに、だがドイツどいつ科学かがく対比たいひするどんな日本にほん科学かがくがありるのであるか。しかも今日こんにち科学かがく有無うむこそ国家こっか運命うんめい決定けっていする最大さいだい要素ようそであることうたがうべくもない。それゆえ日本にほん文化ぶんか将来しょうらいにおいて一層いっそうさかんならしめるためにわたしなにをおいても科学的かがくてき思想しそう涵養かんようこそもっと重要じゅうようであるとしないわけにゆかないのである。



■ 原書情報(青空文庫)

図書カード:No.55750 (新字新仮名)

https://www.aozora.gr.jp/cards/001429/card55750.html

https://www.aozora.gr.jp/cards/001429/files/55750_59491.html

底本:「現代日本記録全集9 科学と技術」筑摩書房

   1970(昭和45)年2月28日初版第1刷発行

底本の親本:「科学と社会文化」岩波書店

   1937(昭和12)年12月20日第1刷発行

入力:sogo

校正:高瀬竜一



今日きょう漢字かんじ説明せつめい(カタカナおんみ、平仮名ひらがなくんみです)

❶: 大 :ダイ・ダ・タイ・タ・おおおおきい・おおいに【かたち程度ていど規模きぼ数量すうりょうおおきい・たかあらわす】

❷: 多 :タ・おおい【かずりょうおおい/沢山たくさん

❷: 考 :コウ・かんがえる【おもめぐらす/おもはかる/工夫くふうめぐらす/こころみる】

❸: 事 :ズ・ジ・シ・ことつかえる【出来事できごと事柄ことがらき/仕業しわざひと行為こうい仕事しごと

❸: 実 :ジツ・みのる・ちる・まめまことさねくさもの中心ちゅうしんにあるかたところ

❸: 想 :ソウ・ソ・ショウ・おもう【おもかべる/かんがえをめぐらす】

❺: 境 :ケイ・キョウ・さかい土地とち区切くぎり/ものものとがせっするところ/範囲はんいない場所ばしょ

❺: 性 :セイ・ショウ・たちさが本性ほんしょうてんからあたえられた本質ほんしつさが雌雄しゆう牡牝おすめす男女だんじょべつ

❺: 象 :ゾウ・ショウ・かたちかたどる【陸上りくじょう動物どうぶつなかで、もっとおおきいけものえる姿すがた

❼: 環 :カン・ゲン・めぐる・たまき細長ほそながいものをげてまるくしたものの総称そうしょうかたちめぐってはしこと

 ※ 漢字かんじ説明せつめいは モジナビ https://mojinavi.com/ のかくページを参考さんこうにしています


今日きょう漢字かんじじゅんくわしい説明せつめいりたいかた此方こちらをどうぞ

小1,❶: 大 https://mojinavi.com/d/u5927

小2,❷: 多 https://mojinavi.com/d/u591a

小2,❷: 考 https://mojinavi.com/d/u8003

小3,❸: 事 https://mojinavi.com/d/u4e8b

小3,❸: 実 https://mojinavi.com/d/u5b9f

小3,❸: 想 https://mojinavi.com/d/u60f3

小5,❺: 境 https://mojinavi.com/d/u5883

小5,❺: 性 https://mojinavi.com/d/u6027

小5,❺: 象 https://mojinavi.com/d/u8c61

中学,❼: 環 https://mojinavi.com/d/u74b0



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★(通常つうじょうばん全部ぜんぶ漢字かんじルビるびってみたくはありませんか?

  https://kakuyomu.jp/works/1177354055305889978/episodes/1177354055328903319

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★(カタカナかたかなばん)このクラシカルくらしかるエッセイえっせいフリガナふりがなを!

  https://kakuyomu.jp/works/1177354055324161539/episodes/1177354055381506590

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★(ローマろーまばん)こんな漢字かんじローマろーまれるわけがない!?

  https://kakuyomu.jp/works/1177354055360859507/episodes/1177354055381578835

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https://www.aozora.gr.jp/

青空あおぞら文庫ぶんこ

 青空あおぞら文庫ぶんこだれにでもアクセスあくせすできる自由じゆう電子でんしほんを、図書館としょかんのようにインターネットいんたーねっとじょうあつめようとする活動かつどうです。

 著作ちょさくけん消滅しょうめつした作品さくひんと、「自由じゆうんでもらってかまわない」とされたものを、テキストてきすとえっくすHTMLえいちてぃえむえる一部いちぶHTMLえいちてぃえむえる形式けいしき電子でんししたうえそろえています。


https://www.aozora.gr.jp/guide/aozora_bunko_faq.html

きゅー青空あおぞら文庫ぶんこって、なにですか?

えー1997せんきゅうひゃくきゅうじゅうななねんはじまったボランティアぼらんてぃあ活動かつどうで、だれにでもアクセスあくせすできる自由じゆう電子でんしぼんを、共有きょうゆう可能かのうなものとして図書館としょかんのようにインターネットいんたーねっとじょうあつめようとしております。現在げんざい日本にっぽん国内こくない著作ちょさくけん保護ほご期間きかん満了まんりょうした作品さくひん中心ちゅうしんに、ボランティアぼらんてぃあのみなさんのちからによって電子でんし作業さぎょうすすめています。青空あおぞら文庫ぶんこそういった電子でんし活動かつどうのための、またその成果せいかぶつアーカイヴあーかいゔしておくためのでもあり、そこからコピーこぴーされたほん集成しゅうせい活用かつよう事例じれいもまた〈青空あおぞら文庫ぶんこ〉とばれることがあります。くわしく青空あおぞら文庫ぶんこのしくみ」(http://www.aozora.gr.jp/aozora_bunkono_shikumi.html)をご一読いちどくください。

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